林間学校:其の二
「おい、朝陽、風呂行こうぜ」
自作の昼食の後、この周辺の生態系等について説明を受け、委員会等での会議を終えたら、とっくに日が傾いていた。
今日の夕食は宿泊施設の食堂で、中学時代に食べていた給食のような献立だった。さすがにおいしかったが、会話も含めて目新しさは皆無だったと言えよう。
そして、現在。良樹の言葉をきっかけに時刻を確認すると、午後八時。ちょうど、七組男子が浴場を割り当てられる五分前だ。妙なところで時間厳守する奴だな。まあ、損をするのは俺たちの方だから、その反応も頷けるか。
「わかった。どこだったっけ?」
「すぐ前の階段を下りて、右のところだってよ。迷路みてぇなんだよな、この旅館」
旅館とホテルが三対一で混ざり合ったようなつくりのこの旅館は、階段一つで一階から三階まで上がれないという、テレビ局のようなつくりになっている。そして、三つの階段のうち、どれか一つは他の二つとは違う二階に上がる。案内板を見ないと訳がわからない。たかが祝初施設なのに、何故ここまで凝った造りにする必要があったのか。
「分かった。行くか」
良樹の言葉通り、階段を下りてすぐ、それは見つかった。男女で分けられた入口、赤と紺の暖簾。百人中九十九人は、「温泉」と答えるであろう光景。
ここはその通り、大浴場である。
大浴場といっても、案内図の大きさ的にそこまで大きいわけではないだろう。ただ、露天だ。脱衣所から浴室に踏み込めば、そこはもう野外である。この時期ならともかく、冬はどうするのだろうかとか要らないことを考えてしまう。
中二位歩踏み込むと、なにやら数人が集まっての鳩首会議の真っ最中だった。どの顔も七組のものだから、かなり早めに来たのだろう。脱衣所、ましてやタオル一枚で隠しただけの状態で何を話しているのかいささか興味を惹かれるが、厄介ごとに巻き込まれるのは遠慮したい。
「なあ、あいつら何やってんだ?」
「さあ、何かあったのかもな」
入口付近でそんな会話を交わしていると、会議に興じていた一人が、かなりの勢いで顔を上げた。その視線は、俺たち二人を射抜いている。
「お、おめーらも来いよ」
その誘いを断る理由もなく、さっさと服を脱いだ俺たちは、円に加わった。
数秒後、後悔することになるとも知らずに。
「…ポイントは二つ。この人数がいっぺんに見られるが、少し見にくいところ。そして、二人ずつが限界だが、良く見えるところ」
「なるほど、どっちもばれるリスクは同じくらいだな。なら、良く見えた方がいいンじゃねぇか?」
「んじゃ、ポイント二の方に決定する。けどよ、順番は?」
「じゃんけんだろ。一番平等だ」
「よし。行くぞ。最初は」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った。これ、何の話だ?」
「あ? 決まってンだろ――――――」
そこで一旦言葉を切り、主犯格と思しきクラスメイト――確か、名前は尾道と言ったか――は悪人顔で笑った。それはもう、今すぐ警察に突き出しても何となく逮捕してくれそう
なほどの笑みで。
「――――覗きだよ」
……。俺はそこで、ようやくこの円に加わったことを後悔した。
「……は? んなことできんのかよ?」
できるからここでこうして集まってるんだろうな。
良樹の言葉にそんなツッコミを浮かべつつ、目の前のクラスメイト一人一人を見回す。確かに、悪乗りする奴らばかりだ。おそらく本気で実行するだろうと思えるほどに。良樹はどうだか分からないが、俺は破綻が見えているにもかかわらず、釣り合わない対価を求めるほど子供としては動けない。簡単に言えば、おろかなマネは許容しかねるのだ。
「ったりめぇだろうが。できねぇならここでこうしてねぇよ」
「それもそうか」
何納得してるんだ。そこは強硬に反対するとかすればいいのに。……俺が言えた義理ではないか。
「俺はパス」
とりあえず、不参加を表明しておく。
「はぁ? てめぇ、旅行的行事に温泉とくれば覗きは当たり前だろ。しない奴は男じゃねぇし。お前ホモか?」
「違うって。得られる褒美に大してリスクがでかすぎるんだよ。……ああ、それと。今から先生に言いつけようとかは思ってないから安心してくれ。ただ、捕まっても俺を巻き込むなよ」
早口に禍根を断って、さっさと浴室に移動する。背後では、信じられないといった表情のクラスメイト数人が俺を見ていた。
「それじゃあ、邪魔するなよ」
ようやく打ち合わせが終わったのか、男子数名がぞろぞろと竹垣へと向かって行く。俺の他に断った人間はいなかった。じゃんけんに負けた待機組はカモフラージュのためだろうか、体を洗っている。
予想通り主犯であった尾道は俺に向かって吐き捨てた後、数名の先頭に立ってどこかへ去っていった。おそらく、覗きのポイントとやらに行ったのだろう。
巻き込まれては溜まったものではない。アリバイを作るためにもここはさっさと上がった方が賢明だろう。
そこまで考えて、俺は湯船を出た。
「ん」
「あら」
暖簾をくぐったところで、千鶴と鉢合わせた。ちょうど上がったところらしく、まだ髪が半渇きで、肌も上気している。少々、目に毒だ。視線を逸らしてから話を続行した。
「ちづも、今上がったのか?」
「ええ。正確に言えば二十分くらい前かしら。あさ君も?」
「ああ。まあ、俺はついさっきだけどな」
「そうみたいね。まったく、髪の毛びしょびしょじゃない」
呆れたような口調でそう言われて、俺は始めて視界の上半分で揺れる黒い影に目をやった。千鶴の言葉通り、水が滴っている。
「あ、ホントだ。ちょっと伸びてきたからな。乾きにくくて困る」
「ほら、ちょっとこっち来なさい」
千鶴の言葉に意識を集中していたら、不意にジャージの襟元を強めに引かれ、バランスを崩した。
咄嗟に体重のかかっていなかった右脚が出るが、体の傾きは止められない。いや、一歩前に進むことで転ぶの防いだのだから、一歩前に進んだ分の傾きや距離の減少は避けられなくてしかるべきなのだ。頭では理解していても、もどかしさは禁じえないが。
「っと! ……何するんだ、よ?」
次いで頭に被せられた布に、抱えた疑問が増大する。が、それらは数秒で氷解した。
「まったく、五月とはいえ風邪引くわよ?」
すぐに千鶴の手が伸びてきて、バスタオルだった布をガシガシと動かす。やりにくかったのか、千鶴が少し背伸びした上に俺を引き寄せるものだから対応に困る。熱を逃がすためか大きく開かれたジャージの胸元から緩く弧を描くTシャツが覗き、首の付け根のラインまで露になっているのだからなおさらだ。目のやり場に困るが、頭を動かすことは叶わない。仕方なく、目を瞑っていることにした。
途端、視界を閉ざしたことで他の感覚が鋭敏になり、鼻腔をくすぐる石鹸の臭いを強く意識してしまう。なん透過、目を閉じたのは失策だったかもしれないな。
バスタオルが運動を止めたのは、それからしばらくした頃だった。
「ほら、さっきよりはマシじゃない?」
「ああ、そうみたいだな」
手で触れてみても、絡みつく水滴は感じられない。その代償として跳ね回っているらしい髪に苦笑しながら、もう一度千鶴へと目をやった。
「ありがとな。わざわざ」
「別に嫌じゃないもの、大丈夫よ。風邪を引かれても困るし」
「でも、手間ではあるだろ」
俺だって、この状態まで乾燥させるのが面倒だったから、生乾きよりも水分を帯びた状態で出てきたのだ。そして、バスタオル、ひいては千鶴の腕が動いていた時間はかなり長かった。それkそ、疲労を感じてもおかしくないくらい。
「お弁当と一緒よ。そこまで手間ではないわ」
「そっか。でも、何かやってもらうばかりだと落ち着かないな。……そうだ、飲み物、なんかおごるぞ」
「いいわよ。そこまでしてもらうほどのことじゃないわ」
「俺の気が済まないんだよ。受け取ってくれ」
「そんなに言うなら、頂くわ」
出入り口の前から横に設置された自動販売機の前に移動して初めて、自分たちが出入り口の前に立ち塞がっていたことに気がついた。出られないわけではないが、迷惑だったには違いない。人が出てこなくて良かった。
「何が良い?」
「そうね……あ、それがいいわ」
千鶴が指差したのは、有名炭酸飲料の缶。漠然と、もう少し大人びた物を選ぶような気がしていたから、拍子抜けだ。
そんな動揺を押し隠して、二人分の小銭を投入。同じボタンを二回押して、出てきた缶の片方を渡す。
「ありがとう」
「いや、いいよ」
二人揃って、缶に口を突ける。そんな静かな時間を、悲鳴が劈いた。