林間学校:其の六
「そんなことがあったんですか……話してくれてありがとうございます」
「いえ、別に構わないわよ。そこまで隠し立てするような話じゃないもの」
私が口を閉じた後、沈黙を破ったのは蜜柑だった。簡潔な謝辞の後、すぐに寝息が聞こえてくる。
今しがた話していた光景が、頭に浮かんでは消えていく。ついでにお化け。この調子では眠れないと悟り、私はこっそり布団を抜け出した。
部屋からでて、細心の注意を払いながら階段を下りる。目指すのは、お風呂上りに使った自動販売機。お茶でも買って一息つけば、自然に眠気も襲ってくるでしょうしね。
完全に消灯された玄関ロビーを横切って、ぼんやりとショーケースから光を放つ直方体の前にたどり着く。こんなに簡単に到着できるとは、見回りもこの時間はいないということかしら。
陳列された飲み物から、ペットボトルの紅茶を選ぶ。鞄から出すのが一苦労だった財布から小銭を選び出し、投入する。周囲に誰もいないのを確認してから、ボタンを押した。
こういうときにははた迷惑な騒音が生まれ、ペットボトルが出てくる。そのキャップを開けたとき、パタパタとスリッパの音がした。
咄嗟に身構えたから、階段下に置かれた巨大な段ボール箱に飛び込む。さっきの音を聞かれていたとしたら、隠れおおせるのは絶望的。具体的なペナルティは思いつかないけど、いい方向には転がらないわよね。
息を殺し、近づいてくる足音を探る。どこかへ立ち去って、と念じるけど、その思いも虚しく、足音の主が階段から姿を現した。
その姿を見て、大きく息を吐く。姿を隠す必要もなくなって、ダンボールから脱出した。
「うおっ……なんだ、千鶴か」
「その台詞、そっくりそのまま返すわよ。先生かと思ったじゃない」
「悪い悪い」
苦笑しながら小銭を入れた朝陽は、物珍しそうに、小さく首を傾げながら見慣れない炭酸飲料のボタンを押した。
「それ、何?」
「さあ? 俺も初めて見た。ジンジャーエールって書いてあるけど」
「じゃあジンジャーエールなのね」
「千鶴は紅茶か?」
「ええ」
慎重に蓋を開けた朝陽は、黒い液体を一口飲んで、むせ返った。
「ちょっと大丈夫!?」
「うー、ごほっ、大丈夫なのは大丈夫だ……けど、炭酸キツイわ生姜効いてるわ、凄いな」
差し出されたボトルを受け取り、口直しにと私の紅茶を差し出す。恐る恐るちびりと舐めると、朝陽の反応のわけを痛感した。
「これ、喉が焼けるわね」
「だよな、俺は好きな方だけど……明日イタズラにでも使うか」
「まったく、そういうところは子供みたいね」
「悪かったな」
そう言いつつ、ちびちびとペットボトルの中身を消費していく。特に焦って会話しようとは思わないし、沈黙は苦じゃない。朝陽との関係はそんな感じ。
逆に、グイグイと話しかけられる真澄ちゃんがうらやましいくらい。
……グイグイと話しかけられる?
今しがた浮かんだ言葉に、自分自身が疑問を挿み込む。さっきまで話していた、六年前のすみちゃんと、現在の真澄ちゃんが、綺麗に重ならない。
年月による成長なんかでは説明のつかない変化。何が、あそこまで真澄ちゃんを変えたのか。それは今ここでは分からないし、考える必要も無いことね。
ちょっとした出来事で、人はどこまでも変わるのだから。
「千鶴、どうかしたのか?」
「いえ、何でもないわ」
思考の海から顔を上げる。なにやら納得していなさそうな顔でジンジャーエールに口を付ける朝陽の顔が、良く見えた。
「そういえば、千鶴は何でこんな時間にこんなところにいたんだ?」
「あのまま部屋で布団に包まっていても、眠れないのが分かったからよ。朝陽は?」
社交辞令のような問いかけ。別段何かを聞き出そうという意図があったわけでもなく、聞かれたから聞き返しただけなのだけど、朝陽は数秒考え込むと、緩慢な動作で口を開いた。
「俺、いつも寝るのが十二時だからさ、この時間だとまだ眠くないんだよ。それと……笑わないか?」
「笑わないわよ。内容にはよるけれどね」
窺うような視線が私を突き刺す。質問の答えを笑うなんて、それに笑わせる意図がないならしないわよ。答えにはよるけれど。
「……ここに来たら、お前に会える気がしたんだ。お前と話してたら気が紛れるし、一人で時間を潰すよりよっぽど有意義だから」
予想外の攻撃。そんな気恥ずかしい台詞をよく言えるわね。私なら絶対無理。それならまだそのジンジャーエールを一気飲みする方ができそうよ。
混乱した頭でそんなことを考えながら、熱を帯びた頬を隠すように顔を背ける。朝陽も同じような反応を返してきて、気まずい沈黙が下りる。お互いがお互いに、状況を打開する言葉を求めているのが丸分かりね。
「なあ」「ねえ」
「「……」」
「先にいいわよ」「先にいいぞ」
「「…………」」
「じゃあ」「それなら」
「「……………………」」
漫画ならありふれたといえるこの状況も、現実ならそこそこ珍しいと言わざるを得ない。それこそ、咄嗟に打開策が思いつかないくらいには、私も朝陽もこの状況に慣れていないと言える。またしても、気まずい沈黙。
それを破ったのは、またしても聞こえ出したスリッパの音だった。
「……!」
「これ、たぶん……」
その先は言わなくても分かる。聞こえてくる会話の内容からしても、巡視の先生だ。
「こっちよ!」
声を殺して叫びながら、さっき隠れた段ボール箱の中に朝陽を引っ張り込む。さすがに二人隠れるには狭いけど、今は文句を言っていられる場合じゃないもの。心音が聞こえそうなほど密着して、息を殺す。




