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第45話 情愛と憎悪

 寝静まって深閑とした収容所に起床ラッパが鳴り響いてから1時間ほど過ぎた頃、薄雲に覆われた空はまだ夜の色合いを濃く残していた。この季節、太陽が昇る時刻は日に日に遅くなる。それでも今は東からだいぶ白み始め、収容所から見下ろすイヨール湖やその向こうに続くなだらかな丘の輪郭が次第にはっきりと見て取れるようになっていた。


 こんなに明るい朝は久しぶりのような気がする。


 イリーエナは空を見上げてそう思った。

 雲は高いところで空を薄く覆っており、雪が舞い落ちてくることもなかった。厚い雪雲が垂れ込める時に比べると、景色が明るんで見える。


 二人分の朝食を入れた籠を腕に下げ、もう片方の手で炊事婦のドゥラーシャにこっそり渡された紙包みを大切に懐に抱えて、彼女は管理棟へと向かっていた。炊事場の入るバラックから管理棟まで続く緩い上り坂を急ぎつつ、慎重に足を運ぶ。小道を覆う雪は踏み固められて凍っている。風はなく、凍てついた空気は肌に痛いほどだが、張りつめた冷気の中を歩いていると、まだ瞼に残っている眠気をすっきりと拭い取られるようで気持ちが良かった。


 鉄条網に囲まれた広大な敷地は静まり返っている。少し前までは監視兵たちが作業に向かう捕虜の一群を急かす気怠そうな声が飛び交っていたが、その群衆の姿は今はもう収容所の背後に広がる針葉樹の森の中に消えていた。


 管理棟に着き、車寄せに続く階段に足をかけた時、彼女はふと立ち止まった。空を仰ぎ耳を澄ます。

 ほんの微かだが、凍りついた空気を震わせる低い唸りのような音が聞こえた気がしたのだ。野戦病院で働いていた時に嫌というほど聞き覚えた音――爆撃機のエンジン音を直感的に思い出す。鼓膜を容赦なく震わせ、胃の腑まで響き渡り体中を細かく揺さぶるようなあの音を聞くと、それが敵の機であろうが味方の機であろうがたまらなく不安になり、背筋がざわめき落ち着かない気分になるのだ。


 背後で突然大きな音がして、彼女は思わず跳び上がりそうになった。振り返ると、軍用トラックが騒々しい音を立て、2台連なって鉄条網の向こうをゆっくりと走り去っていくのが見えた。空から聞こえたと思った音はもう分からなかった。


 気を取り直し、玄関の重い扉を開けて中に入り、人気のないホールを抜け二階に上がる。一階の広間に机を並べて事務処理にあたる担当官たちの出勤時間にはまだ少し早い。


 自分の仕事場である寝室に入ると、ベッド脇のシェードライトの灯りは落とされたままで、一晩が過ぎた暖炉の火も消えかけていた。厚手のカーテンが常に引かれた部屋の中はまだ夜そのものだった。


 食事の入った籠をそっと丸テーブルに置き、コートを脱ぎながらベッドの上の患者の顔を覗き込んでみる。リーベンはまだ眠っていた。どこかが痛むようでもなく、悪夢にうなされている訳でもない表情を見て、彼女はほっとした。部屋が冷え切ってしまわないようにすぐに暖炉に薪をくべに行き、干しておいた洗濯物を取り込む。


 手を動かしながらも、イリーエナはこの数日間ふとした時につい考えてしまうことを今もまた無意識に繰り返していた。


 これからこの人はどうなるんだろう……。


 おびただしい数の傷口もようやく乾き始め、体を起こしていられる時間も少しずつ長くなってきた。ひとりで寝返りを打つことすらできないほど衰弱していた患者が日に日に回復してゆく様子を見るのは純粋に嬉しかった。


 しかし一方で、このまま順調に体力が戻れば、そう遠くない時期にリーベンはまた酷い目に遭わされるのではないかという確信めいた恐ろしい予感が消えなかった。思いついたように部屋を訪れてはリーベンの状態を確認してゆく無表情な軍曹と、冷たく人を射るような目つきをしている混血の大尉の、間違っても友好的とは言えない態度が彼女の予感を裏打ちするようだった。


 自分の置かれた状況とこれからについて、リーベンはどう考えているのか――涙を見せてから、その表情からも態度からも力んだところが消えたように見えた。だがそれは気持ちが軽くなったという様子ではなく、むしろ何もかも完全に諦めきってしまっているようにも思えるのだ。


 彼の変化が良い方向に向かっているものなのか、それとも好ましくない状況に向かっているものなのかを判断しかねて、彼女は自分に向けられる笑顔を見る度に言いようのない哀しさを感じるのだった。


 考えに耽ったまま洗濯物を畳み終え、朝食の準備だけでも先にしておこうとベッド脇に戻ると、リーベンは目を覚ましていた。


 挨拶を交わし、彼女はシェードライトを点けた。この部屋ではその灯りだけが唯一、夜と日中を区別するものだ。リーベンが起き上がろうとしているのを見て手を貸してやる。背にクッションを当てがい、まだ暖まりきらない部屋の中で寒くないようにと肩にタオルをかけてやりながら、彼女は努めて明るく声をかけた。


「今朝はまた素敵なものをもらってきたんです」


 傍らの籠から紙包みを取り出しベッドの上に差し出すと、そっと開いて見せる。濃厚な甘い香りが漂い、一口大に四角く切られた、艶のある濃いオレンジ色の菓子が5つ、どことなく気取った様子で現れた。

 リーベンが興味深そうに彼女の手元を覗きこむ。


「何だか分かりますか? 卵の黄身とシロップを混ぜて、蒸し焼きにしたものなんですって。こんなお菓子、初めて見ました……」


 一体ドゥラーシャはどこでこんな高級そうな菓子の作り方を覚えたのだろうと、イリーエナは中年の炊事婦に改めて驚く。


 二人で頭を突き合わせるようにして、しばらくその見慣れない上品な菓子をめつすがめつしていた。


「食べてみますか?」


 ひとつつまもうとした時――不意にドアが勢いよく開いた。


「マルシャ、またちょっと頼みが――」


 イリーエナもリーベンも驚いて顔を上げる。戸口に立っていたのはライヒェルだった。


 続ける言葉を失ったライヒェルが目を剥き、二人を凝視する。その顔が見る間に紅潮していった。喘ぐように二、三度大きく肩を上下させたかと思うと、憤怒の形相で足音も荒く突進してくる。そして大きく腕を振り上げ、イリーエナの手から小さな菓子を叩き落とした。

 驚いて声を上げかけた彼女は、間髪を置かずに頬を力任せに張り飛ばされ椅子から転げ落ちた。


「おまえ……この裏切り者! 敵の捕虜に馴れ馴れしくしやがって! 甲斐甲斐しく世話をするふりをして、色目を使ってたな! この売女ばいた、アバズレ女め!」


 イリーエナは床に座り込んだまま、平手打ちされた方の頬を押さえ、顔を真っ赤にして口汚く罵る男を茫然と見上げていた。

 血走った目を吊り上げ、ライヒェルが腰に下げていた太い鞭をさっと抜き取った。

 彼女は反射的に身をかわそうとした。が、それよりも早く、鞭先が肩口を激しく打ち据えた。彼女は悲鳴を上げてのけぞった。体の芯まで痺れるような強い痛みに、一瞬目の前が真っ白になる。ライヒェルが再び鞭を振り上げたのが見えた。思わず目を閉じ身構える。


 その時だった。


 ドサッと何か重いものが落ちるような音がして、ほぼ同時に鞭が皮膚の上で弾ける鋭い音が響き、何かが彼女に飛びついてきた。

 鞭は振り下ろされたにもかかわらず、痛みを感じなかった。訳が分からず、恐る恐る目を開けてみる。


 リーベンだった。彼女を自分の懐に押し込めるようにして覆い被さっているのだった。


「貴様……! 何の真似だ!? この薄汚いゴミ野郎が! ふざけるな――!」


 激昂のあまり裏返ったような甲高い声でライヒェルは喚き散らし、手にした鞭を滅茶苦茶に振り下ろし始める。

 リーベンは声を上げなかった。ただ、押し殺すような短い息遣いだけが彼女のすぐ間近で聞こえていた。彼女をきつく抱きしめている腕や、頬が押し付けられている胸の筋肉が、打擲ちょうちゃくを受ける度に痙攣するように震え、強張った。


 イリーエナはどうすることもできず、リーベンの胸の中で涙を流し、ぶるぶると震えていた。鞭が空気を引き裂いて発する重い唸りと、容赦なく背中を打ち据える派手な音を空恐ろしい思いで聞きながら、この残虐な行為が一刻も早く終わるようにと、ただそれだけを一心に祈っていた。


 どのくらいの時間が経ったのか、ようやく鞭の音が止み、ライヒェルは床を踏み鳴らして部屋を飛び出していった。


 リーベンに抱きしめられたまま、イリーエナはしばらく口を利くこともできずに涙をこぼしながら座り込んでいたが、我に返って身動ぎすると、リーベンは彼女の体に回していた両腕の力を抜いた。そしてそのまま彼女にもたれかかるような恰好でずるずると床に倒れ込んだ。

 その懐から這い出したイリーエナのすぐ目の前に、激しく痛めつけられた背中があった。薄手のシャツも包帯も無残に引き裂かれ、背中一面に幾筋も皮膚がえぐられ、ようやく塞がった傷口もぱっくりと口を開いている。真っ赤に腫れ上がった背中は鮮血に濡れ、目を覆いたくなるような惨状になっていた。あまりの酷さに眩暈さえ覚える。


「……ああ……何てこと……神様! 私のせいで……私のせいで、こんな……。ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 床に蹲ったままのリーベンを泣きながら抱え起こし、苦労してベッドに運び上げた。やっとのことでそれだけすると、膝ががくがくと震えてそれ以上立っていられなかった。ベッドの脇にへたり込む。


 うつ伏せで横たわっているリーベンが力なく目を開けた。彼女を見ると弱々しく微笑み、何事かを囁く。ショックで泣きじゃくっている彼女をなだめるように優しく小声で同じ言葉を何度か繰り返していたが、やがて力尽きたように再びぐったりと瞼を閉じた。


 そうだ、手当てを――。


 ようやく思い至ったイリーエナはベッドの端を握り締めて何とか立ち上がり、チェストの上に置いてあった処置具を持ってきたが、手の震えが止まらずに消毒薬の瓶を何度か取り落とした。


 平手を受けた方の頬は熱く、鞭の当たった右肩はまるで火傷でもしたようにじんじんと痛んでいる。たった一度打たれただけにもかかわらず、根こそぎ気力を削がれるような痛み。そんな恐ろしい打擲を、自分を庇って数十発も受けたリーベンの苦痛を想像すると、申し訳なさに胸が潰れるようだった。


 彼女はあふれてくる涙を何度も何度も拭いながら、痛々しく抉れ、血が流れ出る幾つもの傷口をガーゼで必死に押さえていった。



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