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牢から見える空

作者: 牢から見える空

 


 あの時の私は、とても運が悪かった。


 今は訳あって、私は牢の中にいる。もう何年経っただろうか。近頃は何かを思い出すのも大変になってきていた。




「残念ながら本日の運勢が最下位なのは・・・」

 私は普通のサラリーマンで、毎朝ニュースの終わりにある星座占いを見てから出勤するのが日課だった。そして生憎、あの日の私の運勢は最下位に相応しいものだった。

 いつもなら、家を出る一時間半前には起床して、ゆったりと準備をしているはずだったが、この日はいつもより起きるのが遅かった。恐らく、昨晩の残業のせいだろう。

 私は急いで髭を剃り、顔を洗い、歯を磨き、スーツに着替えた。そして、カバンを持ち、リビングに準備されていた朝食から、コーヒーだけを一口飲んで慌ただしく家を出る時、あの最下位の知らせを小耳に挟んだ。



 私は走って駅に向かった。人通りが決して多いとは言えない道を、年甲斐もなく走り抜けていた。

 それからしばらくすれば、車の通りが少し多くなる。そこには、私がいつも渡っている横断歩道がある。しかし、それは走れば飛び越えられそうなぐらいの幅しかなく、信号を無視して行く人たちも少なくなかった。何より、車通りの少なさがそうさせていた。それは私も例外ではなく、左右を確認して大丈夫な時は、赤信号でも気にせず渡っていた。

 私は走っていた。横断歩道に辿り着くと、その日はたまたま赤信号だった。私は走っていた。だから左右の確認を怠ってしまった。

「あっ、危ないっ!」

 私は何かと衝突した。

 しかし、幸か不幸か、相手は車ではなく自転車で、私は咄嗟にスピードを落としたおかげで、ぶつけた痛みがあっただけで、怪我は一つもしなかった。

「すみませんでした」

 自分が悪かったと自負してはいたが、急いでいた私は相手を見ずに、上っ面の謝罪をしてその場から走り去った。



 駅に着いた私は、幸いいつも通りの電車に乗ることが出来た。最近は気温が下がってきたので、あれだけ走った後でも汗をほとんどかくことはなかった。

 電車の中は、いつも通りの人混みだった。その満員電車は、事故防止のためか速度が遅い。いつものことだ。

 乗り込んだ駅から二つ目の駅を過ぎた所で、私は少し大きな欠伸をした。周りに人もいるので、私は吊革を掴んでいた右手で口を覆った。昨日寝るのも遅かったせいか、体が少し怠かった。リラックスさせるため、口を覆っていた右手を下にだらんと落とし、肩甲骨を回してストレッチをした。

 次の瞬間、私の右手が何かに掴まれた。

「あんた今、痴漢しただろ?」

 それは大学生ぐらいの男だった。私はこの状況を、すぐに理解出来なかった。


 私は次の駅で引きずり降ろされた。その際、大学生ぐらいの男とその他の大勢と、一人の女性が駅で降りた。

 男によると、私がその女性に痴漢をしたと言うのだ。

 しかし、私はそんなことをした覚えはなかった。

 程なくして、駅員が二人来た。男が状況を説明し、女性も被害を受けたと訴えた。私も、身に覚えがないと訴えた。

「とりあえず、駅員室まで来てください」

 話し合うのだとばかり思っていた私は、何の疑いもなく着いて行ってしまった。

 そこからは、どんな抵抗も通用しなかった。どれだけ私が無罪、冤罪だと訴えても、聞く耳を持ってはもらえなかった。

 まもなくして、警察が私の身柄を受け取りに来た。



 死ぬまでお世話になることなどないと、思っていた刑務所で、手荒い取り調べを受けた。私は諦めずに冤罪だと訴えたが、全く聞いてはもらえず、状況証拠(私の身動き・仕草)のみで判断された。

 その次の日、余罪を調べていた警察が一枚の写真を私に見せた。三十代半ば辺りの女性だった。

「お前、昨日自転車と接触しているだろ?」

 今までは否定していたが、確かに接触はしたので、素直に頷いた。

「その時接触した相手がこの人だ。この方、亡くなったぞ」

 私は血の気が引いた。

 説明を聞いていると、私と接触した時、あの自転車が倒れてしまい、その時に頭部を地面に打ち付けてしまっていたらしい。そして、そのまま帰らぬ人となってしまわれたそうだ。そして、私はその加害者であり、それを放って逃げた非道な人物となっているそうだ。

 しかし、その事故現場は、私が自転車とぶつかった場所とは違かった。確かに距離は近かったが、発生した場所は私が通っていない道だった。

 だから私は、また必死に訴えた。



 そこからは早かった。

 結局信じてはもらえず、まずは事故の件で起訴され、そのまま有罪。そして、完全に信用を失った私は、痴漢の件も有罪とされた。

 判決は、懲役二十年の実刑判決だった。




 あれからもうすぐ十五年も経つ。

 定年間近だった私は老後を牢で過ごした。牢には小窓が付いていて、朝日が登れば明るい日が差し込み、沈めば暗くなり、雨が降れば湿っていたし、雪が降れば寒かった。日が登っては沈み、一日が過ぎる。外と同じ時間が流れていると思っていた。

 何故だろう。

 いつもと同じだったはずなのに、私は世間から隔離されてしまった。覗ける幅は狭いが、皆と同じ空が見えていた。温度を感じ、湿度を感じ、光を感じ、季節を感じていた。けれど、私は世の中で生きることを禁じられていた。

 私は悟ってしまった。私と世間では、同じ空も、また別のもの。色や見た目は同じでありながら、交わることのないねじれの位置に存在する別物だった。

 事件はニュースになり、世に広まり、人々に衝撃を与える。まだ、その犯人は世間と繋がっている。

 しかし、また別の事件が起こると、それまで取り上げられていたものは廃れていき、やがて人々の記憶の片隅にも残らなくなる。犯罪者が世間と切り離される瞬間だ。

 だから、この空は別物なのだ。それがどんなにこの牢を明るく照らしても、世界に溢れる希望の光のほんの一部が漏れてきているに過ぎない。諦めるな、頑張れと、私に向けられ、もたらされている光ではないのだ。硝子の向こうの遠い別世界のものなのだ。



 だから、私はもう決めた。私は私を切り捨てた世界に固執することを諦めた。実に不本意ではあるが、私は旅立つことにしたのだ。この隔離された場所から抜け出て、溢れかえる光の世界を求めて…。






 私の二つの罪が冤罪であることが発覚したのは、それから二年後のことだった………

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