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第13話 動揺の連鎖

 沈鬱な空気の中、祈祷を唱える従軍牧師の声だけが静まり返った医務室の中に低く響いていた。

 診察台の上に横たえられた男の遺体を囲んで、軍医と二人の衛生兵、そして数人の男たちが頭を垂れている。数刻前の緊迫した状況が嘘のようだった。


 他の入院患者と同様に、リーベンも押し黙ったまま、奥の部屋で執り行われているささやかな、しかし厳かな儀式をじっと見つめていた。


 最後の祈りが済み、亡骸が毛布にくるまれて戦友たちの手によって運び出されてゆくと、それまで遠慮がちに息を潜めていた患者たちは、ほっと緊張を解いてお互いに顔を見合わせた。


「他人事じゃあねえよ……」

「気持ちは分かるが、死んだらお終いだよ」

「それでもなあ……先が見えないってのは、何よりもこたえるんだよな……」


 控えめな囁きが交わされる中、リーベンは手元の皿に目を落とした。ミラーが気を利かせて温めなおしてくれたスープは、すっかり冷えきっていた。


 抑留生活に絶望した男が自殺した。図らずも目撃することになったその最期の光景は、今、リーベンの心に重苦しく覆い被さっていた。 


『パパ、次はいつ帰ってくるの?』


 木々の緑が日ごとに濃くなる初夏の庭で、リーベンが投げたボールを両腕をいっぱいに広げて受け取った後、無邪気にそう訊ねた幼い息子の姿が思い浮かんだ。あの時自分は何と答えたのだったか――。


『そうだなあ……春になる頃にでも、また帰ってこられたらいいな』


 若干の期待を込めて曖昧に濁した言葉に、ティムはもうそれが絶対だと信じて疑わない喜びようで飛びついてきた。


『そしたらね、今度の時は僕、釣りに行ってみたいんだ! 友達がね、こーんなにおっきな魚を釣ったんだぞって、いっつも自慢するんだもん』


 子どもらしい早合点で、春には必ず父親が戻ってくるものと思い込んではしゃいでいる。

 その様子に苦笑しながら、ティムの小さな頭を撫でて言った。


『じゃあ、次の時には一緒に釣竿を買いに行こうな』――。


 クルフの言葉が思い出された。

 いつ故郷に戻れるだろう――1年後なのか5年後なのか、それとも10年後になるのか……。久方ぶりに帰宅した父親に構ってもらおうと纏わりついてくる、今はまだ小さなこどものティムも、10年後には15歳の若者になっているはずだ――。


 そこまで考えて愕然となった。

 無意識にスープをスプーンでかき混ぜていた手が思わず止まった。

 クルフの言っていたことが唐突に現実味を伴って理解できた。不意に胃の中が冷たくなってゆくのを感じた。


 これから先、この地での生活が何年になるのか分からない。ジーナは夫の生死も不確かなまま、戦時下の制約の多い生活の中、女手一つで息子を育てていかなければならなくなるだろう。そして、ティムはずっと父親不在で成長してゆくのだ。まだ5歳。年を経るごとに父親の記憶が薄れていったとしても、誰がそれを責められるだろうか。


 自分は家族の存在を支えにしてこの生活を耐えていくだろう。しかし、心の支えであるはずの家族の中では、自分の存在は徐々に薄らいでゆくのだ――。


 リーベンは我知らず、動揺の連鎖を押しとどめようとするかのように額に手をあてがった。そして、いつものように、自分が何を不安に感じているのかを冷静に分析しようと努めた。


 俺は何をそう心配しているんだ――何年ここにいることになるのか、家族に忘れ去られるのではないか、生きて故郷に戻れるのか――いくら考えたところで明確な答えが出るものではない。悩んだところで仕方のないことだ……。


 そうやって自分を落ち着かせようとしたが、今回に限ってはいつものようにうまくゆかなかった。不安を明らかにしたところで気持ちが落ち着くことはなく、むしろそれは更にも増して膨れ上がっていくようだった。そして、その最も大きな原因が、不穏な空気をはらんでいる尋問の存在であることは分かっていた。

 彼は何度も唾を飲み込んだ。

 クルフの言葉に絡めとられていることをはっきりと自覚していたが、振り払うことがどうしてもできなかった。


 あれこれ考えたところで何が変わるわけでもない。とにかく、今は少しでも体力を温存しておくことだ――。


 あえて自分にそう言い聞かせ、パンをちぎって口に運ぶ。堅くぼそぼそとした塊を噛みしめ、大した具も入っていないスープで無理矢理に流し込む。

 だが、いつもは塩気ばかりが強く感じられるスープも、酸味の強いライ麦パンも、今は何の味も感じられなかった。


「どうした、デイヴ。顔色が悪くないか?」


 唐突に声をかけられ、はっとして目を上げた。

 奥の部屋で机に向かって帳面に死亡者の記録を書きつけていたダルトンが心配そうな顔でこちらを見つめている。

 その言葉を受けて、ミラーがベッド脇までやって来た。


「大丈夫ですか、少佐?」


 リーベンは機械的に頷いた。それから、思わず若い衛生兵に訊ねていた。


「ミラー……君はここに何年になる?」

「3年と8か月です」


 ミラーは即答した。


「家族は?」

「両親と、姉が二人」

「ご両親は、何と?」


 矢継ぎ早の質問に戸惑うような表情をしていたミラーが、ふっと視線を落とした。


「手紙には、『お前の好きなチーズ入りパンケーキをいつでも焼けるように用意してあるから、きっと帰ってくるように』と」


 心なしか、伏せられた目が潤んだように見えたが、若者は再び真っ直ぐにリーベンと視線を合わせると、一言ひとことゆっくりと噛みしめるようにして言った。


「みんなで助け合えば必ず生き抜くことができると、自分はそう信じています」


 いつの間に来ていたのか、ダルトンも大袈裟に顔をしかめて言い立てた。


「そうだよ、こいつの言うとおりだ。いいか、俺は結婚してからまだ数えるほどしかマリアを抱いてないんだぜ。それなのにこんなところで野垂れ死にできるかってんだ。俺は絶対に故郷くにに戻ってやる。その時は、当然お前も一緒だぞ!」

「そうだな」


 リーベンは努めて笑顔を作ってそう言った。

 だが、ダルトンはその相槌が半ば上の空で発せられたものだと敏感に感じ取ったのか、さらに言葉を続けた。 


「その時まで、ジーナさんならお前の留守をしっかり守ってくれるさ。今までだってそうだったろ? 彼女なら必ずうまくやってくれる。そういう女性だから、お前は結婚したんだろう?」


 ダルトンの大きくて厚みのある掌に背中を叩かれ、その勢いに押されるようにリーベンは頷いた。

 左手の薬指にはめた銀の指輪に目を落とす――そうだ。彼女は芯の強い女性だ。今までも、ずっと俺を支え続けてくれた――。

 顔を上げると、力強い眼差しの、黒い瞳がニッと笑った。


「それに勿論、俺のマリアだってな!」


 ダルトンらしい気遣いの表現に、今度こそリーベンは本心から笑顔になった。

 この、陽気で屈託のない、どちらかと言えば何かと手のかかる親友は、リーベンがつい考え過ぎてしまう時には決まって、南風のようなおおらかさで彼の余計な懸念を吹き払ってくれるのだ。


 そしてようやく我に返る。

 ミラーは必死に不安に抗い、希望を持ち続けようとしている。新婚のダルトンは当然色々な気がかりもあるだろうが、常と変ることなく明るく振る舞っている。

 不安なのは自分だけではない、皆同じだ――クルフの言葉に呑まれ、当然のことを忘れてしまっていた自分を恥じた。知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。

 もとより、同胞に対して後ろ暗いことをするつもりは微塵もなかった。置かれた状況とその今後に希望が見いだせないとしても、自分のとるべき態度は最初から決まっているではないか。


 上着の胸ポケットに手を当てた。小さく折りたたんだ封筒の感触が手のひらに伝わる。リーベンは胸の内で呟いた。


 すまない、ジーナ。だが、頼む――。



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