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第31話 耐え難い無力感

 ダルトンは暗闇の中で自分自身を抱えるようにして、ただじっと座り込んでいた。がらんとして狭い独房の中には、黴臭い冷気が澱んでいた。少し前までリーベンを包んでいた毛布を頭から被り、自分の吐く息で僅かでも暖を取ろうと、抱えた両膝の間に顔をうずめる。

 拷問官に刃向って散々蹴りつけられた体のあちこちが疼いている。切れた唇や腫れ上がった頬骨のあたりなどは、顔の筋肉を少し動かすだけでも痛んだ。


 閉ざされたこの地下の空間は恐ろしいほど静かだった。尋問を行うクルフの声が聞こえてくるわけでも、拷問官たちの罵声が響き渡るわけでもなかった。

 だが、時折漏れ伝わってくる呻き声やくぐもった叫び声が、静まり返って凍てついた空気を微かに揺らす。この壁の向こう、廊下の先では、確かにリーベンが苦痛を与えられているのだ。

 苦悶の声が耳に届く度に、ダルトンはびくりとして冷え切った拳を固く握り締める。


 もうやめろ――やめろ――やめてくれ……!


 どのくらいの時間が経ってからか、人が動き回るざわめきのような気配が伝わってきた。

 ダルトンは思わず立ち上がった。

 歩調の整わない硬い靴音が次第に近づき、独房のドアが開けられる。廊下の薄明かりを受けて、二人の拷問官に抱えられたリーベンの体が今までにも増して傷つき、血にまみれているのが見て取れた。

 荷物のように投げ込まれたその体を抱きとめる。よほどひどい扱いを受けたのか、手足は強張り、小刻みに震えていた。


 胸が締め付けられるようだった。自分はほぼ無傷で済んでいるその傍らで、親友だけが弄られ、時間とともに体の状態は急速に悪化している。もともと筋肉質だった体は痩せ衰え、常に鍛錬を怠らずにいた頃の様子を思い出すことも難しいほどだった。


 ほとんど明かりのない中で、すっかり薄くなった肩に慎重に手を回してそっと抱き起こす。たった一枚だけ与えられた毛布を体に巻いてやり、さらに脱いだジャケットで毛布の上からくるんだ。そして、できる限り痛みを与えないように注意してリーベンの上体を支えると、自分の腕にしっかりと抱きしめた。


「……」


 声にならない声で、切れ切れにリーベンが呟いた。礼の言葉を口にしたようだった。

 ダルトンは頭を振って答えた。


「こんなんじゃ、気休めにもならねぇけど」


 自分の防寒着をリーベンに与えたダルトン自身も、寒さに震えが湧き上がるようだった。手足の先の感覚はなくなっている。リーベンの頭の重みを受けている右腕も、血が滞ってすぐに痺れてきた。それでもダルトンは、酷く傷ついた親友の負担にならないよう、できる限り体を動かさずにじっとしていた。

 血と泥で汚れてごわついた髪を、何度も何度もそっと撫でる。他にどうすることもできなかった。全身に傷を負った体に触れれば痛みを与えるだけだった。


 そうするうちに、強張って固くなっていたリーベンの体から徐々に力が抜けてゆくのが感じられた。震えも少しずつ収まってきたようだった。

 落ち着いてきたのか、ダルトンにぐったりと体を預けて目を閉じたまま、喉の奥から絞り出すような声でリーベンが呟いた。


「……バート……大丈夫だったか……?」

「ああ。あれくらい、どうってことないさ」


 それを聞くと、リーベンは安堵したように微かに頷いた。


 ダルトンは自分自身を叱咤した。


 俺がめそめそしていれば、こんな悲惨な状態であってさえ、デイヴは俺を不安にさせまいと気丈に振る舞おうとするだろう。俺がしっかりしなければ。せめてほんの少しでも、デイヴの気持ちを軽くしてやらなければ。


 ダルトンの胸に頭を預けていたリーベンが弱々しく咳き込んだ。上着の胸元に、細かい血染みが散った。リーベンは顔をしかめて辛そうに喘いでいる。不規則な呼吸に、空気が擦れるような音が混ざる。


 ダルトンは暗澹とした気持ちになった――肺が傷ついているに違いない。


 激しく衰弱した状態で熱もあり、更にこれ以上の暴行を受ければリーベンは持ちこたえられないのではないかと、気が気ではなかった。重傷の親友を前にして何もしてやれない自分に歯噛みする。左腕に巻いている赤十字の腕章が恨めしい。


 リーベンが何度か喉仏を上下させた。力なく僅かに開かれたその唇は乾ききってひび割れている。


「水か?」


 ダルトンはそろりそろりと体を動かして、傍らに置いておいたブリキのカップを引き寄せた。一杯の水と二枚の薄いライ麦パンだけは与えられていた。

 様子を見ながらリーベンの口に少しずつ水を含ませる。ほんの少し飲んだだけで、リーベンは唇を離した。


「パン、食うか? 柔らかくすれば食べやすいだろうから――」


 硬くなったライ麦パンの端をカップの水に浸しながらそう訊いたが、リーベンは小さく首を横に振り、力尽きたようにダルトンに体を預けた。


「……ああ……疲れたよ……。もう……くたくただ……」


 ふと、リーベンが呟いた。


「……バート……俺はもう……駄目かもしれない……」


 ダルトンははっとした。知り合ってから今までの年月の中で、リーベンの弱音を聞いたのは初めてだった。

 譫言うわごとのように呟かれた言葉が、自白の可能性を意味しているのか、それとも死を意味しているのか、ダルトンはとっさに判断しかねて言葉に詰まった。しかし、どちらにせよ、これだけの過酷な状況を耐え忍んできた人間に、この上更に「頑張れ」と声をかけることなどできなかった。


「……頼みが……あるんだ……」


 一言発する度に、苦しそうに息をつく。


「お前が……戻ったら……妻と息子に、愛していると……」


 親友の遺言のような言葉など、聞きたくはなかった。だが同時に、今、聞いておかねばならないのかもしれないと、悲愴な覚悟を求められているようにも感じていた。


「……指輪も……認識票も……とられて……何も……。だから、言葉だけでも……頼む……」


 熱に浮かされたようにリーベンは呟き続けた。


「……作りかけの……もう……間に合わないな……あれも……一緒に……」

「分かった、大丈夫だ、デイヴ。何も心配ないから――もうそれ以上無理して喋るな」

「……頼む……バート……」

「大丈夫だ。大丈夫だから。心配することない」


 ダルトンはもう何と言っていいのか分からなかった。

 だが、リーベンは親友の言葉に安心したように僅かに微笑むと、ようやく口を閉じた。


 息詰まるほどの重苦しい静寂の中で、不規則な息遣いだけが聞こえている。

 リーベンが、混濁し始めた意識の下で震えるように吐息を漏らした。


「……ジーナ……。ティム……」


 瞼の閉じられた目尻から涙が流れ落ちた。


 どうすることもできない中で、時間だけが無為に過ぎてゆく。これから自分たちはどうなるのか、どう考えてみても希望の持てる想像はできなかった。


 疲労と寒さで、ダルトン自身も朦朧となっていた。リーベンを抱きしめたままうつらうつらしていたが、はっと目を覚ました時、腕の中のリーベンの様子がはっきりと違っていた。


 ダルトンに体を預けたまま、喘ぐように顎を上下させて、か細く浅い呼吸を途切れ途切れに繰り返している。

 リーベンの体に回している腕に異常な熱さを感じた。今までとは違う、恐ろしいほどの熱だ。ただでさえも衰弱している体から、高熱は容赦なく生命力を奪い取ってゆく。ダルトンが最も恐れていた事態だった。


「デイヴ、デイヴ!」


 強く呼びかけても反応はない。

 しっかりと抱えなおそうとして腕を動かしたとき、リーベンの頭がぐらりとかしいで後ろに大きくのけぞった。手足にも力はない。体の熱さを除けば、まるで死人を抱いているようだ。    


 ダルトンの全身から血の気が引いた。そっとリーベンを床に横たえると、固く閉ざされた重い扉に駆け寄り、声の限りに叫びながら力任せに叩き続けた。


「誰か! 誰か、いないのか!? このままじゃデイヴは死んじまう! 頼む、誰か来てくれ! 誰か……お願いだ……」


 ダルトンの声は暗闇に虚しく反響するだけだった。


 クルフと二人の拷問官が再び独房を訪れたのは、ダルトンにとっては永遠とも思えるような時間が経ってからだった。


 冷たい床に寝かされたリーベンを三人が取り囲んでいる。

 独房の隅に追いやられたダルトンは、不安を抑えきれず、息を詰めて目の前の光景を見守っていた。

 一人がリーベンの傍らに屈みこみ、聴診器を当ててしばらく胸の音を聞いた後、瞼を押し上げてライトで照らし、瞳孔反射を調べている。手首の脈をとり、その後、顎の下にも指を押し当てた。


 瀕死のリーベンを前にしても、どの顔にも目立った表情はなかった。ましてや焦る様子は全く見られず、二言三言、短い会話が交わされただけだった。

 その光景からは、この後リーベンが今までよりは少しでも丁寧な扱いを受けられるかもしれないという、ささやかな期待さえも否定されるようだった。


 拷問官たちが意識のないリーベンの両脇を抱え上げ、引きずりながら運び出そうとしている。

 いつふっつりと心臓の動きを止めてしまっても不思議ではないほどの状態のリーベンに再び拷問が加えられるのかと思うと、ダルトンは救いようのない絶望感に襲われた。


 リーベンを運ぶ拷問官の後ろからついて出ようとしていたクルフに、ダルトンは必死で縋りついた。


「頼む……! これ以上デイヴを傷つけないでくれ! あいつを休ませてやってくれ! どうか……もうこれ以上……」


 振り向いた尋問官は煩わしそうに眉を顰めると、無言でその手を振り払った。


 ダルトンの鼻先で、音を立てて重い扉が閉じられた。



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