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第6話 ひとつの推論

 コスタルヴィッツは、広大なズノーシャ丘陵地帯の東端に位置する風光明媚な土地だった。

 針葉樹が茂る丘陵が途切れる麓には満々と水をたたえるイヨール湖が横たわり、かつては夏になれば水遊びを楽しむ客が湖畔を賑わしていた。その湖を見下ろすなだらかな丘陵の中腹に、宮殿や城と呼ぶには若干小さな建物がある。


 それはもともと貴族の別邸であった。

 美しい白壁に、落ち着いた青鈍(あおにび)色をした高い切妻屋根を戴き、1階と2階の間の外壁に巡らされた蛇腹(コーニス)の彫刻が、ともすれば簡素になりすぎるこの建物にささやかな華やぎを添えていた。横に長く均整の取れた瀟洒な佇まいは、春には柔らかい陽光を浴びてその白壁が誇らしげに輝き、緑深くなったコスタルヴィッツの景色に一層の趣を加える存在だった。


 しかし、その美しい邸宅も今は雪に覆われていた。そして何より、建物の手前に広がるなだらかな裾野には、この風景にはまったくと言っていいほど不似合いな鉄条網が何重にも張り巡らされ、戦時下であることを否応なく意識させる、ひどく陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 邸宅は数年前に軍によって接収され、現在はコスタルヴィッツ第18捕虜収容所の管理棟として機能しているのだった。


 今は軍用となったその邸宅の一室、収容所所長の部屋では、新たな捕虜が加わった際に行われる事務手続きの報告が行われていた。


「昨日、ズノーシャでの戦闘において捕虜となり、本日収容された者のリストです」


 マホガニーで作られた重厚な執務机の前に立った管理係長の中尉が、そう言って書類を差し出した。


 この収容所の所長を任されているアルカント・シュトフ中佐は、手渡された書類の薄さにまず注意を引かれた。

 机の上に無造作に置いたままだった老眼鏡を手に取りながら、戦闘の行われた時刻や地点などの概略が書かれた一枚目をめくり、二枚目の名簿に目を走らせる。氏名、階級、生年月日、認識番号を記入する欄がびっしりと続く用紙には、たった2つの名前しか記されていなかった。

 シュトフは目を上げて係長に訊ねた。


「二人だけか?」

「はい」

「敵方の兵力の規模はどれくらいだった?」

「およそ3個中隊と聞いております」


 シュトフは壁に貼られた地図を見た。


 ズノーシャの丘陵地帯には、南からの攻撃を牽制するために常に大隊規模の兵力が展開している。そこにあえて3個中隊で挑んでくる、その意図は何だ――?


 再び手元の書類に目を落とす。

 捕虜となったのは、1名が軍曹、1名が少佐。中隊においてこの階級の将校であれば、ほぼ間違いなく指揮官だ。


 名簿を見つめたままシュトフは黙り込んでいたが、自分の前で待つ係長が幾分落ち着きを失っていることに気づいていた。いつもであれば、シュトフは渡された捕虜名簿に目を通すこともなくサインして渡すのだったが、今回に限ってはどうも何かが引っ掛かった。


 若い中尉は、体の前で組んだ両掌をきつく握り締めている。それは自分が犯したかもしれない何か重大な失態と、上官からの叱責に対する不安をありありと示していた。

 顔を上げたシュトフは若干青ざめた表情で立っている中尉を一瞥し、手早く表紙の右上にサインすると書類を差し戻して言った。


「ここに載っているリーベン少佐というのを連れてきてくれ」


 安堵した表情で書類を受け取った管理係長が部屋を出ていくと、シュトフは背後の窓の外へ視線を転じた。

 朝方からずっと吹雪いていたが、ようやく小降りになったようだった。

 鉄条網の中に並ぶ細長いバラックの前の広場に、整列している捕虜の一団が見えた。別の一団は列になって、見張りの兵士に囲まれながら鉄条網の外に出ていくところだった。雪が収まってきたので、朝から中断されていた作業が再開されることになったのだった。


 シュトフは見るとはなしに外の光景を目で追っていたが、再び壁の地図に視線を戻した。ズノーシャの戦闘の意味を求めて忙しなく思考を巡らせる。


 あの要衝地の先にあるものといえば――この国の軍需設備の大半を扱う重工業都市ミルトホフ。そして流通の中継地として運輸業を支える産業都市アーナウ。狙うのはどちらの都市か――その場合、部隊の規模はどのくらいになる……?


 管理係長がシュトフの元を辞してから30分以上経って、ようやく再び部屋の扉がノックされた。


「捕虜1名、連れてまいりました」


 ドアを開けた兵士に続き、幾分小柄なひとりの男が、もうひとりの兵士に左脇を抱えられるようにして入ってきた。顔をしかめ、肩を上下させて息を切らし、片足を引きずっている。男の戦闘服の左足には広い範囲に黒ずんだ血が染み付いていた。


 シュトフは2人の兵士を下がらせると、部屋の中央に残された男にその国の言葉で訊ねた。


「氏名と階級は」

「デイヴィット・リーベン。陸軍少佐」


 足場の悪い雪道を、負傷している左足に全く配慮されないままバラックからこの管理棟まで歩かされたのは、かなりの苦行に違いなかった。額に脂汗が滲んでいる。それにもかかわらず、リーベンは背筋を伸ばして姿勢を保ち、意外なほどしっかりとした声で答えた。


 シュトフはじっとリーベンを眺めた。

 調書によれば、30を1つ2つ越えた歳だ。軍人らしい質実な態度。戦線に長く身を置いていることを窺わせる灼けた肌。引き締まった口元。緊張のためか今は硬い表情をしているが、本来は温厚そうな面立ち。そして何より、その目が印象的だった。深みのある焦茶色の瞳に強い意思を湛え、臆することなくまっすぐにシュトフを見つめ返している。


 シュトフは何の前置きもせず、単刀直入に切り出した。


「ズノーシャの戦闘では、君が指揮を執っていたのか?」

「その質問には答えられない」


 落ち着いた様子でリーベンが答えた。それは、尋問を受ける捕虜が必ずと言っていいほど口にする、予想していたとおりの決まりきった答えだった。

 シュトフは構わず続けた。


「君たちの目的地はどこだ――アーナウ、ミルトホフ、どちらを狙っている」


 一瞬、ほんの僅かにリーベンの表情が強張った。その動揺はすぐに押し隠されたが、シュトフは決して見逃さなかった。

 リーベンが淡々と答える。


「私は何も知らされていない。作戦の命令を受ければ、それを実行するだけだ」

「……そうか」


 あえてそれ以上、シュトフは食い下がらなかった。廊下に待機していた兵士を呼ぶと、捕虜をバラックに戻すように指示した。

 リーベンは来た時と同じように片脇を抱えられながら部屋を出ていった。


 その姿を見送ると、シュトフは卓上の受話器を取って交換手に中央情報局を呼び出すよう伝えた。


「第18捕虜収容所のシュトフ中佐だ。第1情報部長を頼む」


 保留のまましばらく待たされた後、ようやく相手が電話口に出た。シュトフの教え子であり部下でもあったその男は、以前の教官からの突然の電話に驚いた様子で堅苦しい挨拶を始めたが、シュトフはそれを軽く受け流した。


「――ああ、久しぶりだな。変わりはないか? ああ――そうか。そちらも色々あるな。ところで、今クルフはいるか?――実は気になる案件がある。昨日ズノーシャで戦闘があったのは知っているか?――いや。どうも部隊の動きが引っ掛かる。目標は恐らくアーナウ、ミルトホフあたりだ。昨日の戦闘で捕虜になった将校がいる。こちらで尋問を行いたい。クルフをよこしてもらえないか?――ああ、構わない。よろしく頼んだぞ」


 電話を切ると、シュトフは再び窓の外へ目を転じた。眼下に見える管理棟の出入り口に、足を引きずり、兵士に追い立てられながらバラックへと戻っていくリーベンの姿が見えた。


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