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episode1-3

2047.8.16 7:27


 つむじ風の修道会。

 各地で、雨乞いと快晴祈願による、天候管理を担う公的機関である。

 競合種災害発令時は、隣接する自治体が教会等に避難民を受け入れる。

 そのブッチネ市支部は、司祭執務室。

 避難民の喧騒が、ベイマツ製の扉を隔て、くぐもって聴こえる。

「そ、んな」

 先端をシュシュで結んだストロベリーブロンドが、窮地に震えた。

 茶を基調としたベストと、タイトスカート。

 気象操作士の正装に身を包んだヴィルヘルミネ・ヌルミは、かろうじて声をひねり出した。

 細い手で、嘔吐をこらえるかのように、口許を覆いながら。

「拒否するのであれば、辞職して貰うだけだ」

 恰幅(かっぷく)のよい脂ぎった司祭が、仰々しく頭を振った。

「そんな、この仕事がなくなったら、私達は!」

 あくまでも口から手を離さないので、声が若干くぐもって聴こえる。

「君の家庭の事情はわかるがね、同情だけでいつまでも食っていける程、社会は甘くないのだよ」

 同情? そんなつもりでは――という言葉を、ヴィルヘルミネは飲み込んだ。

 この構図。

 初めから結論が決まってしまっている場では、どんな抗弁も、相手の耳に入る事はない。

「違います、私は――」

 ミネッテは、なおも手で口を隠しながら懇願したが、

「……仕事を云々言う以前に、君の、人としての基本の話だな。

 そのしぐさが、今のような話し合いに相応しい態度か?」

「あ……これは」

「口を覆いながら話すのはやめろ。これを言ったのも、何度目か?」

 ミネッテは、慌てて手を離した。

 当惑に開いた口。そこから覗く歯は、右上の一本が無かった。

 ちょうど、八重歯の隣にあった歯なので、強調されて余計に目立つ。

 昔、事故で折ってしまった。

 現代の儀式医療であれば、永久歯の再生も容易い。

 金さえあれば、だが。

 ミネッテの顔を見て、司祭は、今日初めて笑った。

 嗜虐的な微笑だが。

「何を俯く。人の目を見て話せと、教わらなかったのか? 親から」

 歯の一本も治せない。

 歯を揃えておくと言う身だしなみも出来ない。

 それは何故? 金が無いから。

 視覚的に経済力の無さを露呈する、一番の特徴だった。

 年若い女としても、惨めな事だ。

 それでも、修道会には食らいつかなければならない。

「申し訳、ありません……態度を改めますから……」

 ミネッテは目に涙を溜め、必死に従う。

 だが、司祭は無情に首を振った。

「まあ、君の態度が良くなろうが悪くなろうが、修道会が良くなる訳でも無いがね。

 君が十六歳の時分に、この修道会へと入ってはや五年か。

 君は五年も学んだなりの成果を出せていない。

 我が修道会は気象管理事業の大脳だ。

 何万もの人々の生活を守らなければならん。責任は重大だ。

 要求以上の結果を出せない事はいわば罪なのだよ」

 暗記した台本を読み上げるように、司祭は並び立てた。

「君のすべき事は何か? 通常以上の成果を出す事だろう?」

 だから、ヴィルヘルミネだけが予定より一時間早く雨乞いに取り掛かれ。

 司祭はそう命じていた。

 州の象徴的なスポットであるミケル国立記念公園で、修道会の威信を示せ、と。

 競合種災害発生による戒厳令の只中にあろうとも、である。

 明らかに破綻した物言いだ。

 しかしヴィルヘルミネは、骨髄に焼き印するかのように教えられてきた。

 こと、つむじ風の修道会という閉ざされたコミュニティにおいては。

 何が正しいのか、ではなく。

 誰が正しいと見なされるか。

 それこそが真理である、と。

 司祭の中では、自分の命じた事を遂行出来なかった無能な部下を追放する、というストーリーが確固として完成している。

 その過程で何があろうとも。

 立会人さえ必要ない。

 極端な話、この密室で、司祭は「今夜のメニューはピザ」という脈絡ない台詞の後、ヴィルヘルミネを解雇しても構わないわけでもある。

「君は、行き先を決めるだけで良い。

 ミケーニャか、こことは関係の無いどこかか――」

「あのう……」

 間延びした、女の声。

 ヴィルヘルミネも司祭も、にわかに肝を潰した。

 見知らぬ人間が現れた事で、ミネッテは、歯の欠けた口をかたく閉ざさざるを得ない。

 黒を基調とした、ワンピースのような物に全身を包んだ若い女が、無断で入り込んでいた。

 頭までフードで覆っている。

 この夏季盛りに。

 だのに、白磁のような肌には、汗の一滴もにじんでいない。

「教会のかたですよね?

 わたし、クロネのシャトラ大聖堂にいきたいんですけど」

 色素の薄い金髪が、フードの隙間からこぼれている。

「何だ君は! 民間人が、断りも無く入って来て!」

 唾と叱責を飛ばされて、黒衣の女は背骨を引っ張られたように、身を正した。

「す、すみませんっ! わたし、夜の九時までにシャトラいかないと、遅刻でっ、それゆえっ」

「競合種の駆除が確認され、雨乞いが終わるまで、封鎖は解けん。

 大人しく待つんだな」

「そんなぁ」

 日光さえ知らないような珠の肌は、黒ずくめのファッションの(くら)さを打ち消している。

 昼下がりの陽光を思わせる柔和ないずまいは、全てを見守る慈母のようでもあり、無垢な少女のようでもある。

 この女性は、矛盾した要素を、おおらかな気質に内包している。

 そして。

 人の虹彩にはあり得ない、紫色の瞳。

 しかし今のヴィルヘルミネには、彼女の容貌に気を向ける余裕はなかった。

「どうしても、今、街をでたいんですよぅ。

 ちょこっとでいいから、通してくださいよぅ」

 その、あまりの言動にはさすがにぎょっとしたが、それよりも。

「いい加減にしろ、警察を呼ぶぞ」

 ヴィサとの平穏な生活を守るには。

 ヴィルヘルミネ・ヌルミにとっては、それこそが全であった。

 目の前の些事に気を配るだけの心的リソースは、今の彼女には存在しない。

「良いか、これから一言でも口答えをすれば、警察に突き出してやる。

 今すぐ、速やかに、避難場所なり難民キャンプに戻れ」

「はーい……」

 泣きの入った声で黒衣の女が引き返す。

「ヴィルヘルミネ・ヌルミ。君もだ。

 どうせ、この仕事は君には完遂できないのだから、二度と戻ってこなくて良いぞ。それではご苦労」

 この場で、これ以上言える事はない。

 ヴィルヘルミネは、力無くうつむきながら、黒衣の女に続いた。

 執務室から出ると、休日のショッピングモールよろしく、人の海だった。

 元はかなりの面積を占める、聖堂。

 両サイドから、オニオンスープと即席石窯で焼かれたパンの薫りが漂ってくる。

 朝食どきだからか、ブラックコーヒーの濃厚な香りが、パンの甘い香りに絡みはじめた。

 ダメ押しに、燻製と胡椒の香りまで加わった。スクランブルエッグだろうか。

 黒衣の女がつま先立ちになって覗き込むと、ボランティアが鍋の底に青ユリのような炎を呼び、加熱させている様子が見えた。


 人の思考は、物質界には存在しないが、形而上(けいじじょう)では確かに存在すると言えよう。

 思考の世界と現実世界の狭間には、通称“天”という概念が存在し、双方の世界の橋渡しとなっている。

 “天”に意識を馳せる事で、任意の奇跡を実行させる。総合的技術体系。

 ボランティアは、ある者は手を組み、ある者は杖を掲げ、ある者は水晶玉を撫でている。

 各々の手法で、火を喚ぶための儀式的な思考になり、

 必要な火力を実現するだけの思考量に抑え、

 鍋の底という空間位置に、思考の指向性を合わせる。

 結果、鍋や窯に火が灯る。

 要するに、現代奇跡文明の、ごくありふれた調理風景だ。

 照明、空調、水事……得意分野こそ人それぞれだが、こうした奇跡的家事は、ほとんど誰にでもできる。

 天の奇跡は立証された。

 現代文明は、願えば叶う。

 森羅万象のほとんどが。

「おいしそー」

 黒衣の女は、口をOの字にして、呑気な事を言っている。

 ヴィルヘルミネは、充分に彼女を警戒した挙げ句、炊き出しに気を取られた決定的瞬間を見計らって、離れ、

「あっ、ちょっと」

 離れようとして、手首を掴まれた。

 涼やかで、それでいて温かみのある感触。

 ほとんど添えるだけの力にも関わらず、どこか強い引力をはらむ。

 ヴィルヘルミネは動けなかった。

「あの、あぶないこと、考えてませんよね?」

 鈴やかな声は、気遣わしげな色を帯びている。

 ヴィルヘルミネの骨髄は、錆び付いてしまったかのようになり、

「え?」

「ミケーニャに、雨乞いしにいこう、とか」

 呼吸が止まりかけた。

 司祭との話が、彼女にも聴こえていたのは充分に予測できた。

 だがそれでも、実際に考えを看破された事実は、ヴィルヘルミネをおののかせた。

 やましい考えがバレなければいい。その希望が明確な形で砕かれた。

「まさ、か、そんな、しませんよ、危険ですし」

 つっかえながらも、ヴィルヘルミネにしては嘘を貫けた方だった。

 手で歯を隠すだけの気配りも、何とかできた。

「そっか。ならいいんです。へんな勘ぐりして、ごめんなさいね」

 やさしく添えられていた繊手(せんしゅ)が、ゆっくり離れた。

 紫色の双瞳(そうどう)は依然、何かを願うようにヴィルヘルミネを覗き込んでいるが。

「あっ、いえいえ! お気遣いありがとう。

 あ、私、行く所があるので、これで」

 黒衣の女から逃げるよう、足早に立ち去る。

 おぼつかない足取りで、人にぶつかりそうになりながらも。

 普段のヴィルヘルミネであれば、これほど極端な行動は夢想だにしない。

 平坦で穏やかな、無色透明の日常を、何よりも優先する。

 今回もまた、弟と身を寄せ合って生きる日常を、何より優先したに過ぎなかった。


「ふぅー。あれは、とめようがないなぁ」

 つぶやいてから、黒衣の女性はしかし、頭を振った。フードからはみ出した薄金色のロングヘアーが、黒衣を擦る。

 とめようが無い、とは言い訳ではないのか。

 真意を見抜いていた以上、力づくでも止めるべきだった。

 けれど、けれども。

 ヴィルヘルミネという人にとっての失職は、命よりも重い事であるらしい。

 自分の命よりも他の事が優先されてしまう歪み。

 あるいは、正しさ。

 その重みを人一倍知る女性は。

 あの瞬間、彼女の覚悟に負けてしまった。

「そしたら、わたしは行くしかないよね」

 独り言を口にするよりも早く、女性の足は、ヴィルヘルミネの足跡をたどりはじめた。

「C型種が一体、か。なんとかなる、とおもいたい」

 言ってから、女性は自分の口を塞いだ。

 そして、きょろきょろ、辺りの人だかりを見渡す。

 もし聞かれていたら、事だ。

 良くても、単独での競合種打倒という誇大妄想を持つ、(イタ)い女の謗りを受けるだろう。


2047.8.16 7:50


 執聖騎士ルカは、たまりかねた。

「シーザー、何処に向かって居る」

 あてどなく爆走し、あまつさえ目標地点から離れて行くジープ。

 従士シーザーに置いている全幅の信頼にも、限度はある。

「あのヤモリ、とってもズルい奴なんですよね。

 自分は地下に隠れて、軍や騎士団が来たらやり過ごして。

 で、勝てそうな相手の時だけ出てきて暴れる。

 でも、それが出来るって事は――おっ、あそこが丁度よさげ」

 シーザーが、唐突に目を向けた先は、

「待て、シーザー、お前まさか」

 アパートと個人商店の間にあいた、ごく狭い空間。

 丁度、今、二人が乗るジープの幅よりも、数ミリだけ狭い。

 つまり彼は、

「地下に隠れながら、目を使わないで、自分の勝てる相手と、そうでない相手を選別出来るのは」

 騎士団のジープが、路地に突っ込んだ。

 ランタンを埋め込んだ前照灯が粉微塵に散った。(現代の乗用車は、ランタンに火を灯す事で照明にする)

 サイドミラーが折れ飛んだ。

 左右の、対競合種仕様・特殊装甲ボディを激しくえぐりながら、

 建物を掘削しながら、

 ジープは、無理矢理突き進む。

 車内には、神経をやすりがけするような異音が響き渡っていた。

 だが、騎士と従士にとって、不快な音は問題ではない。

「み、民家、市民の財産が! 教国民の血税で賄われた騎士団車両がァ!」

「つまりルカさん、地下に張り巡らせた巣は、あいつの神経そのものなんですよ」

 騎士の鑑たる男が、血を吐くように叫ぶのも虚しく。

「こうして、神経をさかなでてやれば」

 路地の終わりが見えた。

「待てシーザー、御託(ごたく)は良い、車から出ろッ!」

 歩道を突き抜け、ゴミ箱を蹴散らし、ベンチをはね飛ばし。

 視界に不自然な陰が射した瞬間は、ルカもシーザーも、車外へ飛び出していた。

 ルカはそつなく受け身をとり、シーザーは情けなく転がり出て。

 そして、特殊装甲ジープは何かに踏み砕かれ、潰れたパンのようになって横滑り。

 大衆食堂・ハッピーダイナーのテーブル席を蹴散らし、店舗内に頭から突き刺さった。

 ジープを踏み潰した四つん這いの生き物は、目視不能な速度で建物から建物へと飛び付く。

 重力など意に介さない様子で、アパートの壁に逆さとなって貼りついた。

 ナメハダタマオヤモリが、捕食者の頂点たらんと進化を求めた、なれの果て。

 空を遮るほどの大質量だが、全体的に平たいフォルムだ。

 黄色に近い茶褐色の肌は滑らかだが、鋼のような鈍く硬い光沢を帯びている。

 大きく裂けた眼窩(がんか)からは、一抱え以上もある、漆黒の球体がはみ出して、地上を見下している。

 幅広の(もり)を思わせる尻尾が不機嫌に左右する度、通りの気流が激しく乱れ、街路樹をなぶった。

 また、家々の窓ガラスが割れんばかりに振動した。

 そいつが建物を飛び移る度、太陽が現れたり遮られたりして、辺りをチカチカと明滅させる。

 ルカは路地裏に退避し、ロザリオを絡めた右手を突きだし、

「こちらシャトラ教国執聖騎士団第六位騎士ルカ・キリエ!

 第七九騎士隊筆頭騎士の権限に於いて、サポートチームの応答を要請する!」

 叫ぶと、ルカの意識に、人の顔が浮かんだ。

 肉眼で見えているわけでは無い。脳に直接イメージを与えられている。

 先ほど、シーザーが車の速度を知れたのも、この技術の応用である。

 託宣(たくせん)

 巫覡(ふげき)という資格をもつオペレーターが、遠隔から互いの思考を行き来させる、現代で無二の通信技術。

 受け取る側の感覚としては、音楽や絵を頭の中で思い返す事に近い。

 頭に浮かんだだけの音声に音は無いし、画像に絵は無い。

《ついにやってまいりました白熱の対戦カード、クサレヤモリ対エリート騎士様! このお熱い試合を実況させていただくのは、わたくし、シェイ・デューンです》

 短い髪を編み込んだ、黒人の青年だ。

 乾いた笑みに頬を吊り上げ、大げさな身振り手振りを、ルカの意識に送り込んでくる。

「騎士シェイ・デューン! 職務中にふざけるとは何事だ! 直ちに支援態勢に移れ!」

《もうとっくにやってるよ》

 シェイの虚像が、額の前で両手を組んだ直後。

 まるで、元々ルカ自身がそれを夢想していたかのように。

 ルカの意識に、目まぐるしい数の文字列や画像が流れてゆく。

 騎士ルカ・キリエ、および、従士シーザー・カレイの肉体情報。

 脳波、呼吸、脈拍、血液量、あらゆる器官・臓器の状態、持病・アレルギー・性病の有無まで。

 二人の身体が正確無比な情報の集合体として著され、リアルタイムにルカへと伝達される。

 文字のフォントや枠組み、画像の視せ方が、必要以上にシックなデザインだ。肉眼で、他の人の目に触れる機会が無いのが残念だと、ルカは常々思っていた。

「この奇跡降臨までのレスポンス、流石だ。だがシェイ、君は教国の職務を何だと心得――」

 僅かな陰影の揺らぎと、肌を触る大気の乱れ。

 託宣データとして情報化されたそれらを意識するや、ルカは迷わず前方へ身を投げ出した。

 ほぼ同瞬、ルカの立っていた路地が、煙と残骸の間欠泉を噴き上げて崩落した。

 転がり、受け身を取り。

 騎士は、少しの遅滞もなく破壊現場に向き直った。

 ヤモリが、おびただしい壁材と骨組みの残骸を踏みつけに、耳を突き破るような金切り声で吠えた。

 完璧なタイミングで踏みつぶしたはずの人間に、逃げられた。

 その苛立ちをまき散らしているのか。

《スタントマン志望? それとも、なあ、まさか、自殺志願か? なんなら良いカウンセラー紹介しようか? 堅物騎士様をセックス依存症の権化にまで押し上げてくれそうな、腕利きの奴だ》

 シェイが無駄口を挟んだ六秒間。

 ヤモリが大きく旋回。

 尾が、ベンチを、街路樹を、廃車を席巻。

 街の何もかもが薙ぎ倒される中、ルカは、体勢を低く、道路を横切る。

 目指すは、半分ほどの車高に圧縮された、騎士団のジープ。

歪みきって開かなくなった後部ハッチに手をかけると、対競合種用特殊装甲のそれを、ボール紙か何かのように引き剥がした。

 現代において、人間の腕力とは、筋肉の力のみに依るものではない。

 常に軽微な儀式的思考を維持する事で、身体能力を恒常的に高める精神教養。

 “祝福”と呼ばれるこの儀式技術は、人間の、生物的・物質的な強さの格を、いやがおうにも決定づける。

 プロの戦士ともなると、車両を素手で解体する程度は簡単な作業である。

 ルカは、車内から目的の品を引きつかむと、跳び退いた。

 ヤモリの前肢が、一直線にジープを突き込んだ。

 ジープの残骸が一瞬で形を失い、爆散。

 基部を破壊されたレストランの一画が、ひしゃげ潰れた。

 ルカは、ジープから救い出した物――刃渡りおよそ一メートル弱の直剣を鞘から抜き放ち、正眼に構えた。

 アンテス社製ハイドランジアM96軍用長剣。

 肉厚の刀身は玉虫色にぎらつき、見るごとに色彩を移ろわせている。

 既存の金属を遥かに凌駕する比重、ダイアモンドなど比にならないビッカース硬さ、黄金比的な弾性と対疲労性を持つ“理想合金”の色。

 車体をむしり取る腕力をもってしても、この剣はずしりと重い。

 車両全壊級の武力を手にした人間に対し、ヤモリの動きが止まった。

 鉄球のような眼球をせわしなく動かし、値踏みしているようだ。

「真面目にやらないか、シェイ。既に競合種との接触は始まって居る」

 シェイの姿なき像が、大きく肩をすくめ、

《オレはこの通り、精神に異常をきたしてしまった。だから言動がおかしいわけ。

 巫覡オペレーターが使い物にならないので、作戦中止を進言する。逃げろ、リーダー》

 語末は、ほとんど懇願に近い。

「進言は却下する。視た所、君の託宣には一つの不備も無い。

 よって、オペレーターの精神、及び、儀式思考に問題は無いと判断。任務続行可能だ」

《畜生め。なんでこんな時だけ口車に乗らないんだ、この時代錯誤騎士道オタクは》

「総員に告ぐ。これより、筆頭騎士キリエが、目標競合種に至近距離からの斬撃を試みる」

《サンドイッチ買いに行くみたいなノリで言ってる。絶対頭おかしい》

「肉体組成増強への祈り。儀式開始」

 ルカは、儀式起点――ロザリオを、自らの胸元にあてる。

 降臨点――ルカ自身の身体。彼を構成する、全器官。

 降臨規模――極小。筋組織の三割増・全知覚の補強。

 シェイから送られる自分の生体データを一秒未満で処理、儀式思考として“天”に送信。

 奇跡降臨。

 ルカの広い背中に、目のくらむ後光――奇跡降臨による強制的な事象変化に付随して生じた、無害な可視光――が迸った。

 質量の増した筋肉が躍動し、稼働サイクルを増した脳により、五感全てが倍化。

 それに感化されてか、そびえ立つヤモリが瞬時に肉迫。

 目視できずとも、今なら視える。肌で感じられる。

 人間の神経伝達物質よりも速い、その猛威が。

 路面のうわべを削り取りながら邁進するヤモリの脇を、ルカはすれ違うように跳んだ。

 はためくようにしなる、ヤモリの右前足。

 剣を振りかぶりつつ、横に回避。

 空を切った右前肢は伸びきり、すぐには襲ってこない。

 自然、ヤモリは左前肢を振るってくる。

 剣を振りかぶった体勢のルカは、この左腕を迎え撃てばよかった。

 剣のグリップと掌の肉との区別がつかなくなる境地に、自我を沈める。

 ――叩き斬る。

 それだけを考えて降り下ろした唐竹割り。

 濁った体液の散水と共に、おびただしい火花が弾けた。

 子供の断末魔を思わせる不快音が、ほとばしる。

 奇跡的に“斬打”の性質を増幅した太刀筋は、ヤモリの左腕を捉え、半ば以上まで断ち斬った。

 ヤモリは、ほとんど皮一枚で繋がった腕を引き上げ、玉虫色の剣から逃れる。

 ルカは、剣から伝わる反動に揺らぎながらも、力任せに踏み込み、ヤモリの広い眉間を目指して走る。

 生物である以上、脳が急所である事はヤモリも同じ。

 叩き斬――、

《バカ、それはマズい!》

 シェイの切迫した叫びが脳を叩くと同時に。

 視界の端で、法定速度の標識が、音もなく切断され、倒れた。

 見えない刃物で、真っ二つにされたかのように。

 視界全てを覆う、血の噴出。

 ルカの首もまた、横一文字に斬れて宙を舞っていた。

 にわかに酸素供給が止まり、朦朧とした視界の中、ルカの生首は見た。

 今しがた斬ったヤモリの左腕。

 ちぎれかかったまま二倍以上の長さに伸び、繋がっていた皮一枚は、糸よりも細く――つまり、鋭くなっていた。


2050.8.16 5:52


 奇跡降臨の副次光が、赤く閃く。

 人類最後の男のはね飛ばされた生首が、吸い寄せられるように胴体へと飛ぶ。

 頭部と胴体。奇跡的に因果を結ばれた両者は、あるべき形で接触した。

 断面と断面が接した瞬間、今度は緑がかった光が散った。

 骨、肉、筋、神経が正しく繋がる。

 かつて“不死身の騎士”と称された男。

 血流と酸素供給が再び始まり、男は何事もなかったかのように波型剣を降り下ろした。


2047.8.16 8:07


 奇跡降臨の副次光が、赤く閃く。

 跳ね飛ばされたルカの生首と、取り残された胴体との因果が結ばれ、切断面が元通りに癒着。

 頭が飛べば、人間は死ぬ。

 それを正確に知りすぎていた為に、ヤモリの反応が遅れた。

 儀式医療により、瞬時に首を繋げた騎士が、ほとんどゼロ距離に踏み込み、

 ――叩き、斬る。

 ヤモリの頭部に袈裟斬りを叩き込んだ。

 浅い。

 血が足りないので、儀式的思考に乱れがあったか。

 鉄球のような右目に放射状の亀裂が走り、周りの肉をいくらかえぐっただけだ。

 はねられた首を繋げながらの強行であったから、剣が多少鈍るのも仕方あるまい。

 視界を覆うヤモリの胴体が、卑小な人間を轢き潰すべく発進。

 失血により霞がかった意識の中、ルカは判断。

 あらんかぎり身体をよじり、横跳びに退避。

 避け切れず、左半身が接触。

 列車にはねられた程の衝撃が、ルカ・キリエの長躯を弾いた。

 路面に叩き付けられても勢いは止まらず、バウンドするように、およそ五十メートルを吹き飛ばされた。

《騎士キリエ、出血量二〇パーセント超過、第六肋骨および第八肋骨骨折、左大腿骨亀裂、前十字靭帯断裂、打撲・裂傷多数!》

 シェイの紡ぐ損害報告が、意識を滝のように流れてゆく。

 出血性ショックによる儀式精度の低下が最も懸念される。造血が最優先。

 次に、脚部の損傷を解決し、その他の治療は保留。

 受け身を取りつつ、脚の骨と靭帯が繋がるよう、天へ祈る。

 儀式執行には、正確で明瞭なイメージが要求される。

 儀式執行者のイメージ力は、天へ祈りを送るスピードにそのまま直結するし、降臨規模の瞬間効率(=今の場合、秒間あたりの治癒力)にも関わる。

 シェイのサポートにより負傷の状態を瞬時に理解出来る今のルカは、一秒とかからず、およその肉体的損壊を修復させてしまう。

 騎士団で“不死身”と称されている所以が、これだ。

 彼や、彼の部下を戦死させるには、儀式の発信源であるルカ・キリエ自身――つまり、彼の脳を全壊させるしかない。

 マイクロバスほどもある大質量が、頭上から落ちてくる。

 剣を振りかぶる暇も無く、ルカは追い立てられるように逃れるが、

《間に合わんぞ、おい!》

 依然、ヤモリの腕の有効射程圏内。

 ちぎれかけていた方の腕は、それ自体が独立した生き物のように萎縮し、元の形へ戻ろうとしていた。

 蛇のようにうねる、三本指の巨腕が二本。

 どちらかを避けたとしても、残るもう一本を対処しきるのは、まず不可能に近い。

 三本指の長さは、ルカ・キリエの胴体を、丸ごと掌握して余りある。

 頬まで裂けたようなヤモリの口が、軋みをあげて開いた。

 大の男ひとりくらいなら、押し込んで飲み下してしまう深淵だ。

 不意に、ヤモリの体勢が低くなった。

 野太い旋風、樹の幹が繊維一つ残さずへし折れた音。

 そして、シーザーの潰れたような苦鳴。

 樹上によじ登り、背後で何事かを企んでいたらしい雑魚従士を、ヤモリは尻尾で叩き落としてのけた。

 人間を潰した、お馴染みの感触はなかった。

 仕留め損ねたらしい。

 だが、今、ヤモリにとって命取りになりかねない敵は、騎士の方だ。従士に向ける無駄な目など、持ち合わせてはいない。

 従士を払い落としながらも、騎士からは一瞬も目を放さなかった。

 だから、騎士が逃れず、むしろ目と鼻の先へ踏み込んできた瞬時。

 ヤモリはようやくミスに気づいた。

 樹の上という高所にいた従士を、尻尾で叩き落としたヤモリは今、尻を突き上げる姿勢になっている。

 前半身、そして頭部が低くなっている。

 ルカと、目線が合う高さにまで。

 ――叩き斬る。

 無我の袈裟斬りが、一筋の流星のように落ちた。

 あわや頭蓋に剣が食い込む寸前。ヤモリが腕を盾にする方が速かった。

 肉が、筋が、骨が、神経が。

 いずれも同じ質量の鋼鉄より硬い体組織が、紙のように潰れ裂ける。

 ヤモリの競合種は、自己再生に特化した進化形態だ。四肢がちぎれる程度の負傷ならば、一息で治癒は出来る。

しかし、肉が粘土のようにこねられ、腕の形状を取り戻した瞬間には、

《彼我の距離、五十メートルオーバー。しかし、依然、接触危険域にありッ!》

 騎士は、間合いの外に逃れていた。

 血を流して倒れているシーザーを、助け起こす。

「無謀な真似を」

《勘弁してくれこの隊。筆頭騎士もイカれてれば、従士もイカれてやがる》

 シーザーの損害レポートを流し読み、ひと祈りのもとに、シーザーを復元させる。

「いてて。社会通念上、囮作戦は従士の正しい使い方ですよ、シェイさん」

 シーザーの頭を無言でどやしつけてから、散開。

 一瞬、視界が翳った。

 前肢の完治したヤモリが、三階相当の高さに飛び上がり、刀剣販売店の壁へ、シールのように貼り付いた。

 その向かいに、五階建てのアパートがある。

 ルカもまた、アパートのベランダ伝いに上へ上へと跳び移り、ヤモリの高さに並んだ。

 四車線の水平距離を、一呼吸のうちに詰めて、ヤモリの巨躯がアパートに突っ込んだ。

 一室のベランダが、原型を留めないほどに破砕。

 足場の破片が、歪んだ手すりを刺したまま、なだれ落ちてゆく。

 ヤモリの巨躯も重力に逆らう事なく、花壇を跡形もなく踏み砕いて着地した。

 タッチの差でヤモリの突撃を(かわ)したルカは、屋上に跳び乗った。

 小山のようなヤモリの姿も、流石に小さく見えた。

 ルカの強化された視神経が、ヤモリの筋肉の動きを子細に感知した。

 踏ん張った四肢を、限界まで潰したバネのようにたわめ、

 ルカは飛び降りた。ヤモリは垂直に跳んだ。

 上と下、一瞬で交差する両者の視線。

 鉄球のような両目が、こぼれんばかりに見開かれていたのは、驚愕の為か。

 今さら、鞭のように両腕をしならせるが、手遅れだ。

 縦一文字に、斬撃が落ちた。

 剣が、ヤモリの首筋に接した。

 ダイアモンドに倍する硬度を持つ理想合金の剣身が、あろうことか、一瞬とは言え、弓なりに歪んだ。

 遅れて、鼓膜を突き破るような異音が全方位に放射した。

 下から飛び上がる、ヤモリの跳躍力。

 上から落ちる、ルカの落下速度と膂力。

 真っ向からぶつかり合った両者の力が、長剣とヤモリの接触点に集約。

 並の軍用剣を通さぬ防刃性能の皮膚は易々と切れ、

 破城槌(はじょうつい)の衝撃をも呑み込む脂肪は引きちぎれ、

 どんな金属よりも硬く、同時に柔軟でもある肉の束が、削岩のように抉れてゆく。

 余波で内臓が圧壊し、傷の裂け目から鼻の腐り落ちそうな異臭と体液が、殴り付けるような水圧で吹き上がる。

 そして、競合種丸ごと一匹をほとんど両断するほどの力は。

 いくらかの反動となって剣を伝い、ルカをも打った。

 長身が、ボールのように高く、高く跳ね上がる。

 あらゆる景色がミックスされ、自分の所在がわからなくなる。

 眼球に血液が集中して、世界が朱い。

 身体の吹き飛ぶベクトルは、上向き、のようだ。

 そのうち、重力に従って墜落するはずだ。

 衝撃。

 全身を八つ裂きにされるような激痛。

 建物か何かに激突したようだ。

 シェイによって、身体の破損部位が雨あられのごとく報告される。

 まかり間違って生命活動が止まらないよう、順に治癒のプロセスを“天”に送りつつ、ルカは油断なく考えをまとめる。


 シーザーの策は、今回も正しかった。

 最初、ルカが考えていたのは、こうしてヤモリと刺し違えるカウンター戦術だけだった。

 騎士ルカ・キリエが単独で実現できる破壊力では、ヤモリに致命傷を与える事は不可能だ。

 ヤモリ側から生じた運動エネルギーをも利用しない限り。

 しかし、臆病で神経質なヤモリが、軍用剣を手にした騎士の誘いに、おいそれと乗る事はない。

 だからシーザーは、ルカにも“ある意味で臆病になるように”頼んだ。

 シーザーの描いたストーリーはこうである。

 最初は勇敢に斬り結ぶ騎士だったが、予想外の戦力差に恐れをなす。

 しかし今更逃げられるわけも無いので、何とか意表を突いて戦おうと、スタンスを変えだす。

 小細工を弄した騎士が、どうにか致命打を与えようとするが、ことごとく失敗に終わる。

 そうして、正攻法で自分が仕留められる事は無い=次も何かしらの小細工が来る。

 そのようにヤモリが確信した頃に、本来のカウンター作戦を決行する。

 具体的には、三合も斬りかかって失敗してやれば、ヤモリは基礎性能の優位を確信してくれるだろう。

 よもや、この期に及んで真っ向からぶつかってくるなど、夢にも思わない。

 果たして、全てがシーザーの描いたシナリオに沿って完結した。

 ナメハダタマオヤモリは競合種の中でも弱く、そして狡猾だ。

 他のどの生物よりも、敵対者の動向に神経質である。

 その性質を逆手にとってやれば、疑心暗鬼を抱く方向に誘導する事も可能ではあるだろう。

 それを差し引いても、シーザーの予測は的確すぎる程に的確だった。

 直接遭遇してもいなかった異生物の思考パターンを、ほとんど完璧にトレースしてのけたのだから。

 このような当てずっぽうとも取れる筋書き、常人では憶測の域から出すことはできない。

 これを一〇〇パーセントに近い確信をもって断言出来るセンスが、シーザー・カレイ最大の武器である。

 祝福・武才は無いに等しい。

 家事レベルの事しか出来ない儀式のレパートリーでは、戦術と呼べるだけの奇跡も呼べない。

 戦力ヒエラルキーでのシーザー・カレイの位置は、人間の中で言っても下の下。戦士としては半人前以下だ。

 ルカを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌う教国の上司――アルノルド・ビーン大司教によって、二年前に配属されたのが“無能従士”シーザー・カレイだった。

 彼の悪評を一切無視し(あるいは気付く事なく)色眼鏡なしで過去の戦歴から彼の才覚を見出したルカは、シーザーという部下をすぐに使いこなしてしまった。

 この人事は、騎士としてまだまだ未熟な自分と若いシーザーを(おもんばか)る、ビーン大司教からの温情と心遣いだった。ルカは、

 今もそう信じて疑わない。

 従士は本来、世界的に貴重な人材である執聖騎士を命がけで守るための“凡人枠”戦力とされている。

 つまり“従士の本分は囮”というシーザーの言い分は、ある面では正しい。

 しかし、ルカ・キリエの隊は異色に過ぎた。

 弱い従士を、不死身と呼ばれる騎士が、文字通り身を挺して死守する。

 その為に、ルカ自身が五体バラバラに散らばった事さえある。

 シェイのカルテ処理と、胎児の頃より母に叩き込まれた医学知識がなければ、身体を戻し切る前に絶命していただろう。

 シーザーさえ守り抜けば、勝機は必ずやってくる。

 それ以前にシーザーは、大事な部下だ。弱きを守る執聖騎士として、模範であるべき上司として、一人の人間として、彼を危険から遠ざけるのは当然の義務と考えている。

 今現在も、その状況に変わりは無い。


 全身を圧潰(あっかい)する衝撃が走り、落下の浮遊感が止まった。

 骨が微細に振動する感触が走る。

 身体の、適当な部位からわずかな痺れを感じる程度。痛覚は既に用をなしていない。

 目が見えないので、意識を流れる託宣カルテを確認。

 負傷の項目を流し見て、確認。

 どうやら、五階建ての高さを墜ちきったらしい。

 骨格の崩壊も重大だが、各臓器の破壊も深刻だ。負傷箇所が多いので、儀式には注意を要する。

 生命活動に関わる、重篤な症状から順に儀式処理。

 半身まで死に浸かった自分の身体を、ルーチンワークのように復元させてゆく。

 視界が、ぼんやりと戻りつつある。無色透明の滴が、目玉にかかって弾けたのが見えた。

 触覚が、戻る。生ぬるい水滴が、肌を打っては流れている。

 聴覚が、戻る。無数の水が、道路を叩く音がする。

 湿った石の匂いが、鼻孔を抜ける。

 雨?

 無理やりに増強した骨髄から急ピッチで造血させ、それでも追い付かない 代謝機能を強引に補強させると、意識がようやくはっきりとした。

 自身がぶちまけた、血と脳漿の池から身を起こすと、ルカは上空を一瞥。

 雨が、降っていた。

 つい数秒前まで霞み一つなかったミケーニャの空を、今は鉛色の雲が覆い隠していた。

「この雨雲は、まさか、そんな莫迦(ばか)な――」


2047.8.16 8:17


 四方を、青々と茂る植林に囲まれた公園。

 気象操作士ヴィルヘルミネ・ヌルミは、地べたに(ひざまず)き、かたく手を組み合わせて祈りを捧げていた。

 髪が、雨露を吸って重い。

 シュシュから毛先に、雨粒が滴っては落ちていく。

 気象操作士のブラウスも、水を飲みこんで、彼女の痩身を粘着質に貼りついている。

 跪く際に慌てすぎたか、タイトスカートから覗いた膝はすりむけて、泥と血の混合物がこびりついている。

 その全てが、今は気にならない。

 気にするだけの余裕はない。

 ただ雨を求める。

 無色透明の水滴を、無数に求める。

 無色透明の日常を、無限に求める。


 無人のミケーニャを、また一台の車が走る。

 黒いカラーリングの、大ぶりな車体のミニバンだ。

 太く肉厚な四輪が猛り狂い、水を撥ね飛ばし、車体下に薄い霧を作っている。

「そんなっ、もう雨をふらせてるの!?」

 ハンドルを操るのは、黒衣の女。

 人の虹彩ではありえない紫色の瞳で、フロントガラスを流れる雨水を見据えている。

「ダメだよ……」

 焦りのあまり声を湿らせながら、彼女は独りごちた。

 誰の耳に届くこともないと、理屈では知っていても。

「おねがい、わたしがつくまで無事でいて!」

 “天”には届かないその願いを、祈らずにはいられない。

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