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第30話 近づく限界

 過酷な拷問から解放され、独房に戻される度に、ダルトンはリーベンを抱きしめて涙を零した。


「済まない――お前ばかり……」

「……泣くな、バート……。心配ないから……」


 嗚咽を漏らす親友に、リーベンはおぼろげな意識の中で「俺は大丈夫だ、心配ない」と――それはダルトンにだけでなく、自分自身にも言い聞かせるために――繰り返し呟いていた。


 これほどの状態になっても生きながらえていることが不思議でならなかった。

 鞭で肉を引き裂かれ、執拗に蹴り回され、殴られている体は何か所も骨折しているようだった。凍えるような寒さの中に放置され、満足な食事は与えられない。そんな状況で発熱し、自力では腕を持ち上げることもままならないほど衰弱している。今となっては舌を噛み切って自殺する力さえ残っていなかった。


 ここから助け出されることはないだろう。そして彼らは、哀れな獲物を半殺しにしたままずっと生かしておくことのできる素晴らしい術を持っている――リーベンは可笑しくなって微かに笑った――一体いつになったら死なせてもらえるだろう?


 いっそのこと、ダルトンに首を絞めてもらえばそれで終わらせることができるだろうと、虚ろに想像したこともあった。だが、すぐにそんな考えは捨て去った。


 もし俺が死ねば、彼らの注意はバートに向けられる。あいつを同じ目に遭わせるわけにはいかない……。何より、自分の親友を手にかけたとなったら、バートは一生罪の意識を背負うことになる……。


 遠くから、扉を開閉する重い音が微かに聞こえた。それだけで、条件反射のように恐怖が蘇る。


 今度は一体どれだけの時間、容赦ない暴力に耐えなければならないのだろう。


 恐ろしさに押し潰されそうになる自分を抑えようと、歯を食いしばる。廊下を進む足音はためらう気配さえなく近づいてくる。

 堪えきれず、体が震えだす。緊張のために喉が締め付けられるようだった。満足に息がつけない。


 今度は何をされる?――どれだけ耐えればいい――?


 リーベンを抱くダルトンの腕に力が籠った。


 扉に取り付けられた鍵が騒々しい音を立てて開けられる。戸口に拷問官たちの姿が現れた時、ダルトンの体が離れ、リーベンは床に寝かされた。

 ダルトンはリーベンを庇うようにして、拷問官たちの前に立ちはだかっている。


「これ以上デイヴに触るな!」


 武器を持った相手に抵抗したところで状況は変わらない。そしてそのことはダルトンもはなから承知のはずだ。それでもなお、親友が連行されるのを黙って見ていることに耐えきれなくなったのだ。


 やめろ、バート……。


 リーベンはやっとのことで腕を持ち上げて、弱々しくダルトンのズボンの裾を掴んだ。精一杯の制止だった。しかしその手はあっさり振り退けられ、ダルトンは拷問官に飛びかかった。

 拷問官が素早く腰の警棒を抜く。

 リーベンは思わず息を呑んだ。

 躍りかかっていったダルトンは、その脇腹にまともに警棒の殴打を受けて床に倒れ込んだ。

 二人の兵士は反抗的態度に出たダルトンを足蹴にしていたが、しばらくすると気が済んだと見え、リーベンの両脇を抱え上げて独房から引きずり出した。


 バート――!


 蹲ったまま動かなくなった親友の無事を確かめたかったが、拷問部屋に連れ込まれると、この後自分の身に起こる現実を否応なく突きつけられる。


 いつもの薄暗い調理場の様子が何か違った。

 腫れ上がった瞼のせいで狭くなった視野の中でも、壁に造りつけの大型のオーブンに火が入っているのが見て取れた。使い込まれて白っぽくなった鋳造の厚い扉には何か棒のようなものが挟まっているようで、半開きになっていた。その隙間から、中で燃えさかる炎が眩しく感じるほど輝いて見える。


 リーベンはいつものように部屋の中央付近の鎖に繋がれ吊るされた。


「そろそろお終いにしませんか、リーベン少佐」


 頭上から降ってきた声に、リーベンはようやくのことで顔を上げた。

 暗く霞む視界に、クルフが腕組みをしながら見下ろすように立っているのが見えた。睨みつけようとしたが、目に力が入らない。眩暈のように視界が揺らめき、焦点すら定まらなかった。

 リーベンは再びがっくりと項垂れた。飢えと寒さ、高熱と傷の痛み。体力も気力も、もはや限界に近かった。


「何度も言いますが」


 まるで聞き分けの悪い子どもを諭すような口調でクルフが言った。


「あなたの回答次第では、今すぐにでも暖かい部屋のベッドに運んで適切な手当てをして差し上げることもできるのですよ。意地を張るのはおよしなさい」


 背後で宙を切る鞭の低い音が何度か聞こえた。それだけでリーベンの体は委縮した。

 クルフの懐柔の言葉に、衰弱しきった心が揺らぐ。


 ただ横になるだけでも……たとえ冷え切った床の上であったとしても、人の足音に怯えることなく眠れたら、どんなに楽だろうか――。


「食事もお持ちしましょう。もう何日まともなものを口にしていませんか? 柔らかいパンと、温かいスープと……。それらは、たった一言で手に入るのです」


「協力的な姿勢を見せて下されば、私たちはあなたに手を下すこともありません。あなたを友人としてもてなすことができるのです。もうこれ以上こんなところで無意味に寒さや苦痛に耐える必要などないのです」


「アーナウか、ミルトホフか――たったひとつの回答だけでいいのです。それだけで、この状況を終わらせることができる。そしてそれは、あなた次第です」


「さあ、もうお終いにしましょう。話していただければ、後は然るべき時に、無事に国許に戻れるのです。奥さんとお子さんをもう一度抱きしめることができる。お子さんの成長を見届けることができる」


 ――パパ、僕ね、自転車にもう少しで乗れそうなの。今度はパパと練習したいんだ!

 ――あなた。家のことは何も心配いらないから。でも、必ず――必ず戻ってきて。


 目の前に、ジーナとティムの姿が鮮やかに浮かび上がり、気持ちが萎えそうになる。

 すぐ耳元で、畳みかけるようにクルフが優しく囁く。


「故郷からの手紙には、何と書いてありましたか? あなたの無事を祈り、帰国を待つ家族がいるのです。奥さんやお子さんを悲しませるようなことを、不幸にするようなことを、あなたは敢えてしようというのですか?」


「これだけの苦痛に、あなたはもう十分過ぎるほど耐えました。自白したとしても、誰が責められるでしょう? ここまで耐えられる人間はそうはいません。あなたはよく頑張りました。もういいですからお言いなさい、あなたが知っていることを」


  話せば、この苦痛も終わるんだ……。横になっても蹴り上げられることなく、暴力に怯えることなく、傷の痛みに苛まれることもなく、何も心配せずに眠れる……。少しでもいい……休みたい……ゆっくりと……眠りたい……。


 喉元まで声が出かかる。

 しかし、リーベンは今にも挫けそうになる自分自身を死に物狂いの葛藤の末に抑え込むと、やっとのことで頭を横に振って精一杯の拒絶を示すのだった。


 クルフはあからさまに大きく溜め息をつくと、後ろにいた部下に短く何事かの指示を与えた。


 突然、髪を鷲掴みにされて顔を上向かせられ、口に布切れが押し込まれた。猿轡を噛まされる時には決まって恐ろしい苦痛を与えられるのだ。次に何が行われるのか、極度の緊張と恐怖に体が震える。

 背後で二人の拷問官が動き回っている気配があった。時折、金属がぶつかるような音がする。何をしているのか分からないことが一層恐ろしい。


 と、一人が彼の正面に現れた。その姿を見て、思わず息が止まる。

 拷問官は長い灰掻き棒を手にしていた。へらのようになったその先端は真っ赤に焼け、薄暗い部屋の中で禍々しいほどに光って見えた。


「話してみようという気にはなりませんか?」


 拷問官の後ろに立ったクルフが、この状況に不似合いなほど落ち着いた声でゆったりと訊ねる。


 棒の先がじわりと体のそばに寄せられ、腹から胸へ、肌のすぐ上を弄るように動いてゆく。拷問官がほんのわずかに手を動かせば、灼熱の塊が体にめり込み肌を焼き焦がすだろう。


「どうです? 気は変わりませんか?」


 恐怖で全身の筋肉は委縮したようになっていた。脂汗が吹き出す。

 やめてくれ――そう懇願できたら、どんなに楽なことか。

 だが、それ以上考えることをやめた。考えてしまえば、自分を保てなくなりそうだった。リーベンは猿轡を噛みしめ、震えながらかぶりを振った。


 その瞬間、ジュッと音を立てて胸元から白煙が上がった。

 猿轡の下でリーベンは絶叫した。視界が真っ白になる。両腕を拘束されたまま激しくもがいた。

 焼けた棒はいったん引き離されたが、またすぐに別の箇所に押し当てられた。自分の意思とは関係なしに、喉から悲鳴が迸る。


 強張っていた体から、がくっと力が抜けた。リーベンは涙を流し、息も絶え絶えになって喘いでいた。暗闇に吸い込まれるように意識が遠のきかける。途端に頬を張り飛ばされ、再びどうにか目を開く。

 猿轡が外され、耳元でクルフの声が低く聞こえた。


「辛いでしょう? 意地を張るのはおやめなさい、少佐。遅かれ早かれ、あなたは自白することになるのですから、無駄に苦痛に耐えることはありません」


 もはや顔を上げることすらできなかった。火傷の痕が生々しく残る胸に涙と脂汗が滴り、血と混じり合ってコンクリートの床にも幾つも染みを作っているのが、涙で滲む視界に映っている。


 もう許してくれ、頼むからもう終わりにしてくれ……!


 今にも叫び出し、クルフの足に縋り付いて慈悲を乞いたいと思う自分がいる。

 一瞬、意思がぐらりと揺らいだ。


 ああ……俺はどうしてこんな目に遭っているんだろう……。自分が必死に守り通そうとしていることは、そんなに重要なことなのか……? たったひとつの都市の名前だ。それだけのことで、死ぬほどの苦痛を与えられなければならないのか……それだけのことで……。ただ一言、「ミルトホフ」と言えばそれでいい……この生き地獄から……解放される……こんなことは、もう、終わりだ……。


「リーベン少佐!」


 強い口調で名を呼ばれ、我に返る。一時、気を失ったようだった。

 クルフがすぐ傍で身を屈め、見上げるようにしてリーベンを覗き込んでいる。その厳しい表情に、リーベンはふっと自分を取り戻した。


 そうだ……彼らも必死だ……何としてでも情報を得ようとしている。それだけの価値があることなんだ……。それを漏らしてしまったら……俺はきっと、一生後悔する――。


 その決心がどんな結果をもたらすか、想像することさえ恐ろしかった。だが彼は自分の弱さを振り切るように、最後の力を振り絞り、絶望的な思いで呟いた。


「喋るつもりはない……。殺せ……」



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