episode1-7 ~儀式犯罪~
2047.8.16 18:26
夕暮れの朱に染まるクロネのメインストリートは、ひどく渋滞していた。
片側四車線の大通りが、大小カラー年式車種さまざまな車で覆い尽くされていた。
地平線の果てまで並んでいそうな車のボディは、どれも落陽に炙られて、ぎらついている。
車から降りた人々や、通行人達があちこちで言い争い、または揉み合っていた。
それを茶化すかのようなバイオリンの音色が、微風に乗ってやってくる。
どこかで路上ライブでもやっているのだろうか。
絹のように、肌に絡み付く音だ。心が洗い流されるような、流麗な旋律だと、ルカは漫然と思った。
「何の騒ぎだ? 私が見て来るので、ここで待って居てくれ」
広々とした車内の同乗者達に言いつけると、ルカは大型ミニバンの助手席から降りた。
どこもかしこも、喧嘩騒ぎ一歩手前だ。
騒ぎに便乗して、不良少年どもがはやしたててもいる。
頭ごなしに止めたくなる気持ちを抑えて、ルカはトラブルの原因を求めて視線を巡らせる。
左手にある高層ビルの屋上から、地上を見下ろす男が二人。
清潔なスーツを着こなしながらも、癖のある赤毛を跳ねるにまかせた壮年。
あの赤毛の男は確か――そう考えながら、赤毛の隣に立つもう一人の男に 視線を移した瞬間、
「……ッ!」
ルカは、全身の血管を、憎悪の溶岩流が駆け巡るような怒りを覚えた、
……。
……のだろうか?
今、計り知れない怒りを覚えたはずなのだが、何故かその原因を忘れてしまった。
ビルの屋上に、二人の男が立っている。ただそれだけ。
どちらも見知らぬ人間だ。
今、自分は何に対して、あれだけ激しい怒りを覚えたのか。ルカには、わからなかった。
理由を忘れてしまった以上、憤慨し続ける道理も無い。
幼少期より、母エリザベス・キリエ・エクルストンの教育により、物忘れをしない精神構造を得たつもりだったが。
まだまだ鍛練が甘いという事か。
とにかく今は、いさかいの激しい市民から順に収拾しなければ。
「執聖騎士団だ。暴力行為は直ちに止め、指示に従って頂く!」
騎士証明書を提示しながら、ルカは声を張り上げる。
世界最強の警察力が介入した事で手近な市民は何人か怯んだものの、大半は聞く耳を持っていない。
「止さないか。一体何があったと言うのだ」
若い女が一人、掴んでいた男の胸ぐらから渋々手を離して、ルカに詰め寄ってきた。
「騎士さん、こいつを逮捕してください! いつのまにか、あたしの車を勝手に乗っ取ったんですよ!」
「ざけんなアマ! この車はオレんだ! 勝手に乗り込んでたのはオメーだろうよ!
パクるんならこっちの女にしてくれよ騎士さんよぉ。
運転席に乗ってたオレと助手席に乗り込みやがったこのアマ、どっちが正しいかわかるよなぁ?」
マフィアとおぼしき、色素の薄い金髪を整髪剤で逆立てた肥満男がルカに対して凄むが、幾多の競合種戦を乗り越えてきた騎士に、恫喝は通じない。
「言わせておけば、このチビデブカージャック野郎が!」
「ンだと、このっ、ナリに違わねぇビッチが!」
「野郎、そのたるんだ首、かっきってやろうか? あぁ!?」
「二人共、止せと言って居る! 兎に角、全員直ちに相手への接触を止めてその場に待機しろ」
言いながらも、ルカは脳内で状況を整理した。
周囲から漏れ聞こえる言い争いの全てが、車の所有権を主張しあったり、不意の侵入を咎めるものだった。
いくつか、子供を詰問する声と、泣き叫ぶ声も聞こえる。
挙げ句、
「貴様、警官に成り済ますとは良い度胸だな? しょっぴいてやる!」
「ぬけぬけと偽物が! お前こそパトカーをジャックするとは、とんだイカれ野郎だ。抜かりなくブタ箱送りにしてやる」
警告用のヘッドランタンが赤々と燃え盛る、ネイビーブルーの車両の前。
警官までが、同じ事で同乗者らしき相手と揉めていた。
道理で、騒ぎを止めようとする警官が一人もいなかったはずだ。
警察車両は三台あったが、どの車両も同じように同乗者同士で揉め事になっており、まともに仕事をしている者がいない。
こんな事が、自然に起こりうるのか。
否、あり得ない。
そしてルカは、気付いてしまった。
自分は今、確かにミニバンの助手席から降りてきた。
だが、ドライバーは誰だ?
ミケル州から首都クロネまで、助手席に乗って来たのは間違いない。
自分の他に運転手が居なければならない。
午前に従士一人と共に競合種の討伐任務を終えて、その際に騎士団のジープが破壊されて、ヴィルヘルミネ・ヌルミという気象操作士を救出し……そして?
そもそも、執聖騎士団の公務車両に、あのような黒のミニバンなど存在しないはず――、
「あのう、すみません騎士さん」
都市を埋め尽くす怒声の中、ゆったりとした女の声が、ひときわ浮いていた。
白金を溶かし込んだような髪を、腰までまっすぐ流した黒衣の女。
儀式医の心得もあるルカとしては、人体の虹彩にはありえない紫色の瞳に気を取られかけるが、それよりも。
「へんなこと聞きますけど、どうしてわたし、騎士さんたちを乗せていたんでしょ?」
「何?」
「えっと、わたしたち、たぶん初対面……ですよね?」
唐突に訊かれるまでもない事を訊かれると、人は面食らう。
だが、ルカの背筋にいやな汗が伝った。
「私はシャトラ教国執聖騎士団第六位執聖騎士第七九騎士隊所属筆頭騎士ルカ・キリエです」
「あ、ど、ども。よくかまないなー。
って、失礼しました! わたしはテレサ・バーンズともうします」
知らない顔。知らない声。知らない名前だった。
だが、
「失礼ですが、そちらの黒いカラーリングの、スネイル・サーティンは、貴女の所有物でしょうか」
「あっ、はい。わたしのです」
ルカは、すんでの所でうめきをかみ殺した。
つい今しがた、自分の降りた車の持ち主が、顔さえ見た事のない相手だったとは。
ミケルから、ここクロネまでの距離は、およそ一三五キロ。その道程を共にした運転手を、忘れるなど。
まず自分の正気を疑ったが、益体の無い疑念は亜光速で却下。
テレサという女性自身もまた、同様の矛盾を抱えているらしい。
それに、これだけ見渡す限りの人々が、同時にヒステリーを起こしかけている状況も不自然だ。
スネイル・サーティンのスライドドアが、唐突に開いた。
「うーん、僕、寝ぼけてるのかな? 寝ぼけてるって自覚ある寝ぼけてる人っていないはずなんだけどなぁ」
おさまりの悪い黒髪の少年が、とぼけた調子で車から降りてきた。
ルカは、彼が従士服を着ている事に目を瞠った。
誰だ、この少年は。
同じ車に乗っていて、それも執聖騎士団の関係者。
ミケルからここまで来る間、いやでも言葉を交わす相手のはずだ。
「あれ? 前の席にいた人も騎士だったんだ。
って、あなた、どこかでお会いしましたか?」
敬礼はおろか身を正すこともない、ぶしつけな態度だが、説教をするだけの余裕が今は無い。
「君は従士か。所属は何処だ?」
訊くと、少年はみるみる、気まずそうな苦笑いに変わっていく。
「しまったなぁ、確か七十台ナンバーの隊だったと思うんですが」
「自分の所属を碌に覚えて居ないのか」
嘆かわしくて、額を覆うしかない。同じ執聖騎士団の一員として。
上司である騎士は、さぞ苦労している事だろう。
「あっはっはっはっ、なんか転属とか多かったし、まあ、その」
「……もう良い。ならば氏名を名乗れ」
「シーザー・カレイです」
聞いた事の無い名、のはずだ。
本国の騎士寮に居る間は、特に目立つ従士の評価もおのずと耳に入る。
転属が多く、このような個性の持ち主であれば、あちこちで名が挙がるはずだ。
そこまで考えて、ルカは気付いた。
今、自分の下についている従士も、口さがない噂の的になりやすい人物だった。
だが、自分の今の従士は誰だ?
先のヤモリ競合種も、従士なしでは発見すらおぼつかなかったのだ。
これを思い出せないというのは、流石にどうかしている。
周囲の喧騒は、おさまるところを知らない。
お互いを正しいと信じて疑わない諍いは、堂々巡りを繰り返して、尽きる事は無い。
よもや、市民の調停はおろか自分の記憶さえままならないとは。不覚にもほどがある。
そうしているうち、また車から降りてくる者があった。
戦場でも無いのに、ずいぶん薄汚れた姿の騎士だった。
そして顔が見えた途端、ルカは今度こそ呼吸が止まりそうになった。
その男は、かなりやつれてはいたものの、自分とまったく同じ容姿をしていた。
ただ、青い瞳には感情の動きが乏しい。ルカの顔を見ても、少しも表情を変える事がない。
まるで、こんな事態はわかりきった事のように、挙動に迷いが一切ない。
何より異様なのは手元だ。執聖騎士団で支給されている理想合金の手かせで、両手を戒められていた。
騎士そのものが手かせをはめられる姿は、異様に思えた。
そして、騎士自身がそれに対して何の執着も持っていない。
自分が逮捕した覚えはない。となると、自らの手を縛る事で何らかの儀式起点とする戦闘スタイルなのだろうか。
何しろ、現代儀式の様式は多岐にわたる。
人の数だけ儀式の癖が違う、と言っても差支えない程だ。
あえて自分の手を縛る事で、そのストレスを降臨規模に転化させる手法も、この世にはあるのだろう。
「あ、どこかで見たと思ったら」
シーザーという従士が、得心した様子で、
「隣に座ってた騎士と、おんなじ顔だったからですね。あっはっはっはっ」
少年のひらめきに一瞬でも期待した自分が馬鹿だったと、即時判断し、ルカは自分と同じ顔の騎士に近づく。
「君は、何者だ? 何処の所属か」
ごく自然に、それゆえに何の情感も帯びず、やつれた騎士はルカを見た。
「ここで待って居ろ。私が始末を付ける」
それだけを告げて、おもむろに歩き出した。
争い続ける人々の間を、まったく足を止める事もなく、滑らかに過ぎてゆく。
血や泥のようなものに染まった背中が雑踏に消えたのは、瞬く間の事であった。
彼は彼で、何かこの事態に対して考えがあるようだ。
容姿の事は気になるが、執聖騎士である以上は信頼して任せる事を決断。
一卵性の兄弟だとすれば、忘れてしまったという事など考えたくは無いが、今はトラブルの鎮静が第一目的だ。
「んー」
テレサはテレサで、下唇に指をそえ、上目づかいになって思索している様子だ。
はるばるミケルからの道程を共にしたはずの人間が、誰ひとり面識無しとなれば無理もない。
とにかく、ミニバンにはもう誰も居ないようだ。
それを確認した所で、背後に気配が。
「兄さん」
怜悧な少女の声が、ルカの背中に向けられた。
「ルカ・キリエ兄さん」
念を押すように名指しされた。