月日の流れに気づくのは
簡単なオリエンテーションの後、好き勝手に会話していればすぐに下校時刻が訪れる。チャイムの少し前に教室を出た俺たちは、並んで通学路を歩いていた。
「じゃあ、千鶴の家は前と同じなのか?」
「ええ。一応一軒家だもの。朝陽と真澄ちゃんこそ、引っ越したりしてないのかしら?」
「してないよ!六年前と変わってないから、安心してね」
現在の呼び名は、関係性や立場を考慮した上で検討に検討を重ねて決定したものだ。さすがに小学四年生の頃のあだ名で呼び合うわけにも行くまい。
「じゃあ、また三人で登下校できるわね。そうしない?」
「もちろんいいぞ。じゃあ、朝七時五十分に、真澄の家の前にある押しボタン式の交差点でどうだ?」
「オッケー、じゃあ、明日からそうしよう!」
妙にテンションの高い真澄が、俺たちの前で不規則に踊る。昔は、俺の後ろに隠れたがる真澄を引き摺って、俺たちが不規則に踊っていたというのに。月日の流れは毎日の中で感じられなくても、こうやってふとしたきっかけで気づくものだ。そしてそれは、千鶴に関しても同じ。
高校から見ると、俺たちの家は真澄、俺と千鶴、と言う風に縦に並んでいることになる。つまり、真澄が一番先に別れることになるのだ。
「じゃあ、また明日ね!」
千切れるんじゃないかと危惧するほどブンブンと手を振る真澄に簡単に振り返して、二人きりになった通学路を歩く。今までは一人だったから、隣に誰かがいることが新鮮だ。
昔から、俺たち三人の家がある方向に帰る奴らはほとんどいなくて、登下校はいつも三人だった。小中学校も高校とほとんど同じ方角にあるため、千鶴と通っていた四年間、いつもこの道を二人で通っていた事になる。そんな、慣れ親しんでいたはずの事が新鮮に感じる事に、少し戸惑う。
「……ちづ、変わったよな」
思わず零したその言葉に、千鶴は吹き出した。とはいえ、微かにだが。
「それ、さっきも聞いたわよ?」
「容姿とか、口調とか、そういうのだけじゃなくてさ。何かこう、雰囲気とか、そういうのも。今だって、昔のお前ならもっと派手に笑ってただろ?」
頤に手を当てて考える仕草をした千鶴は、思い当たったように笑みを零した。
「そうね。もっと大騒ぎしてたと思うわ。けど、小四と高二じゃ全然違うでしょ?六年と少し経ってるもの。いうなれば、大人になったのよ。それに、私から言わせれば、朝陽だってずいぶん変わったわよ。前は私の方が背が高かったのに、いつの間にか抜かされちゃってるわ。悔しいわね」
言われてみれば、見上げていた記憶のある千鶴の顔が、見下ろすようになっている。そんな些細な違いすら、俺に六年と言う年月の長さを痛感させる。
「……やっぱり、六年は長いよな」
「ええ、私たちの年代には特に。眼鏡をかけ始めたり、急に背が伸びたりした人は、片手の指じゃ足りないはずよ?」
言われてみれば、長期休業の後は、誰が誰だか判らなくなったりしたものだ。一ヶ月足らずでそうなのだから、六年もあれば想像に難くない。
少し、昔の話をしよう。
俺の記憶の中にいる千鶴は、言い方は悪いが猿のように動き回る、男勝りな少女だ。背丈は俺よりも少し高かったし、運動能力も、腕相撲なら何とか勝てたが、かけっこだと数センチ差で負けた。いうなれば差し引きゼロだ。そして、口調だって今のような大人びた丁寧なものではなく、乱雑で、男のようなものだった。
ううむ。思い返せば返すほど、今の千鶴と共通点が無いな。むしろ差異しかないんじゃないかと思うほどだ。もちろん、成長したとはいえ顔に面影はあるし、声だって似ている。けれど、やはりどこか違うのだ。違和感が拭いきれない、というのだろうか。
そして、その原因はおそらく、俺の中で過去の千鶴がとても大きなものなのだからだろうと思う。
そんな俺の思考を、表情から読み取ったらしい千鶴は、少しだけ考えるそぶりを見せた後、躊躇うように口を開いた。
「……朝陽だって、変わったわ。私の覚えている朝陽と違う点を上げたら、きりが無いくらい。けれど、朝陽は朝陽で、私は私。これだけ変わっていても気づけたのだから、それで良いじゃない。長い間会ってなかったんだから、変わったのは当然でしょ」
理屈では分かっている。隣を歩く少女が千鶴であることなんて、とっくのとうに。でなければ、さっき千鶴かどうかを確かめはしなかっただろう。そして、今こうして歩いてもいなかった。
けれどそれと同じくらい、納得できない本能もいるのだ。こいつは千鶴じゃない、昔一緒に遊んだあいつじゃない。――――――俺が淡い想いを抱いた少女じゃない、と。理詰めで押し切れないくらい、俺の中心に居座っている。オセロで角を取ったようなものだ。退ける事も、無かった事にすることもできないのに、常に居座って威圧感を放ち続ける。
それは、千鶴も同じ様だった。
「……それでも、納得行かないのよね。……こう考えたらどうかしら。私は安倍千鶴だけど、あなたの知ってる安倍千鶴では無いの。新しくこの近くに引っ越してきた安倍千鶴」
「……その心は?」
「別に謎掛けじゃないわよ」
そうは言うものの、俺にはまったく真意がつかめない。千鶴は軽く声に出して笑っているが、俺はそれどころではないのだ。
数十秒待って、俺が答えを出せないと悟ったのだろう。千鶴はどこか遠くを見ながら話し始めた。
「もう一度、新しく関係を築くのよ。昔からの幼馴染じゃなくて、高校のクラスメイトで、同じ部活の、近くの家に住んでいる人。そういう形で、新しいものをね」
どこか寂寞とした思いを滲ませた笑みと共に放たれた言葉は、俺と、そして千鶴自身にある事柄を言い聞かせるようだった。
遥か昔に抱き、ずっとこの心に留めてきた淡い想いは、無かったことにしようと。言葉にしなくてもどこかで気づいていた互いの想いは、過去の、子供の初恋として、不明瞭なままで終わらせようと。
嫌だった。そして、それと同時に歓迎した。そのどちらを先に告げるか迷った挙句、俺は妥協を選ぶことにする。そして、上手くいかなかった。どちらがより強いかなんて、分かっているのだから。それでも体裁は取り繕えるのだから日本語の凄さを思い知る。
「それはそれでいいかもな。けど、千鶴は千鶴だろ。昔の思い出もひっくるめてな。……それに、どうせ慣れの問題だよ。数日すれば気にならなくなるさ」
「……そうね。じゃあ、また明日」
「おう、また明日な」
暮れなずむ空を背に、手を振って別れた。