林間学校:其の五
「ダメそうなら言えよ? 事情を話せばある程度の便宜は図ってくれるはずだから」
「だ、大丈夫よ。ほら、私たちの番じゃないかしら?」
その言葉通り、本部――さっきの長机――で声を張り上げる係員は俺たちを呼んでいる。それを無視する理由も無いので、潔くスタート地点に移動する。
「……それでは、三組目、スタートです」
どれだけ控えめに言っても、テンションが高いとはいえない合図を背に、開けられた門をくぐる。すぐ後ろで、軋んだ音を立てて門が閉まった。
「ひっ!」
完全に閉まりきったときの、ガシャンという大き目の音に弾かれた千鶴の肩が跳ねる。そして、いきなり俺の腕が掴まれた。
「……やっぱり怖いんだろ。昔からそうだったもんな」
「そ、そうよ! 怖いわよ! しょうがないでしょ苦手なんだから……ほ、ほら早く!」
さっさとこの場を終わらせ太陽で、千鶴が俺の腕を引いて早足に歩き出す。
と思ったら数歩で立ち止まった。
「……やっぱり、先行ってくれないかしら……」
「はいはい」
待機場所となっていた広場には、ところどころ大型のランプが置かれ、かなりの明るさだったのだが、雑木林にはそんなものは無い。その↑金属製の門で光は遮断され、空は狙ったように新月。つまり、スタート前に渡された懐中電灯だけが、唯一の光源なのだ。
しかし、懐中電灯は標準より少し小さい程度、光が当たる範囲は小さい。つまり、足元の確認くらいにしか使えないのだ。それにより、慎重な前進が求められる。
左腕に絡みつき、必要以上に密着する柔らかい感触から意識を引き剥がしながら、周囲に気を配る。俺かて、得意なわけではないのだ。
ガサガサと、下草を掻き分ける音がする。俺たちの周囲で、満遍なく。渦を描くように近づいてきているそれは、唐突に、止んだ。
「何、何?」
上擦った声を上げる千鶴を傍目に、素早く周囲へと視線をめぐらせてる。が、それらしき人影は見当たらなかった。どうやら、音だけの脅かしのようだ。
「行こう。あんまり立ち止まってるのもよくない」
「も、もう嫌よ……もう嫌よ、あさ君……」
「そんなこと言ったって今更だろ。ほら、さっさと終わらせる以外にないから」
宥め賺して一歩進んだ途端、頬に何かが当たった。
「うおっ!」
「きゃああああああああああああ―――――――!」
千鶴にも同じものが当たったらしく、悲鳴が聞こえる。咄嗟に顔に手を当てると、ぬめっとした、冷たいものが当たっていた。
「……こんにゃく……?」
「やだ……あさ君……助けて……」
悲鳴と呻きの混血みたいな声を上げる千鶴の即頭部から、こんにゃくを引き剥がす。硬く目を瞑り、俺の肩に額を押し当てるその姿は中々に面白いが、今はそれどころじゃない。
「ちづ、これこんにゃくだぞ」
「だとしても怖いものは怖いのよ! もう嫌……!」
ベタな物に引っかかった気恥ずかしさからか、千鶴の泣き言を聞いても歩みを止めようと
は思えなかった。いまはそれよりも、早く終わらせることが大事だと言い訳して。
軋んだ音を立てて門が開き、ランプの明かりが目を射抜く。あの後、横合いから飛び出してきた幽霊に追いかけられ(二人)木の上から飛び降りてきた首吊り死体――人形だった――に腰を抜かし(千鶴)包丁を持った山姥に泣き出し(千鶴)浮かぶ火の玉を見て今まで以上に密着し(千鶴)……とまあ、その後もゾンビやらミイラやらに逐一悲鳴を上げていた千鶴は、さぞかし脅す方にやりがいを与えたであろう。それと引き換えに、現在疲れきっているのはご愛嬌だ。
「お、帰ってきたな。どうだった? ……そんなにか?」
出口から少し離れたところで千鶴をあやす俺に、良樹の声がかかる。おそらく、最後の言葉は千鶴の様子を見たからだろう。ここで、『泣くほど怖い』などと広まっては、都合の悪いことが多いだろう。何より、噂は真実より強い。
「いや、まあ、普通というか、平均的だと思うぞ。千鶴は、苦手だからな」
「そうなのか。おい、安倍、だいじょぶか?」
「……あんまり大丈夫じゃないわ……」
良樹の表情から言いたいことを読み取るとすれば、「そんなことをいわれてもどうしようもないのにな」と言ったところか。確かに、俺もあやしてはいるが、効果的だとは思っていない。本当ならば、他に気が紛れるようなことを与えるのが一番いいのだが、肝試し一色になったこの場でそれを望むのはいささか希望的観測に過ぎるというもの。
「まあ、俺がついてるから大丈夫だろ。ほら、お前も心の準備をしておいた方が良いぞ」
「マジか……じゃあ相方にもそう伝えておくわ。あいつも苦手らしいからな」
苦虫を噛み潰したような顔で踵を返した良樹から、千鶴へと視線を動かす。
そこには、いまだ潤みの引かない瞳でどこか遠くを見つめる千鶴がいた。
「大丈夫……じゃないのか」
「ええ。やっと落ち着いてきたけど、またすぐ襲われそうな気がするわ」
「大丈夫だ。肝試しは終わったから」
「理屈では分かってるのよ。けど、本能的にダメね。物音がすると嫌でも反応しちゃうもの」
それは、思っていたよりも重症らしい。千鶴の反応は過剰だが、子供がホラーの後に陥る症状と似ている……というかそのものだ。暗闇の中には絶対に化け物がいると思い込み、物音、光、そんなものすら化け物の仕業に繋げる。挙句の果てには化け物を幻視することもあるらしい。
明確な対応は分からないが、とりあえず落ちつかせるのが定石だろう。態度は一見すれば常態と言えなくもないが、それだったまだ俺の裾を離そうとしていないことから虚勢だと分かる。
「安心しろ。ここに化け物はいない。幽霊だろうがゾンビだろうが、お化けの類はすべて空想の産物、創作物の住人なんだから」
口を突いて出てきたのは、体の奥まで染み込んだ持論。やはり、体に刷り込まれたものは咄嗟のときに役に立つらしい。
そして、俺の体にその言葉を刷り込んだ当人は、引き攣った顔で笑みを零していた。
「懐かしいわね、それ。前もよく言われてたわ」
「ああ、お前がそうやって怖がったときはいつもな。だから、大丈夫だ」
「ええ。心配してくれてありがとう」
掴まれていた裾が、解放される。ようやく自由になったはずの左腕は、寒々しかった。