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笑えぬ少女

作者: 半月

古書の飾られたレトロな雰囲気の喫茶で一人、少女が座っていた。

唇に塗った赤い色の薄紅はがんばってつま先立ちをし、背伸びをした子供かのように似合っていない。

1ヶ月に一度はこの店に来る彼女の笑顔を見た人は数年通っている今でさえいない。

いつも少女は一人で席に座っていた。

この店が大のお気に入りらしいが高い飲み物はいつも買わない。

一番安いコーヒーをブラックのまますすり少し顔をしかめる。

彼女は本来、コーヒーより紅茶派である。そして、このお店は紅茶が美味しい。

お金を使うまい、使うまいと苦学生のように切り詰めている。

たまの贅沢というこの店も明かりが穏やかできらびやかなものに目の慣れない彼女にとっては実家より懐かしい場所のようだった。

人がたくさんいる外とどれだけ足を伸ばしても届かない椅子。

洋風を意識し、高めに作られた椅子には足掛けがあるが、背の低いこの少女にはそれでも足を宙に遊ばせ、持て余している。

外は大粒の雨模様だった。扉が開くたびにむせ返りそうな雨の匂いと分厚い扉を叩くようなゴツゴツとした音が否応なしに耳に入る。

お嬢ちゃん、一人でこんなところにいて、大丈夫?そんな声が聞こえそうなほど背丈からかなのか聞こえてきそうな容姿だが、彼女はれっきとした成人を迎えた女性で、奨学金補助されている大学生である。

ゴロゴロ、と遠くからいかずちの音がこちらに近づいてくるのを察知すると、彼女はない胸に手を当て、店舗を出ることにしたようだった。

あまり雨に濡れて帰りたくない、と急いで地下の道へ潜る。

電車を乗り継ぎ、家という名の学生寮に辿り着く頃には雨はあがっていた。

いつもそうだ、大抵彼女が帰路につく頃、雨は小ぶりになるか止む。運がいいのか悪いのか、彼女の頭上には大抵いつも大きく広がった曇り空が残っている。

向こうは雲などなく晴れているというのに頭上は曇り空。そのまた向こうは稲妻が走っていた。

北風が彼女に似合わぬ大人びたスカートの裾を揺らし、髪をかき乱していった。

北風が吹いている。寒い、と白い肌に鳥肌が立つのを見てから稲妻を見た。

相当遠くで落ちているのだろう、はっきりと見えるのに音は殆どしなかった。

こんなにはっきりした雷はいつぶりだろうか、と考えてから思い出すのをやめた。

忌まわしい記憶が蘇るからだった。

高校生になってから押しやられるように入ることになった学生寮は別に特別嫌いではなかったが、住んだ心地のしない、物の少ない四角い部屋に閉じ込められたようで彼女は落ち着かなくなるのだった。

籠の中の鳥、とはいうが、鳥かごのほうがこの部屋よりよほどおしゃれだと部屋に辿り着き、思考回路のあちこちを切断した頭で考える。

掃除が好きなのでも、勉強が好きなのでもなかった。ただ、忙しなく考えたくないことを遠ざけるために励んでいただけに過ぎないこの生活もそろそろ就職という形で打ち切りが迫る。

笑顔のない彼女は奨学金返済で学校側から决められたバイト以外受けたこともなく、面接でもそれでは厳しいだろうと教授から言いつけられていた。

いつだったか、本の見出しが語っていた。「人は見た目が9割」というやつなのだろう。

それがどうだとかは別段思わなかった。

洗面所に立ち、鏡に映った自分の顔を見て、紅を引いた口の端を少し釣り上げた。

引きつった、ひどい顔だった。

笑うことが難しい。彼女は笑わないのではない。笑えなくなってしまったのである。

ビキビキと痛む頬に力を入れても顔はますます醜く歪むばかりで、すっかり小さくなった声でため息をついた。

人間は笑い方を忘れることができるのだという。話さなければ話すことさえも忘れて喋れなくなるのだという。

笑えなくなった代わりに、悲しみもほとんど感じなくなった。感動をすることさえも、怒りを感じることもない。それはそれでいいかと真顔に戻る。

真っ白でぷっくりと丸く膨らんでいる柔らかそうな頬はうっすらと疲れからか上気していた。

笑顔の消えたあの日からまるで成長が止まったかのように彼女の容姿はここ数年大差がない。

頬は丸く、子供のようで、胸はほとんど膨らまず、お腹は出っ張ってこそいないものの、くびれと呼べるほどのウエストもない。

別段腰が出っ張っているわけでもなく、足は細くも太くもない成長期独特な太さを保ったままだった。

急激に太ることもなければ、痩せることもない。

服を脱ぎ散らかし、部屋着に着替え、化粧を拭った幼い顔でベッドにダイブする。だが、数分も経たぬ内にベッドから降り、すぐさま脱ぎ散らかした服を洗濯機に放り込んで、床拭きを行った後、夕食の時間になるまで勉強道具を広げた。

いつしか夕焼けにくれた鮮やかな空が広がってからようやくそれが初夏前に訪れる7時の明るさなのだと気づいた。

一人で食事をして、「ごちそうさまでした」と小さい声で告げた。

いつも通り流れていく時間、朝ラッシュに挟まれて香水のキツイおばさんや、汗の匂いがキツイ男性、甘ったるい香りを振りまく女の子や、自分に気づかず押しつぶしてくる。

タックルするように乗り込んでくる人々に時折殴られ、鈍い痛みをお腹や鎖骨に感じながら窓の外の景色に目をやる。

一瞬しか見えない残り少ない自然を楽しめる川べりの風景が通りすぎて消える。

陽の光を反射してきらめく川面、風に揺れる木々。感じる心が減った今でも、朝これが見れるか見れないかでこのラッシュの疲れが変わるというものだ。

変わっていく町並み、変わっていく情景、何一つだって同じではいられない、はずなのに少女は大した変化は訪れない。

きしむ体でそっと思考回路を停止させた。

それからしばらくして、ニュースが梅雨入りをしたと告げた。

毎日のように降る大粒の雨は災害こそ起きそうなほどだったが、少女の毎日は雨が降ろうが大きな変動はなかった。

レインコートすら通過し、染みこむ雨の冷たさもすっかりなれてしまった頃、まったく知らぬ(ひと)が一人、少女に近づいてきた。

にこやかな表情で「あの、すみません、次の講義受けるんですけど、隣いいですか?」と聞いてきたのだ。

少女は黙って頷き、席を1つ分開けた。

その人は少女の真横に座り、ぺらぺらと関係のないことを話してきた。

これが俗にいうKY……空気読めない、と言われる人なのかもしれないと思ったが、純粋に少女は驚いていた。

無表情のまま彼女の話に相槌をうち、彼女に出された質問もまともに答えられもしないままであったのに、それでもその人は楽しそうに話し続けた。

その人はやがて勝手にいつの間にか少女の近くにやってきて、隣に座り、勝手に話しだすようになっていた。

騒がしいと思いつつも、少女はその騒がしい人が嫌いではなかった。

「あたし、山乃ヒカリって言うの、珍しいでしょ、名前カタカナなの、そろそろ貴方の名前も教えてほしいなーなんて」

少女は口をあけ、しばらくしてからようやく声をひねり出した。

浅貝(あさがい)……浅貝、里生(りお)

山乃ヒカリと名乗った女性は少女には名前の通りの人だと思った。日差しが照らしているような、そんな人だと思ったからだった。

山乃は胸の前で両手を合わせると、「りおちゃん!見た目だけじゃなくて名前までかわいいんだね!」とまた少女、浅貝に向かって微笑んだ。

少女は反応をすることができなかった。

それでも山乃は話をやめない。「ありゃ、照れちゃった?」と言ってノートを広げながらこの前の講義がどうこう、この公式がわからない、あの教授わかりづらい、などと言っている。

この前など、一緒に図書室で勉強しようと誘われ、返事に戸惑っている浅貝を無理やり手を引いて図書館のように広い図書室へ小走りに走って連れて行ったほどである。

それでもそれが浅貝にとっては、灰色の風景に差し込んできた1つの光のように見えたのだった。

山乃がいること、行動すること、話すこと、それらが色づいて、浅貝の中へ飛び込んでくる。

「りおちゃーん?」

目の前で山乃に手を振られ、驚いて山乃を見上げた。

山乃と浅貝の年は2歳ほどしか違わなかったが、その身長差は差にしておよそ30センチほどの違いがあった。

山乃は170センチ近い背丈のスラっとした美人だった。小学生の頃とほぼ変わらぬ浅貝は、それすらも眩しかった。

山乃は自分の両頬をつねり、引っ張りあげると「りおちゃんもわーらいましょー?」と言って歪んだ変な笑顔を見せた。

浅貝は戸惑って山乃から目をそらし、小さく「うん」と言った。

山乃は自分の頬を摘んだまま「笑ったほうがかわいいよ~」と発音がままならないまま告げた。

浅貝は小さく頷いて、下を見つめた。山乃と目を合わせないので、山乃はそのまま中庭へと出て行くとすっかり梅雨の去った蒸し暑い椅子に座り、突っ立ったまま山乃を見ようとしない浅貝に独り事のように言った。

「あたしね、本当は、笑えないの」

浅貝は耳を疑った。何を言うのだろうと頭を捻りたかった。だが、単に山乃を見つめるだけの形になり、へにょ、と笑った山乃をただただ、間抜けに眺めた。

「この笑顔も全部、嘘なの。八方美人とかいう言い方もきっとできるけど、それとは違うと思う。あたし、本当は感情がほとんどわからないの。なんとなく好きだなーとかおもしろいかなーとかはわかるけど、ほとんど悲しいって感情も、苦しいって感情も、楽しいって感情もわかんないんだ。ただ、この顔でいたら敵は作らないからって、とある人に教えてもらったから、それからあたしはずっとこの顔で人と接してるの。でも、一回ね、一回だけこの顔の使い方間違えちゃって、すっごい周りの人達に嫌われたことある。あたしにはみんなの感情は理解できない、でも、りおちゃんは、勝手に、ほんとにほんとーに、勝手にけど、あたしに似てるって思ったんだ」

浅貝は、黙ったまま山乃を見ていた。

笑顔ではない山乃も強い日差しと濃淡の強い木陰の下にいる姿が似合っていた。

返事をしない浅貝をしばらく眺めて、それから俯いて笑い、「ごめんね」と言って一人で歩き出した。

何故謝るのか、浅貝にはわからなかった。追いかけようにも山乃の長い足で足早に歩かれては猛スピードでこの場と廊下を疾走しない限り追いつけるはずもなかった。

結局その日、それっきり山乃は浅貝の元へ訪れなかった。

普段通りに手を洗い、部屋着に着替えようとしてからようやく浅貝はいつもと違う自分の表情に気がついた。

顔が歪んでいた。眉間にしわが寄り、怒っているわけでも、困っているわけでもない顔を作り出している。

そっと自分の顔に触れ、この根本が苦しいという感情からくるものだとようやく理解した。

浅貝はそのまま、鏡から目をそらし、俯いて、鏡に手をつくと、「私は……」と吐き出した。

浅貝にも感情がほとんどわからない、それだけの理由があってなったことだ、ということもいつも笑っていた山乃にもそれだけのことがあったのだろう、何がヒカリだ、押し付けただけじゃないかと無表情になった顔で天井を見て、そのままやるせなくあるようで何もない部屋を見渡した。

笑えない少女はもう一度鏡の前に向き直った。そして、無理に笑おうとした。だが、それも失敗に終った。

『ごめん』山乃の声が反芻する何度考えてもわからなかった。何故山乃が謝ったのか、浅貝には理解ができない。

それからしばらくというもの、浅貝は山乃に会うことすらなくなっていた。

“いつも”と名付くその光景があまりにも色あせてつまらないものであるということに浅貝は薄々感じ始めていた。これが、自分の知る世界だたのだ、と。

ある日、浅貝は浅貝に全く気づいていない山乃の後をつけ、追いかけた。追いかけるという行動自体が浅貝にとっては酷く珍しい。追いかけて息が上がっていく、顔もほてり、熱を帯びる。真夏の蒸し暑い風が体にまとわりつく、体力の消耗が激しく、長いこと走れない、それでも、やらねばいけないような気がした。

運動の疲れとは違う、心臓の高鳴り、気分の高揚、それがなんであるのか、浅貝にはわからない。

ただ浅貝は山乃を追い、必死に走っている。それだけは事実だった。

「ヒカリッ……さ……」

今まで呼んだことのない山乃の下の名を叫ぶ。

山乃は振り返り、驚いた顔で立ちすくんでいた。

「りお、ちゃ……?」

息切れしたまま浅貝は言葉を紡ぐ「私も、私も、笑えません、でも、山乃さんといるの、いやじゃ……なかった……」そう言って、普段の運動不足がたたったか、目の前が真っ白になった浅貝は倒れこんだ。

何分そうしていたのかはわからなかった。ただ、目が見えなかった、開いているはずなのに、開いても閉じても多少の明暗があるのみで視界が白い。頭が酷く痛む上、耳の真横で心臓がなっているようにうるさい。

それからしばらくして、横にようやくぼんやりと山乃が座っていることに気がついた。

どうやら校内のベンチにぐったりともたれかかっていたらしい。

心なしか山乃は怒っているように見えた。誰かに感情を自分宛てでまっすぐぶつけられたのはいつぶりだろう、とぼんやりとした頭で考える。


浅貝は笑わない。

それは「あんたって何考えてるのかわかんない」と母親に言われたから。父親には基本的に存在そのものを無視されて育った。母親も似たようなものだった。

愛情を得るべく、必死に笑った。辛いことも全部かくして生きた。そして、祖母の家に押し付けれた頃には笑顔など等に失い、感情が壊れていた。悲しきかな、それが特別どうだと思わずに浅貝はいままで生きてきた。

感情の一部を教えてくれたのは祖母だった。その大半は怒りと悲しみだった。それでもその祖母さえもこの世にはもういない。

「りおちゃんのバカ!なんで無理してまで追いかけてなんてきたの、なんで、あたしなんか……」

怒ってる山乃さえ、何故こんなに自分が怒っているのか半分不思議そうにしている。

そのはずだ、山乃も浅貝も感情をほぼもたぬ人間なのだから。

そして、二人で顔を合わせ笑い出した。山乃は吹き出し、浅貝はかすかに頬をゆるめていた。

笑っていた。笑えていた。

「やっぱ、りおちゃんはバカだ、頭いいけど、バカだよ」

山乃はお腹を抱えたままそう言う。そうなのかもしれない、と浅貝自身も頷く。

「あのね、あたし、あたしね、本当は、幼いころに性的虐待を受けて、母親からも主に殴る系のだけど、虐待受けてたの。ごめんなさいばっかりで、怯えてて……笑えっこないの、見かねた誰かが通報して私は施設に預けられた、そこで今でも恩師と思ってるんだけど、その人に笑顔の作り方を教えてもらったの。でもね、こんなふうに笑ったのって本当に久しぶり……りおちゃんといたらきっと感情取り戻せる、そんな気がするの」

浅貝もその言葉に真剣に頭を縦にふり、同感だと伝える。

「私も、似たような……ものだから」しばしの沈黙とか細い声が行き交う。

それは暑い日差しに似合わぬ穏やかな、あまりにも穏やかな空間(とき)だった。

光をいっぱいに部屋へ放り込む窓辺に映る少女の顔は、もう幼き少女のそれではなかった。

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