episode1-2
2047.8.16 4:34
闇の中、“彼女”が見たのは、若い女性の幻だ。
腰まで伸びた髪は、陽光を吸ったような薄金色。
少女の時分の面影を残す顔つきは、しかし、あるがままを見守る慈母のような気配を同居させていた。
睫毛の秀麗な双眸と桜色の口唇は、どちらも穏やかな弓なりを描いている。欠片の曇りも無い、太陽の笑みだ。
目が、開く。
瞳の色は、深い紫色。
人間の虹彩には、あり得ないはずの色。
そして。
「――テレサ!」
自分の叫びで、彼女――ヴィルヘルミネ・ヌルミは、夢の中から現実に引っ張り出された。
朝を迎える寸前で、陽の光はない。
部屋の様子は陰影でしか判らない。
ストロベリーブロンドの長い髪が、背後霊のように、ヴィルヘルミネ自身にのしかかっているようだ。
薄い胸に拳を押しあて、息を整えようとする。
心臓が、早鐘のように乱打している。
ただ、見知らぬ女性の夢を見ただけの事で。
違う。
ヴィルヘルミネにとっての夢とは、常人のものとは違った。
「今の、父さんじゃなかった。女の人?」
ただでさえ気弱な声は、かすれている。
直後。
暖気を帯びたオレンジ色が、部屋を満たした。
天井に埋め込まれたランタンが、ひとりでに火を宿した為だ。
三歩で手が届く、狭い部屋の全容があらわとなった。
のっぺりとした、ヤニで黄ばんだクロスの貼られた壁。(断じて彼女が煙草を吸ったわけではない)
くたびれた材質のフローリング床。
今、ヴィルヘルミネが寝ていたのは、二段ベッドの下段。
目線を上げれば、網状のフレームとマットレスが見える。
二段ベッドという事は、自然、二名で使うことを想定しており、
「今朝の御告げは何ですかね? 姉貴御大様」
女顔の少年が、上段から逆さの顔だけを覗かせた。
ストロベリーブロンドの細い髪が、重力に従って垂れ下がっている。
ヴィルヘルミネのそれと、同じ色の髪。
「聞こえた?」
「聞こえたから叩き起こされたわけだが、俺は」
少年――六つ下の弟であるヴィサ・ヌルミが、逆さまのまま、皮肉を浴びせてくる。
「まったく、その上、寝言で実の姉に同性愛をカミングアウトされちゃ、眠い通り越して死にたくなるんだが。起き抜けにだぜ?」
「ええっ!」
そうしたセクシャル属性の自覚がない姉は、裏返った悲鳴をあげるしかない。
「テレサって人だっけ? なんか乳繰りあってた様子が、姉さんの口を通し、時系列に忠実かつ克明に描写され――」
「嘘、嘘でしょ、ヴィサ?」
「うん、嘘」
すがるような姉の質疑を、弟は無情に斬り捨てた。
「姉さんにそんな語彙力や話術があるわけないじゃん。
ほんと、姉さんって面白いほど騙されるよな。
それが実弟だろうと、他者って生き物はハナから疑わないとさ、姉さんみたいな生き物は簡単に食い物にされてだな、」
「ヴィサ!」
さすがのヴィルヘルミネも、これにはキレた。
眼前に垂れ下がる弟の顔面を、枕で滅多打ちにしようとして振りかぶり、
「うわっ、と。テレサって人を呼んでたのはほんとだって。実弟の言葉を信じろ」
あえなく、片手でつかみ取られた。
身体能力の面では弟には勝てない。
「おかしいよな。姉さんの友達に、そんな人いたか?」
怒りを、疑念に上書きされたヴィルヘルミネが、うつむき加減になって一考するが。
「私の知り合いにはいない、と思う」
「よし、忘れてくれた。俺に似ず鳥頭で助かった」
「何?」
「俺の知り合いにもいないよ、テレサなんて女!」
怒気をぶり返した姉に対し、ヴィサはわざとらしく捲し立てる。
「姉さんの夢って、必ず意味があるじゃん。大抵、予知夢か霊との交信か千里眼のどれかだろ?
どれを引いたかはさておき、姉さんの見る夢ってのは、一〇〇パーセントイカれてるわけ」
「ねえヴィサ? いつか言おうと思ってたんだけど、二人きりの肉親同士、もう少し思いやりを持ってみない?」
「やだ、そんなのキモい」
「うん。私の夢は、いつも断片的な内容だから、過去現在未来のどれかもわかりにくいんだよね……」
「アンタも大概、いい性格してる気がするが、まあいいや。
別に、そのテレサって人が姉さんをぶち殺すような夢でもなかったんだろ? ならいいだろ、実害無いし」
首肯しかけて、ヴィルヘルミネはまた、考え込む。
ただ、同年代の女性が微笑んでいた。それだけのはず。
仮にこれが予知夢だったとしても、道を尋ねられるだけの関係に過ぎないかもしれない。
否。
むしろ、ほとんどの予知夢は、その程度の雑多な情報しかもたらさない。
なのに、違和感が拭えないのは、どういう事か。
形のない不安が、ヴィルヘルミネの胸中を無為に、いたずらに焼く。
「いつもみたいに、クソ親父のユーレイが出てこないだけ、マシだと思うけど?」
ようやく顔を引っ込めたヴィサが、ベッドの上段から静かに吐き捨てた。
「ヴィサ」
「それより、心配すべき事があるんじゃ? 今日だったろ、司祭様のお裁きは」
そうだ、とヴィルヘルミネは息を呑んだ。
今日は、九時半から大事な仕事がある。
失敗すれば、解雇。
父の遺した多額の借金を返済し、かつ、日々を生きられるだけの仕事には、二度とありつけまい。
たかが雑多な正夢にかかずらっている余裕はない。
そう気持ちを入れ換えて、ヴィルヘルミネはベッドから脚を下ろした。
2047.8.16 6:50
黒々とした真新しい路面から、石の匂いがのぼっている。
ミケーニャ市の一角にあるメインストリートは、その新鮮さにも関わらず、無人だった。
ブティックのガラス越しに見ても、買い物客はおろか店員の姿すらない。
これは、早朝という時間帯のせいか?
否。
スマイル・ミケーニャという、ショッピングモールがある。
そこには、二百車両を収容出来る駐車場と、更に二百車両を停められる立体駐車場がある。
空きが無い。ほぼ満車である。
開店時間になっていないにも関わらず。
そして、人の姿は一切無い。
市民は、一人残らず街から避難していた。
唐突ではあるが、この世には“競合種”という生物が存在する。
生物と言うよりは生体と言うべきか。
蟻、犬、白鳥、ライオン、ミミズ、カエル……と言った既存の種が、急激な進化を遂げた個体の総称である。
同じ生物でも、その進化の方向性は、一匹一匹、全く異なる。
その為、生物学的に分類しきれず、競合種という大属性でくくる事しかできない。
例えば、犬のポメラニアンが競合種に進化したとして、爪が刀のように発達するものもあれば、視力が進化するものもある。
時には、体液が強酸と化したものや、呼吸の際に高温ガスを排出するものも現れる。
ただひとつ、競合種には、絶対的な共通項がある。
元がどんな体格であろうと、最小でも四メートル超の体長となる事。
そして、自らが自然界の頂点となろうとしている事。
その為に、他のあらゆる生命体を捕食する側に立つ。
地上を支配する種――ヒトなどは、何を置いても追い落とさなければならない。まさに競合相手と言えた。
ゆえに競合種は、進化を遂げたその瞬間から、今立っている地域を根絶やしにしようとする。
人類は、自然界の生存競争への参加を余儀なくされていた。
無人のオフィス街を、白いジープが一台、無謀きわまりない速度で突き抜ける。
左右の景色が濁流のように流れていく中、
「ナメハダタマオヤモリは、細かい分類はめんどくさいので覚えてませんが、爬虫類っぽいやつです」
運転手の少年が、緊張感の欠片もなく講釈する。
黒髪をだらしなく伸ばした、やや幼い容貌の男子だが、青を基調とした制服は、軍属のそれだ。
「爬虫綱有鱗目ヤモリ科タマオヤモリ属だ」
助手席の男が、実直そのものな声で指摘する。
「ターゲットの情報は余さず把握しろと、何時も言って居るだろう」
白を基調とした長衣をまとった男――ルカ・キリエが、憮然として少年をたしなめた。
「あっはっはっはっ、細かいことはいーじゃないですか……あっ」
少年の顔から、にわかに笑みが消えた。
横倒しになった大型トラックが、こちらに腹を向けて、車線を占拠していた。
前方不注意。
現代の乗用車は、運転手の脳裏に速度表記が直接送られる。
軽く意識を馳せると、少年の脳裏に時速一二〇キロという表記が浮上した。
急ブレーキ。
少年の意識の中で、速度表記が目まぐるしくブレている。
いずれにせよ、トラックの腹は、すでにフロントガラス一杯に、視界を覆っていた。
「うわっ」
少年は、気のない感嘆と共にハンドルを切るが、間に合うはずもない。
バンパーの鼻先から、トラックにぶち当た――着色されたかのように青い光が、少年らの網膜に突き刺さった。
強い可視光に目がくらむ中、ジープが凄まじい力で、右へ牽引される。
トラックの前を横切り、視界が開けるや否や、真右に引きずられていた四輪が、物理法則を思い出し、前進を再開した。
トラックとジープを結ぶ因果が逸れ、衝突が回避された。
現代社会ではよくある事である。
意図的に鬼火を呼ぶ。
意図的に天候を変える。
意図的に傷病が癒えるよう仕向ける。
意図的にジープと横転トラックの衝突する因果をねじ曲げる。
こうした“天の奇跡”を意図的に呼び出す手法は、文明社会に根付いて久しい。
今の“奇跡”を呼び込んだ張本人、助手席のルカは、フロントガラスに向けて掲げていたロザリオをゆっくりと下げて、
「馬鹿者、細かい事なものか。
競合種への対応は、進化内容の予測、延いては、元となる生物の生態をどの程度把握して居るかが明暗を分ける。
小さな情報が生死を決めた事例を、お前も多々、知って居る筈だ」
「あの、質問。騎士団の車両をスクラップにしかけた事より、そっちの説教を続けるんですか」
「うん? 今のは、私の儀式を念頭に入れて、敢えて速度を優先したのだろう? 事態は一刻を争うのだからな」
少年は、それ以上言及しない事にした。
「兎に角、シーザー。競合種との接触は近い。
発生現場に近付き、車や建物の損壊が目立って来て居る。見ろ」
運転手の少年――シーザー・カレイは、上司に従い、街並みに目を向けた。
建物は倒壊し、隣接する建築物同士が寄りかかっている。
連立する街路樹は、中ほどから折れてしなだれている。
特に酷いのは地面だ。歩道も路面も関係なく、あちこちに穴が穿たれている。深度は計り知れない。
直径からして蓋のないマンホールにも見えるが、断じて否。
さすがに、穴にはまる愚はおかさないが、凹凸や瓦礫を踏んでしまい、車体が暴れた。
後部の荷台を、非常に重苦しい積荷が乱打した。
「任務中、私に万一の事があれば、お前の身はお前自身で守る事になる。
お前の判断力は信頼するが、戦士としては未熟。油断は禁物だ」
「殺しても死なない“不死身のルカ”の従士でいる限りは、なんか安泰っぽいですけどね。
いやはや、“執聖騎士”の後ろから無責任に口出しするだけで食べていけるボロい商売なんて、そうそうありませんね」
「それを増上慢と言うのだ」
騎士の平手が、少年従士の頭をどやしつけた。軽快な音がした。
「あいてっ」
「その慢心こそが大敵だ。成長を妨げ、死を招く」
「相変わらず、ルカさんの怒るポイントはよくわからないなぁ」
「何か言ったか」
「いえ。そろそろ本題に戻ってもよろしいでしょうか?」
「今回のターゲット、ナメハダタマオヤモリの事だな。以降は伝達性を優先し、ヤモリと短縮して呼ぶ」
ジープが、タイヤを引きずり回しながら、右折。
対向車は無い。
障害物と衝突しかけても、優秀な上司が奇跡を呼んでフォローしてくれる。
「ナメハダタマオヤモリは、本来、キニーズ大陸の荒地に棲む生き物です。
とても神経質で、外敵に敏感。日光が大嫌い。
なので、砂地に穴を掘って、潜む習性がある。
今回のターゲットは、この街の地中に巣を作って隠れている。
そうですよね?」
「ああ。その為に競合種の所在が断定出来ず、避難の範囲が徒に広がってしまった」
「そして、僕達の任務は、“雨乞い”のはじまる九時半……というか実質九時前までに、ターゲットを排除する事。
たった一隊。僕達二人だけで」
「そうだ。気象操作士が居なくなったミケーニャは日照り続きで、甚大な被害を出して居る。
今回の大規模降雨事業は、必ず成功させなければならん」
現代文明では、人為的奇跡によって、天候が完全に管理されている。
その儀式を行う職員が全員避難している現状、農家の受けた打撃は、計り知れない。
これ以上の看過は不可能であるとして、政府は今日の降雨執行を決定。
予定時刻までの戒厳令解除のため、執聖騎士団に競合種排除を要請した。
「ターゲットの総合スペックなんですが、C型種です。
まあ、ぶっちゃけ最弱なやつですね」
「その認識は危険だ。
C型種競合種の制圧には、三個から五個の騎士隊――十人前後の戦力――が必要とされる」
「よかった、そこは理解しているんですね。
ところで、そんな死地に僕らだけで放り込まれた事についての所感を聞きたいんですが」
騎士の視線は測量したかのようにまっすぐで、わずかの迷いもなく、
「放り込まれたのでは無い。任せて頂いたのだ。
我等は教国とビーン大司教の信頼に応え、市民の安全を取り戻さなければならない」
シーザーは諦めた。
当人が気付いてくれる事を。
若き第六位騎士(他国の軍属における大尉相当)に対する大司教の妬みによって誅殺されかかっている、この現状に、気付いてくれる事を。
「まあいいや。
とにかく、普通にやれば一〇〇パーセントの確率で死にますけど。
ていうか、時間までにターゲットを見つける事さえできませんけど」
「その通りだ。いつも通り、策を頼む」
従士シーザーは、前言撤回したくなった。
こんな絶望的な状況の打開策を、毎日のように要求される仕事が、ボロい商売であるはずがない。
常人なら、数日で気が狂う。
騎士に一ミクロンの悪意も無いのが、なおの事たちが悪い。
「偶然会える事を期待するのは、なし?」
また、軽いげんこつが飛ぶ。
「無しだ。我等の任務に、偶然という言葉は無い。敵は常に、完璧と思え」
「そうですかー。じゃあ、しかたがないですね」
「矢張り、有るのではないか。策が」
「うーん。策と呼べるほど、大層なアイデアはありませんが、」
騎士団車両のジープが、車腹の底からうなりをあげて、邁走する。
霞がかかる高度から、虫のようなそれを見下ろす者があった。
「矢張り、それが最善策か」
従士の献策を最後まで聞き終えたルカは、素直に頷いた。
「こんな戦法で意見の一致を見る僕らは、もしかして頭がおかしいのではないでしょうか」
心にもない事を嘯くシーザーに、
「何を言う。お前も同じ意見だと解った今、疑う余地は無い」
どこまでもまっすぐに、騎士は言い放った。
「しかしシーザー。交戦時の方針が定まった。それは良い。
だが、ターゲットを見付けるにはどうすれば良い?」
ヤモリは、街の地下に広大な巣を築いている。
地上から探し出すのは困難だし、仮にルカ達が地下に潜り込んだところで、時間までにターゲットを見つけ出す成算は低い。
運良く遭えたとしても、ほとんど逃げ場が無い巣の中に入り込むのは、それこそ自殺行為でしかない。
「うーん、それなんですけどねぇ」
シーザーは、街並みを眺めながら、気の抜けた返事を返すだけだ。