episode1-1 ~人類の敵~
天の実在が立証された
――始祖レイシオ・グラント
2050.8.16 5:47
人類は滅亡した。
空に紺色のにじむ明朝。
サビリア共和国ミケル州ミケーニャ市。
かつてそう呼ばれた瓦礫の山が、夜の残滓と砂ぼこりを帯びて広がっていた。
ショッピングモール・スマイルミケーニャと呼ばれていた建物は、巨人に踏み抜かれたように圧壊していた。
剥き出しとなった柱と骨組みが、様々な形に歪んでいた。
立体駐車場も同様。
天井と床がくっついている。
折れた鉄骨と車のフレームらしき金属片が、隙間からはみ出している。
さながら、無機物のサンドイッチだ。
モールの向かい側には、国立図書館がある。
オレンジ色に塗装されたモルタル壁が大穴を穿ち、瓦礫と蔵書の成れ果てが、建物の傍らに散っていた。
砕けた頭蓋から、脳が飛び散ったような有り様だ。
破片を踏みしめる弱い音。
元は四車線のメインストリートだった濃灰色の残骸を、一人の男が渡っていた。
人類は滅亡した。
ただ一人の男を残して。
一八八センチの長躯だった。白を基調とした――しかし、まだらに黒ずんだ――コートのような上着で、その広い肩を包んでいる。
短く刈った金髪。
ただ、前を睨み続けている碧眼。
顔の輪郭は精悍だが、頬が削げたように肉が減っていた。
手には、肉厚の西洋剣。引きずり持っており、アスファルトの残骸をこする度、錆びた鈴のような音を垂れ流している。
刀身は玉虫色の輝きをはらんだ材質。
して、パン切りナイフのごとく、緩やかに波打っていた。
その男、ルカ・キリエは、何の情感も宿さない面差しで、ただ歩を進め続ける。
あの方は、度々何者かと対話していたように見えた。私には、それが何であるかは判らない。
――啓蒙者モノレ・モレリ
男の後方、およそ五〇メートル。
三階建てのアパート屋上に、大質量の気配。
男は振り向きざま、長剣を振るう。
振り抜かれるまでの過程が、肉眼で見えないほどの剣速。
男の視界を、なまぬるく肉質的な巨物が遮った。
被我五〇メートルの差を一秒で詰められていた。
波形の刀身と、巨物の腕らしき器官が、真っ向からぶつかる。
鼓膜を穿つような金属悲鳴が尾を引いた。
男の長躯も紙クズのように飛び、ブティックのショウウインドウをぶち貫いた。
肉厚の強化ガラスが、マネキン人形の残骸が、細切れの有象無象となって飛び散る。
亜音速で打ち捨てられたルカ・キリエという質量が衝撃波を帯び、ブティックの店頭を無惨に粉砕してしまった。
当のルカ・キリエは、痛みとショックをまるで意に介さない様子で、ゆるりと立ち上がった。
顔の裂け目から血が噴き出すのも一瞬。
ほのかに緑色をした光がわだかまった次の瞬間、傷口が生き物のようにうごめき、閉じてしまった。
すでに排出された血液だけが、彼の表面を流れていった。
距離が離れて、ルカ・キリエの目に、ようやく襲撃者の全容が映った。
全体的なフォルムは人間に近い。
ただし、見上げるほどの体躯と、表面のおぞましい質感を人間扱いすれば、の話だが。
赤黒い肉腫の群れを、青黒い肝臓のような肉がよろっているようだ。
どこもかしこも、無数の昆虫を内包しているかのように蠢いている。
軟らかそうな見た目だが、男の斬打をまともに受けて半歩も動じた様子はなかった。
彼の持つ波形剣ヒンメルフランメF‐4・通称“災厄と叡智の体現”は、八五キログラムの重量を持つ。
それが彼の膂力により、音速で激突したのだが。
固形のように硬い突風が、ルカ・キリエを打ち据えた。
肉腫の怪物が一歩を踏み出した――そう男が認知した瞬間にはもう、手の届く間合いに踏み込まれていた。
生物としての、物理的な格差。
生体スペックの断絶。
だが、男もまた、条理を越えた先見性で肉腫の挙動を迎えうつ。
一刀のもとに車両を半壊させる軍用重刀剣を、下段から斬り上げる。
だが、その圧倒的な斬打を、肉腫の怪物は遥か頭上から振り下ろした腕で叩き伏せた。
先の一合で左腕の筋が切れていた事を――正確には、それが自然治癒するまでのコンマ秒の遅滞と、肉腫の、予想を上回る敏捷性を――男は加味していなかった。
想定よりわずかに乗り切らなかった己の腕力。そのわずかな差が、明暗を分けた。
受け流し切れなかった衝撃が男の双肩を容赦なく襲う。
頭から押さえつける、理不尽な手のように。
足を取られ、肉腫怪物が振り上げたもう一方の腕を見上げるしか出来ない。
まともな形状の腕ではない。
鎌のように薄く、湾曲した器官が、果てしなく伸びている。
いったい、有機生命体がどのような進化を遂げれば、あのような硬質を得る事が出来るのか。
誰にもわからないし、滅びた人類に模索するすべはない。
それを見据える男の瞳は、未だ無感動であり。
そして、横一文字に振り抜かれた鎌手が、男の首を斬り飛ばした。
果たしてそれは、走馬灯と言うものだったのか。
酸素供給の途絶したルカ・キリエの脳が、二十四年間に蓄積したあらゆる記憶を噴出させた。
両親、妹、叔父夫妻、同僚、上司、部下、友人、仇敵、一度限りの人々。
恩義、確執、保護、助力、敵対、死闘……そして、等しく訪れた、死別。
自らの頸動脈断面から吹き出した血の散水にまみれながら、宙を舞う頭部は、瞳を閉じた。
まぶたの帳が降りた瞬間に“そのイメージ”が浮かんだのは、果たして偶然か。
闇の中、彼が見たのは、若い女性の幻だ。
腰まで伸びた髪は、陽光を吸ったような薄金色。
少女の時分の面影を残す顔つきは、しかし、あるがままを見守る慈母のような気配を同居させていた。
睫毛の秀麗な双眸と桜色の口唇は、どちらも穏やかな弓なりを描いている。
欠片の曇りも無い、太陽の笑みだ。
目が、開く。
瞳の色は、深い紫色。
人間の虹彩には、あり得ないはずの色。
偉人とは、天命によって箍を破壊された、その副産物でしかない。
――聖姉レイシア・グラント
願えば叶う――ロール
episode1 教皇暗殺