パーティー:其の十一
凍った轍を音を立てて削りながら、バスがバス停の前で停車する。その車内の薄明かりから目を背け、蜜柑は隣に立つ朝陽へと振り返った。
「えと、それじゃあ、わざわざありがとうございました」
大きく頭を下げ、道路を見つめてから戻す。その先で、朝陽は笑っていた。
「いや、いいよ。危ないから。じゃあ、また今度」
「あ、はい。また今度、です」
もう一度、軽く会釈する。
バスに乗り込んで、窓際の席に腰を下ろす。窓の外では、寒さに鼻や耳を赤くした朝陽が、小さく笑って手を振っていた。
「……どうして、そんな顔するんですか」
我知らず、微かな呟きが漏れる。それほどまでに、その微笑みは蜜柑の心を痛めつけた。
蜜柑の表情を呼んだのだろう。朝陽の口元が元の位置に戻る。残念ながら、眉や目元の動きは特徴的な前髪で分からないが。
不意に、鞄の中の携帯が音を立てる。目の前のコミュニケーションを取るべき人を放って携帯に集中したのは、その着信音は朝陽からのメールだけだから。
『ごめん、なんて言ったかわからなかった。こっちでもいいかな?』
どこまでも、優しげなメール。顔を上げれば、さっきまでよりも微弱な笑み。
――――言っても、いいですか?
蜜柑をそんな気分にさせる、どこまでも無邪気な顔。
朝陽の事情は、文芸部に籍を置いた直後、千鶴が教えてくれた。又聞きしただけの蜜柑に、それを細かく想像することはできないが、十歳からほとんど一人暮らしのような生活を始めて、常に気を張って、『完璧』を成功条件にして、当たり前のはずの温もりを感じられないで生きてきて。
朝陽は、少し子供っぽい部分があるのだ。まるで、大人になる過程で埋まるはずのピースを、一つか二つ無くしてしまったように。それは、普段ほとんど気づかないような小さなものだが、ふとした瞬間、目に入るくらいには大きいものだ。
例えば、嫌味や暴言を軽く流せなかったり、いつまでも過去に囚われて足踏みしたり。そういうところは、きっと十歳のままなのかもしれない。親と喧嘩した後、誰一人として諭しも認めも、叱りもしてあげられなかった朝陽の、成長できなかった部分。
――――それを、きっと千鶴ちゃんは認めてあげたんですよね
朝陽の方を見ないようにして、携帯を操作していく。
『私は、朝陽さんのことが好きです』
送信ボタンの上で、指が震える。それでも指に力を込めて、画面に近づけて。
押したのは、削除ボタンだった。
十五回押して、白紙に戻す。
『いえ、何でもないです。パーティー、終わっちゃったな、って思ってただけですから。それじゃあ、また今度、お会いしましょう』
送信。画面上で緑の線が端から端まで到達し、送信が完了した。
『ああ、また今度な』
朝陽からのメールが届いた直後、バスが発車する。遥か後方に流れていく朝陽とバス停を見送って、蜜柑は手元の携帯に視線を戻した。
あんなメール、送れるはずがなかった。朝陽の答えを聞いてしまった今では、もう、叶わない想いなのだから。
本当は、言うつもりだった。例え叶わない思いだとしても、知っていて欲しいと。せめて、告げて、しっかり区切りをつけたいと。
なのに、それだけの決意を、朝陽はたやすく打ち砕いた。その表情で。声音で。
――――千鶴。俺は、千鶴が好きだよ
虚空を見つめ、その向こうに映る何かを見ていた朝陽。その表情は、見ていて分かるほど、千鶴を想っていた。
少しだけ緩んだ口元。優しげに細められた目。『千鶴』と呼ぶその声は、蜜柑ですらわかるほど、想いが溢れていた。蜜柑が知らない、朝陽の顔。
――――ダメですね。今度朝陽さんに会ったとき、気を使わせてしまいます。
溢れそうになる涙を堪えて、携帯を握る手に力を込める。
言わなかったのは、気を使わせないため。朝陽はきっと、蜜柑の想いを受け流すことなんてできないだろうから。気まずくなって、話すことさえできなくなるのなら、言わない方がいい。
そう、思っていたのに。それでも、いいと思えていたのに。
今は、思えなかった。もしかしたら、そんなふうに抱いていた希望がそのまま落胆にすり替わって、蜜柑の心を締め付ける。一度、朝陽の慕情を垣間見てしまった事が、蜜柑の言動が招いた結果が、今蜜柑の首を絞めていた。
あの視線の先が、もしも自分だったら。
どれだけ幸せなことだろうか。どれだけ嬉しかった事だろうか。
けれど、どれだけ手を伸ばして、駆け寄って、強く願ったところで、蜜柑の手に入るのは、『友達』としての視線だけだ。あんなにも想いの篭った視線は向けられることはない。それは、断言できる。
それが苦しくて、辛くて、言って楽になろうと思っていたのに。
――――あんな顔をされたら、言えるものも言えないじゃないですか。
蜜柑がどれだけ朝陽を想っても、どれだけ努力しても、どれだけ声を掛けたところで、朝陽は千鶴の方を向いている。振り向かせてみせる、なんて強がりの入る余地なんてないくらい。
それは生まれたての雛が最初に見たものに懐くような、無知な人間が神を崇めるような、慕情を超えた何かを思わせるほどのもの。
一般家庭でそれなりに幸せに生きてきた蜜柑が、入り込む余地があるはずもない。
そう思えてしまうほど、蜜柑の目から見た二人はどこか人を寄せ付けない空気を纏っていた。
どうして、自分は朝陽に想ってもらえないのか。
どうして、自分は一年のとき文芸部に入らなかったのか。
どうして、自分は朝陽にもっと早く出会っていなかったのか。
どうして、自分は朝陽の幼馴染じゃないのか。
どうして、自分は千鶴じゃないのか。
そんな、どうしようもない願望で頭が埋まる。一緒にいた時間の長さと関係の深さは必ずしもイコールではないことは、真澄を見ていれば分かるはずだが、今の蜜柑には考えもしないことだった。
卑屈な考えに傾倒していく自分を分かっていながら、止めようとしない。
――――いつか、二人の背中を押す、いい友達であるために。
ふと、窓に映った自分の顔を見つめる。
感情の暴風雨でぐしゃぐしゃになった、酷い顔をしていた。




