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最終話 雲間の光

 イリーエナの両手がリーベンの左手をぎこちなくそっと包んでいた。彼女の手は血の気がなく冷え切っていたが、精一杯の気遣いと償いの気持ちはそれだけでも十分に伝わってきた。


 リーベンはうつ伏せでただじっと横たわるしかなかった。背中が燃えるように熱い。呼吸に合わせて僅かに体が動くだけでも、一面に太い針を押し付けられたような激痛が走る。全身を痺れさせるほどの痛みに朦朧となりながら、イリーエナが耐えかねたように漏らす嗚咽交じりの溜め息を聞いていた。


 静まり返った空間に、廊下の向こうからやってくる数人の足音が聞こえてきた。リーベンは瞼を上げる気力もなく目を瞑ったままだったが、イリーエナが急いで手を離し、立ち上がってベッドから距離を取ったのが感じられた。


 ドアが開く音と共に、足音が部屋に入ってきた。


「デイヴ!」


 聞き慣れた声に名を呼ばれ、リーベンははっと目を開けた。

 入り口に、クルフと二人の兵士に挟まれて、体を戦慄わななかせたダルトンの姿があった。


「……バート……」


 前に立つクルフの横をすり抜け、弾かれたように駆け寄ってきたダルトンがリーベンの傍らに膝をついた。

 あれからずっと地下に閉じ込められていたのだろう、黴臭い冷気が親友の体に染みついていた。心配そうに覗きこむダルトンの頬には無精髭が伸び、以前よりもやつれて見える。だが、何よりも無事に再会できたことにリーベンは深く安堵した。


「バート……良かった……。心配してたんだ……」

「俺のことなんかより……ああ、くそっ、何てこった――」


 横たわるリーベンの体に腕を回そうとして、しかし血の滲む包帯が巻かれた体のどこに触れてよいのか困惑した様子で、ダルトンは差し伸べた手をためらわせた。


「リーベン少佐」


 クルフの声にリーベンは目を上げた。

 背後に二人の部下を従えた尋問官は、コートを着込んだ身なりを一分の隙もなく整え、制帽を小脇に挟み、若干青ざめた顔色でそこに立っていた。いつもとはまったく違うただならぬ雰囲気に、ダルトンとの再会の喜びもにわかに掻き消えていく。


 僅かな間、クルフは緊張感を浮かべたリーベンの眼差しを黙って受け止めていたが、口を開くといつにも増して感情の窺い知れない声音で言った。


「ミルトホフだったのですね――あなた方の兵力が集結しつつあるそうです」


 リーベンは思わず息を呑み、目を見開いた。


「――そうか、始まったのか……」


 先も見えず押し潰されそうな暗闇の中にあって不意に一条の光に目を射られでもしたように、軽い眩暈を覚える。吐き出した息が震えた。

 もうこれ以上、隠しとおす必要はなくなった。苦しい沈黙を続けずに済む――そう思うと一気に肩の荷が下りたようだった。


 だが同時に、相手が求めていた情報が明らかになった今、自分は無用の存在となったことははっきりと自覚できた。そして自分のみならず、この件に関わってしまったダルトンもまた同様の運命を辿ることも。


 異様な沈黙の中に厳しい状況を悟ったダルトンが顔を強張らせる。


 クルフの濃紺の瞳は強い光を帯びてリーベンに向けられていたが、やがて一言、低い声で短く言葉を発した。その途端、背後に控えていた二人の兵士が動いた。ベッド脇にいたダルトンを押しのけると、リーベンの両脇を取ってベッドから引きずりおろそうとする。背中の傷が引き攣れる激しい痛みに思わず呻いたが、リーベンは抵抗しなかった。


「やめろ! こいつに触るな!」


 ダルトンが叫び、リーベンから兵士を引き剥がそうと掴みかかる。


「手を出すな!――俺が連れていく」


 断固としたダルトンの言葉はクルフに向けられていた。クルフの指示で兵士たちは引き下がった。


「起きられるか?」


 険しい表情のまま、ダルトンがリーベンを覗きこむ。リーベンは頷き、痛みをこらえどうにか体を起こした。上半身には包帯だけで何も身に着けていないリーベンに、ダルトンが自分の防寒着を着せる。リーベンはやっとのことでベッドの端に腰をかけ、立ち上がろうとした。しかし、徹底的に踏みにじられ腫れ上がったままの足では体を支えることができなかった。

 倒れかけたリーベンをダルトンが素早く支えた。そしてそのまま向こうを向いて屈み込む。広い背中に促され、リーベンは自由にならない体を親友に預けた。


 ダルトンがリーベンを背負って立ちあがったのを見て、クルフは踵を返した。ドアノブに手をかけたその時、か細い声がクルフを呼び止めた。

 イリーエナだった。

 顔を向けたクルフが射抜くように彼女を見やる。

 それまで壁際に退いて声も立てずにいたが、彼女は両手を胸の前で固く組み合わせて震えながら、思い余ったようにたどたどしく何かを口にした。


 クルフは無言のまま鋭い眼差しを注いでいる。しかしリーベンには、クルフが彼女を見ているのではなく、彼女を通り越したその先の何かを注視しているように見えた。


 結局イリーエナの問いかけに答えることなく、尋問官は視線を外すとドアを開け部屋を出ていった。背後にいる兵士に急かされ、ダルトンもその後に続く。


 部屋を出る間際、リーベンは立ち竦んでいるイリーエナを振り返った。


「マルシャ、今までありがとう」


 イリーエナの灰色の大きな瞳が潤み、涙があふれて頬を伝っていった。きつく口元を押さえた両手の間から嗚咽が漏れた。


 ダルトンの背に力なくもたれて長い廊下を行きながら、リーベンはふと耳をそばだてた。

 階下からざわめきが伝わってくる。忙しなく歩きまわる幾つもの靴音、書類の束を乱雑に扱う時の紙の擦れあう音――2階の踊り場から下の広い玄関ホールを見下ろして、初めて状況を理解した。


 ファイルや書類を両腕に抱えて、左右の広間を落ち着きなく行き来する兵士や事務官たち。その腕の中から書類がばらばらと舞い落ちても顧みられることはなかった。床にはあちこちに紙が散らばっている。だが誰一人そんなことに構う者はいない。すれ違いざま短く交わされるやり取り、部屋の奥の方から聞こえる怒鳴り声、ホールの一角には書類を無造作に詰め込んだ箱の山――この収容所は間もなく放棄されるのだ。


 その騒ぎの中をクルフは先に立って進んでゆく。


 混血の将校とその後に続く捕虜を訝しげに振り返る者もいたが、その注目もほんの一時(いっとき)でしかなかった。ホールを行き交う誰もが慌ただしい撤収作業に気もそぞろで、不安の面持ちを隠し切れず、浮足立っていた。


 中扉を抜け、重厚な玄関口の前で、クルフは脇に挟んでいた制帽を目深に被った。そしてドアノブに手を掛けると、重々しい扉を引き開けた。


 澄んだ空気があふれるように流れ込んでくる。

 凍てついた朝の冷気を肌に受けながら、リーベンは外の眩しさに思わず目を閉じた。カーテンを閉め切った暗い部屋に慣れきっていた目には、薄曇りのおぼろな光でさえも眼窩の奥に沁み入るようだった。ゆっくりと一呼吸置き、そっと瞼を上げる。


 収容所の広大な広場を囲む鉄条網のその向こう、凍った湖を越えてなだらかに続く丘陵の遥か彼方の雲間に朝日が昇っていた。

 切れ切れに空を覆う紫がかった雲の隙間は、淡く霞んだ紅色に染まっている。雪に覆われた大地には青みを帯びた陰影がうっすらと落ち、灰色にくすんだ針葉樹の森や起伏の続く丘陵の姿を一層くっきりと浮かび上がらせていた。


 その光景を前に、抱え込んでいた重圧感に息詰まり強張っていた心がゆるやかに解きほぐれてゆく。


 せめて、毅然として死んでいこう――胸に迫る景色に目を投じながら、リーベンはごく自然にそう思えた――これで何もかもが終わりになる……。


 冷たく張りつめた外気が細かく震えていた。リーベンを背に負ったダルトンがふと空を仰ぐ。リーベンもつられて顔を上げた。聞き覚えのある低い唸りのような音が次第に強く耳の奥を震わせはじめる。


 爆撃機だった。おぼろげな陽の光に滲む数十もの機影が次第に大きくはっきりと見えてくる。長い主翼を持つ双発の鈍重そうな機体は間違いなく友軍のものだ。


 先を行くクルフは構う様子もなく車寄せを下り、そこではたと足を止めた。前を見つめたまま僅かな間立ち止まっていたが、不意に振り向くと後ろにいる二人の兵士に厳しい表情で声を掛けた。

 部下たちは気まずさと若干の反抗心の混ざった視線を交わし、連れだって管理棟の建物沿いに森の方へ駆けていく。


 彼らの姿が見えなくなって初めて、クルフはリーベンとダルトンに向き直った。


「来てください」


 それだけ言って再び歩き出す。

 リーベンはクルフの意図を量りかねたが、ためらいを見せることなく先を急ぐ背中をただ見つめるしかなかった。鉄条網の間に設けられたゲートから広場に入る。


 雲がかかった空と雪に覆われた大地の間の凍てついた空気の中で、腹の底まで響く低いエンジン音が大きく反響していた。頭上を幾つもの編隊に分かれた数十機が西に向かって――ミルトホフに向かって悠然と飛んでゆく。雲が高く高度を取れる今、対空砲火に気を遣うこともなく、整然とした隊形を保ったまま収容所の上空を進んでいた。

 この国の軍需産業を担う都市ミルトホフに対して、今まさに大規模な攻勢が行われようとしていた。


 クルフが向かう先に見える何棟もの粗末なバラックからは、薄汚れた身なりをした大勢の捕虜たちが転がるように外へと駆け出してきていた。

 誰もが一様に空を仰ぎ、次々に飛来しては頭上を通過してゆく爆撃機の姿と轟音に歓声を上げ、空へ腕を差し伸ばし、興奮に拳を振りまわしていた。その騒ぎを抑えようとする監視兵はいなかった。小銃を抱えたまま、爆撃機の大編隊を放心したように見上げるばかりだった。


 広場の中ほどを過ぎ、バラックの近くまで来た時、クルフが歩みを止めた。リーベンとダルトンを振り返る。確固として揺るぎない意志をたたえた濃紺の瞳がひたとリーベンに当てられていた。


「この収容所は間もなく解放されます。あなた方の軍勢がこの場所にも到達するでしょう」


 そう言って懐に手を差し入れると、一枚の封筒を取り出した。見覚えのある丁寧な字で宛名の書かれた封筒。ジーナからの手紙だった。


「これはお返しします」


 差し出された手紙をリーベンが受け取ると、角が折れ皺になった封筒の中で何かが小さな音を立てた。指を当ててみて、取り上げられた認識票と結婚指輪だと分かる。


 ここまで連れてこられたこと、返された大切な品――そこから導き出される推論に微かな希望が生まれるのをあえて押しとどめつつ、この行いの真意を知ろうとリーベンは尋問官を見た。


「あなたは生きるべきです」


 クルフははっきりとそう言った。青ざめた顔に、ぎこちない微笑みが浮んだ。リーベンが今まで幾度も目にしてきた、意識して作られた無機質な表情とはまったく違う、穏やかささえ感じさせる面持ちだった。

 その目の光が和らぎ、クルフはリーベンが想像もしなかった言葉を噛みしめるように口にした。


「リーベン少佐、あなたに会えてよかった」

「――クルフ大尉……ありがとう」


 リーベンはそう答えるのが精一杯だった。僅かに声が震えた。胸が締め付けられるようで、笑みを返すことはどうしてもできなかった。

 この後、クルフは自分の行為に責任を取るべく戻ろうとしている――その結果がどうなるか、予想するのは難しくなかった。そしてそれはクルフ本人が一番よく承知しているはずだった。


 クルフは少しの間リーベンを見つめていたが、思いついたようにさっとコートを脱ぐと、リーベンが着ている防寒着の上から羽織らせた。

 体をすっかり覆った丈の長い厚地のコートから、煙草と薪のにおいが微かに感じられた。薄暗い寝室で言葉を交わした時間がリーベンの脳裏に蘇る。


 何か言わなければ――今ここで引きとめなければ――咄嗟にその思いが沸き起こったが、言うべき言葉はただのひとつも見つからなかった。たとえ何か言えたとしても、それはクルフが下した決断に対して楽観的で無責任な発言にしかならないのだ……。


 クルフはダルトンに向き直ると言った。


「少佐を頼みます」

「分かった」


 ダルトンが大きく頷く。クルフもその答えを確認するように目で頷き、そして踵を返した。


 管理棟の入り口の前に立ってこちらを見ている初老の将校の姿があった。クルフはまっすぐにその元に歩いてゆく。彼の挙措には一片の迷いも見られなかった。

 やがて二人は相対あいたいすると、静かな様子で二言三言、言葉を交わしたようだった。


 リーベンは目を凝らし、息を詰めてその光景を見守っていた。


 クルフが銃を取り出し、初老の将校に握把を向けて差し出した。将校はそれを受け取ったまま相手にじっと視線を注いでいたが、やがてその銃口をゆっくりとクルフの胸に向けた。クルフの姿は動かなかった。


 上空を次々と通過してゆく爆撃機の唸りだけが耳を聾するほどに大きく響き渡り、体の奥を震わせている。

 銃声は聞こえなかった。

 銃口から硝煙が上がると同時にクルフの体は雪の上に崩れ落ち、そのまま二度と動かなかった。


 クルフ大尉――。


 大勢の捕虜が空を見上げて腕を振り歓声に沸く中、ひとつの亡骸と、その横で俯いたまま身動みじろぎもせずに佇む人間の姿を、リーベンはいつまでも見つめていた。




<完>




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