邂逅
「あさ兄ちゃん!置いてっちゃうよ!」
真新しい制服に身を包んだ少女が、俺の数メートル先で振り返り、早く早くと急かす。昨日から高校生になったにしては幼い言動のそいつに苦笑しながら、俺――八神朝陽は歩幅を大きくした。
「今は良いけど、学校に着いたらその呼び方はやめてくれよ。一応先輩なんだから」
「分かってるって、中学のときもそうだったんだからね。でしょ?朝陽先輩!」
わざとらしい敬礼に苦笑で返しながら、俺は前を歩く少女――――幼馴染の柏木真澄の姿をもう一度見やった。昨日の午前中に入学式と簡単なホームルームが行われて、今日から本格的に授業が始まるはずだ。学力的にそこまで問題は無かったようだが、それにしたってギリギリである事に変わりは無いだろう。ついていけるのか。
まあ、今からそんな心配をしたって詮の無い事だ。
「ほらほら!早く、あさ兄ちゃん!」
「だからその呼び方はやめてくれって……」
「じゃあねー!」
既にクラスも決まっている真澄がさっさと玄関の中に消え、俺は人混みの最後尾で背伸びする。玄関のガラスに、クラス分けが載った張り紙をしてあるのだ。
「おう!久し振りだな、朝陽」
「ああ、良樹か。久し振りだな」
俺の後ろから声を掛けてきたのは、中学からの友人である樋口良樹。どうやら、先に来ていたみたいだ。
「ああ、お前も七組だぞ。オレと一緒だ」
「へぇ、よろしくな」
「おうよ」
良樹のおかげで手間が省けた事に感謝しながら、玄関に入った。
「朝陽先輩!」
放課後、部活へ向かおうと教室を出た俺を呼ぶ声が響いた。現在後輩の中で俺をそう呼ぶ人間はただ一人のはずだ。そして、その声がその仮説を裏付けている。
「どうかしたのか、真澄」
「部室に案内してください!」
「お、真澄ちゃんじゃん。久し振りだな!」
「あ、良樹先輩。久し振りです!」
「で、もう部活決めたのか」
早くないか?ここ、神原高校には一週間の部活動オリエンテーション期間が設けられていて、その間は毎日放課後の体育館でそれぞれの部活の紹介が行われているし、入部届の締め切りまでは部活の見学も自由に出来るはずだ。そして、入部届の締め切りは四月の最終登校日。普通、その期間たっぷり悩んでから最後に決めるのだと思うのだが……事実、俺と良樹はそうだったし。
「うん。元々興味あったし、朝陽先輩もいるし」
「お前な、理由の一つが俺ってどうなんだよ」
「いーじゃん!そういうわけだから、案内して」
「なーんだ、真澄ちゃんならバスケ部のマネージャーに欲しかったのに」
「それはそれで魅力的だったんですけど、やっぱりこっちの方がよかったんです!」
「じゃ、フラれたオレは一人寂しく体育館に向かうとしますか。じゃーな!」
フラれたとか寂しいとかネガティブな事を言っていた割りには、爽やかな笑顔で良樹が別方向へと消え、残ったのは俺と真澄の二人。
渡り廊下の屋上を抜け、特別教室が密集する東棟に移る。二階、渡り廊下から二メートルほどに存在する教室。付けられた名前は数学準備室だが、数学の授業にそんなご大層な装置は必要じゃない。つまるところ空き教室なのだ。そして、ドアガラスに内側から貼られた紙には、『文芸部部室』と几帳面な文字で大書されている。
そう、ここが俺と真澄が所属する文芸部の部室なのだ。
ガラガラと、学校の引き戸特有のけたたましい音を鳴らしながら教室内に踏み込む。既に揃っていたらしい部員の顔が、いっせいにこちらへと向いた。
その中に一人、見知らぬ顔がいた。いや、正確にはさっき教室で自己紹介を受けたばかりではあるが、結局一言も喋らなかったため、初対面と言っていいだろう。
そいつは俺のクラスメイトであり、今年から編入してきた女子生徒。確か名前は――
「お、来たか朝陽。紹介しよう。彼女は文芸部に入ることになった、安倍千鶴さんだ」
そう、安倍千鶴。俺の忘れられない名前と同姓同名だからすぐに記憶している。とはいえ、この女子生徒は雰囲気からしてそいつとは違うのだが。
「ああ、知ってますよ。同じクラスですから」
「あ、何だそうか。じゃあそっちの子は?」
「あ、俺の幼馴染で、新入部員です」
背中を押してやると、一歩進み出て頭を下げる。こういうところで臆しないのは、真澄のいいところだ。
「一年二組の、柏木真澄です。よろしくお願いします」
「あ、じゃあ改めて自己紹介しましょうか」
椅子から立ち上がった女子生徒が、率先して一度頭を下げる。
「二人とも、ようこそ文芸部へ。私は小笠原亜子。副部長で、クラスは三年六組よ」
次いで、最初に俺たちに声を掛けた男子生徒が、寄りかかっていた机から離れ、口を開く。
「で、俺が部長の天野螢一郎。クラスは三年五組だ」
ここまで部長副部長と着たら、他の二人に比べて古参である俺だろう。
「俺は八神朝陽。クラスは二年七組だ」
この中で俺を知らないのは安倍さんのみ。安倍さん一人のための自己紹介といっても過言ではなかったが、当の安倍さんはと言えば、瞳に微かな驚きをたたえて俺を見ていた。
「……安倍千鶴、です。……久し振りね、あさ君」
その言葉を聞いたとき、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。否定していた予想が覆され、脳内が空白に埋め尽くされる。
「……ちづ……?」
幼い頃、町中を駆け回った記憶が蘇る。子供特有の底なしの元気を元手に縦横無尽に駆けずり回る俺の横には、いつだってあいつがいた。
俺の事を『あさ君』と呼ぶのは、世界広しと言えども一人しかいない。俺のかたわらで共に走り回り、そして六年以上前にこの町から去った、俺のもう一人の幼馴染。
「……そうか。道理で聞き覚えのある名前だ。それにしても、変わったな」
「六年もたてば、そんなものじゃないかしら?あさ君だって変わったわよ
「まあ、声変わりもしたしな。にしても、戻ってくるなら手紙くらい寄越しても良かったんじゃないか?」
「考えたんだけど、いきなり送りつけるのもどうかと思って。ほら、一年くらいで文通も止めちゃったでしょ」
その元凶としては、今すぐに土下座でもしたいくらいだ。スライディングつきで。
それにしても、変わった。あの頃風圧と激しい動きでいつもぼさぼさだった髪は、いま綺麗に纏められ、男女と揶揄されるほど俺と変わらなかった口調は、大人びたものになっている。これだけ変わっていたら、自己紹介されても気づかないよな、と言い訳しておく。
「ちづちゃん!お帰り!」
「あ、すみちゃん?全然気がつかなかったわ。久し振りね」
「あたしも!ちづちゃん、綺麗になったね!」
「ありがとう。すみちゃんも、可愛くなって驚いちゃったわよ」
なんか、入り込めない世界だな。それを言うなら、さっきから先輩方を置き去りにしているのだが。
「……あー、なんだ、お前ら知り合いか?」
「ええまあ。昔、千鶴も家の近くに住んでたんですよ。簡単に言えば幼馴染です」
「なんだ、そういうことか。いきなりドラマが展開されて焦ったぞ」
「すいません。感動の再会はまた後にしておきます」
そうしてくれ、何て苦笑する螢先輩を余所に、未だ繰り広げられる入り込めない世界。
「……なあ、お前ら。感動の再会はまた帰りにでもしようぜ」
「そうね。まずは部活をしましょうか」
「……じゃあ、活動を説明するから、きちんと聞いていてね」
めいめい椅子に腰掛け、小笠原先輩、略してがわら先輩の説明を聞く。
過去と現在の千鶴が、重なりそうで重ならない。それに、小さな違和感を覚えた。