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第一章

神暦三〇四七年十二月下旬。クーベル王国の冬は、すでに街路を凍りつかせていた。

夜の帳が下りると、ラコナの街全体が、冷たい鉄の箱に押し込められたようになる。風は外壁の欠け目や軒下の隙間から入り込み、路地を吹き抜け、地面に積もった砕け雪を巻き上げて、何度もかき混ぜられた白灰のように舞わせていた。人々は扉の閂を固く下ろし、窓の隙間には布切れや古い藁縄をねじ込んで、少しでも外気を防ごうとする。火を焚く匂いは家の内側に押し込められ、熱がほんの少しでも漏れれば、明日はそのぶん命が一口減る――そんなふうに思える夜だった。


この一帯は平民街である。

昼間なら、荷車の軋む音や呼び声、値切りのやり取り、罵声くらいはどうにか聞こえてくる。だが夜になると、そうした気配は急速に引いていく。まるで潮が引くように、あるいは水そのものが抜き取られたように、残るのは冷えきった石と木板ばかりだ。たまに遠くで犬が吠えることがあっても、その声はすぐに風に折られて消えてしまう。


そんな広い闇の中で、ただ一か所だけ、まだ灯りをともしている場所があった。


――〈長暮亭〉。


それはそれほど広くもない街角に建つ、三階建ての木造酒場だった。外壁に塗られた塗料は、とうに風雪に削ぎ落とされ、木目の荒い古材がむき出しになっている。まるで別の時代からそのまま運ばれてきた建物のようだった。軒下に垂れた氷柱は、出入り口から漏れる熱で半ば溶け、かすかな黄昏色の光を反射している。そのせいで遠目には、いかにも無理やり作ったような、それでいて今にも崩れそうな温もりに見えた。


扉には真鍮の鈴が吊られている。

その隙間から漏れてくるのは、王都の貴族たちが集う社交場のような音楽ではない。もっと粗く、生々しい音だ。杯が卓に当たる音、男たちの笑い声に混じる咳、卓を叩きながら自分の不運を罵る声。油脂と烈酒の匂いが重く混ざり合い、まるで目に見える毛布のように室内を覆っていた。


こういう寒夜には、こういう場所はほとんど「まだ生きた人間が呼吸している証明」と同じだった。

だからこそ、街の中でそこだけがひどく目立っていた。


「はぁ……っ、はぁ……っ……」


二つの影が、風を正面から受けながら街角の向こうから歩いてくる。凍りついた雪を踏む靴底が、薄氷を割るような、乾いていて危うい音を立てた。風は二人の脚元にまとわりつき、羽織った外套を同じ方向へとはためかせる。


先を歩く男は、それほど背が高いわけではない。だが、どこか人に命じることに慣れた、気だるげな余裕をまとっていた。外套の仕立て、革の細かな皺、襟元の留め具――どれも平民には手の届かぬ品で、雪に濡れてなお元の値の張り方が見て取れる。

後ろの男はそれより少し背が高く、足取りも慎重だった。かかとの下ろし方が前者より強い。滑らぬよう気をつけているのがわかる。


「もうすぐですよ」


先を行く男が息を切らしながら言った。口と鼻から白い息が幾筋も吐き出され、たちまち風に引き裂かれて、根こそぎ引き抜かれた霧のように散る。


「それ、もう三回目だぞ」


後ろの男は帽子のつばをさらに低く引き下げ、マフラー越しにくぐもった声を返した。


「こんな忌々しい場所じゃ、城壁の隙間から吹く風だけでも人が凍え死ぬ。向こうがあんなことにでもなってなきゃ……」


そこまで言って、後半は飲み込むように声を変える。


「本当にここにあるんだろうな? 上城のあたりの、もっと暖かい店じゃなくて」


前を行く男は、あまり品のよくない笑みを浮かべた。


「上城ですか? あちらの店じゃ、旦那様のお気には合わないでしょう。それに――」


声を落とす。


「目も避けなきゃなりませんし」


後ろの男は「ちっ」と舌打ちしたが、それ以上は反対せず、半歩だけ歩調を速めてついていった。


二人は路地の角を曲がる。

その角はむしろ風がいっそう強かった。閉じ込められていた何かがようやく出口を見つけたように、壁と壁の間から押し出され、長い唸り声を上げる。その唸りの先に――灯りがあった。


〈長暮亭〉の窓から溢れた灯火は、雪混じりの空気の中でぼやけ、こぼれた油のように地面へ広がっていた。二人は店先まで来ると、すぐには扉を開けず、まず軒下で外套を払った。腕に、肩に、靴の甲に積もっていた雪がはらはらと落ち、足元に円い白を作る。


やがて扉を押す。


真鍮の鈴が、澄んだ音をひとしきり鳴らした。

外の風はそこで断ち切られ、寒気が刃物で裂かれたように後ろへ残る。代わりに、熱気と酒の匂いと、長く営業してきた酒場にしかない、人の汗と湿った木と油と足音の混ざった匂いが、塊になって押し寄せてきた。


店内は広くはない。

一階は大広間で、いびつな長机がいくつも押し込まれ、客たちは肘が隣の杯に当たりそうなほど近くに座っている。炉は壁際にあり、壁の一角はもう真っ黒に煤けていた。梁から吊るされた油灯の傘は琥珀色のガラスで、誰の顔も半分ほど沈ませて見せている。


優雅な場所ではない。

だがこの瞬間に限って言えば、外の通りよりはたしかに別の世界だった。


「まあ」


入ってきた客をひと目で見つけた者がいた。声は大きくないが、笑みを即座にしまい込むような、慎重な愛想がそこにはあった。


「これはブランデ様ではありませんか。それに……ああ、貴いお客様まで、こんな小さな店にわざわざ足を運んでくださるなんて。店にとっても光栄でございます」


声の主は、エプロン姿の若い女だった。別の卓で注文を取っていたところを、鈴の音に反応してすぐ振り向き、ほとんど反射のように恭しい笑顔へと切り替えていた。

その笑顔はよく出来ていた。口角の上げ方は過不足なく、目線は少しだけ下へ落として、相手と真正面から視線を合わせない。それでいて愛想よく見える。下層の奉仕の場で長く働いてきた者だけが身につける種類の笑い方だった。


あとから入ってきた男――ブランデと呼ばれた男は、肩に残っていた雪を軽く払うと、女の挨拶には正面から答えず、ただ上着を受け取れと手で示した。

先を歩いていたもう一人の男は、自分の外套を解き始める。動作はひどく気だるく、まるで自分の家にでも帰ってきたかのようだ。


「個室を」


ブランデが言う。相談ではなく命令の口調だった。


「酒はきついのを。なるべくいいやつを持ってこい」


「かしこまりました」


女はすぐに頷いた。


「どうぞ奥へ」


そして奥へ向かって声を張る。


「エリーサ、三階の灯りをつけて! お二人を個室へご案内して!」


奥の布幕の向こうから返事があった。


「はーい、すぐ行きます!」


その返事とともに、油で染みた布の幕がめくれ、一人の影が姿を現した。


若い娘だった。


背はそれほど高くない。だが靴底に薄い木を入れているのか、実際よりわずかに背があるように見えた。髪は高い位置でひとつに束ねられ、毛先が軽く揺れるたび、火で乾いたような甘い香りがかすかに立つ。安い皂角の匂いであって、香粉ではない。

白いハイネックの毛編みを着ており、袖口には何度も洗われて毛玉になった箇所が見える。その上から淡い灰色のスカートとエプロンを重ねていた。エプロンの布は新しくなく、端のところどころに細かな繕い目がある。短く密なその縫い目は、自分の手で直したものだとすぐわかった。


彼女は出てくるなり、まだ腰の後ろでエプロンの紐を締め直していた。顔を上げて二人を見たのは一瞬だけだ。礼儀として人数と相手の立場を確かめたにすぎず、すぐにまた視線を落とす。


「チャリク」


彼女はついでのように幕の向こうへ声を投げた。


「私、上に行ってくる。奥の卓、お願いね」


幕の内側から、もう半身だけ別の影が覗く。淡い茶色の髪をした、どこか酒の匂いをまとった男だった。手をひらひら振る。


「わかった、見とくよ。もたもたするなよ。上のあたり、前から扉のかかりが甘いんだ」


娘は頷き、その言葉をきちんと覚え込んだように小さく目を伏せると、改めて二人に向き直り、わずかに身をかがめて一礼した。


「お二人様、どうぞこちらへ」


顔を上げた横顔に、炉の火がひと刷毛だけ差す。

その瞬間、彼女の顔立ちにはまだ若さ特有の丸みが残っているのが見えた。田舎娘の幼さがまだ完全には抜けきっていない。鼻筋は高くなく、肌には冬風にさらされた赤みと乾きがある。だが目はきれいだった。黒と白がはっきりしていて、濁っていない。

彼女は、できるかぎり自分を整えている種類の人間に見えた。衣服が古くても洗っておく。夜勤でも髪はきちんと結ぶ。少しでも「だらしなく見える自分」を減らそうとしている者の整い方だった。


「なかなか可愛いじゃないか」


ブランデの後ろにいた男が、ここでようやく気だるげに口を開いた。火に手をかざしながら、薪が乾いているかどうかをついでに評するような、そんな声だった。

調子は軽薄ではない。むしろ、こういう値踏みをするのが習慣になっている者の声音だ。上に立つ人間が、下にいる人間に対して片手間に下す「悪くない」という確認。その程度の意味しかなかった。


「恐れ入ります」


娘は低く答えた。


その返しは自然で、礼まで含んでいた。男に「受け入れられた」と思わせる程度には、よく出来ている。だが、それで彼女が本当に嬉しいわけではないことも見て取れた。

美しいと言われても、彼女の反応は薄い。ほとんど機械的と言っていい。


できるなら、彼女はむしろこう言われたかっただろう。

――今日はエプロンの結び目がきれいだ。

――襟元に皺がない。

そういう言葉なら、自分の努力が見られたことになる。顔ではなく。


娘は二人を先導して階段へ向かう。

木の階段はかなり古く、踏むたびに大きくはないがはっきりとした軋みを上げた。その音は、二階と三階の静けさの中でよく響き、まるで小さな虫が古木をかじっているようだった。


二階へ上がる頃には、熱気は急速に薄れる。炉は一階にしかない。上へ行くほど空気は冷たくなり、壁の隙間から入り込む風が骨の間へ差し込むように感じられる。三階はさらに冷えていて、風に直接頬を打たれないだけで、ほとんど外へ戻ったような寒さだった。


娘は先頭を歩きながら、肩を少し内へすぼめていた。それは自分を守っているようでもあり、また自分の体そのものをできるだけ小さくして、この二人の邪魔にならないようにしているようでもあった。

歩みは速いが、慌ててはいない。夜の階段を客を連れて上がることに、もう慣れているのだろう。


「灯りはすぐ消さないようにしないと」


独り言のように呟きながら、腰の小さな火打ちへ手をやる。三階の廊下口で立ち止まり、まず重たい防火扉を押し開け、それから身を乗り出すようにして廊下の油灯へ火を移した。


灯りがつくと、三階の狭い廊下は一目で端まで見通せるようになった。壁は古い板張りで、板の隙間には長年の汚れが沈み、何度も指で押された油の痕のような暗い色が残っている。

廊下の突き当たりには三つの扉があり、そのうち一つの戸枠には、煤で黒くなった小さな銅板が打ちつけてあった。それが「個室」の印だった。


「三階のお部屋はこちらです。どうぞ」


彼女は扉へ手をかける。

扉はぎいと鳴って開き、籠もっていた熱気を外へ漏らした。


部屋は広くない。だが「大事な客をもてなす部屋」をなんとか真似ようとしているのが見て取れた。卓は厚い一枚板を削った古い木卓で、角は長い年月に磨かれて艶を帯びている。上には杯と酒壺、それに小皿の塩漬け肉。椅子は四つあるが、同じ揃いなのは二脚だけだった。壁際には戸棚があり、扉は半ば開いていて、予備の毛布や粗布の寝具が入っているのが見える。

なかでも目につくのは奥の寝台だった。きちんと整えられておらず、掛け布は斜めにずれ、ついさっきまで誰かが腰かけるか横になるかしていたような皺が残っている。


娘が最初にしたのは、席を勧めることではなかった。

彼女はまっすぐ寝台へ向かい、身をかがめて布団を引きのばし、皺を伸ばし、枕を軽く叩いて、いかにも「今しがた整えたばかりです」という形へと直した。

「さっき誰かが使っていた」痕跡を、「今しがた整えました」という体裁へ塗り替えるための作業だった。

その一連の動きはひどく丁寧で、ほとんど慎重すぎるほどだった。彼女にとって、それがこの部屋、この空間の中でかろうじて守れる唯一の体面なのだとでもいうように。


「どうぞお掛けくださいませ。すぐにお酒をお持ちします」


そう言ってようやく体を起こし、扉の脇まで下がる。背を向けず、横向きのまま引くのは、給仕としての警戒であり礼儀でもあった。二人が腰を下ろしたのを見届けてから、彼女は軽く頭を下げ、部屋を出ていった。


扉が閉まる。

廊下にはさっきまでと同じ、風の滲んだ寒さが戻ってくる。彼女は空の盆を抱えたまま、扉の前で半秒ほど立ち止まった。次に何をすべきか、心の中で順番を整えているような間だった。それから踵を返して階段へ向かう。


下りる足音は、上がる時よりずっと軽かった。

同じ階のほかの扉の向こうにいる者たち――家へ帰れない者たち、あるいは帰りたくない者たち――を起こさぬようにでもするように。


背後、三階のその扉の内側からは、また低く抑えた男たちの話し声と、酒が注がれる液体のなじみ深い音が、ゆっくり聞こえ始めていた。


扉は彼女の後ろで閉まり、その音は小さかったが、この広くもない三階に一本の線を引いたようでもあった。

廊下に残るのは油灯の火が細く燃える気配だけで、その光が壁に残る古い擦り傷や引っかき傷を、少しずつ舐めるように照らし出していた。まるで古い暮らしの爪痕みたいに。


部屋の中では、二つの影が卓を挟んで腰を下ろした。

卓の隅に置かれた油灯の橙色の光が、彼らの顔の陰影をいっそう濃くし、杯の中の酒をまるで温めた蜜のように見せている。


ブランデは手袋を脱ぎ、口元に息を吹きかけてから掌をこすり、それから卓上の酒壺に手を伸ばした。そうした所作には、「ここは自分のために整えられて当然だ」というような落ち着きがある。平民が暖をありがたがる仕草ではなく、温度ですら他人に整えさせる立場の人間が、空間そのものに所有権を示すような動きだ。

この酒が本来自分たちのために用意されたものかどうかすら問わず、彼は二つの杯へ当然のように酒を注いだ。


向かいの男は、すぐには杯を取らなかった。

背を椅子に預け、体を後ろへ流し、火のそばで手足を投げ出す獣のようにだらりとしている。帽子と外套は苛立たしげに隣の椅子へ投げられ、留め具は中途半端に外され、半ば開いた襟元からは、貧民の擦り切れた粗布ではなく、起毛の裏地が覗いていた。

その手は手入れされている。爪の縁にひびはなく滑らかで、ただ指先だけが外気にさらされて赤くなっていた。


兵には見えない。

実務を担う官にも見えない。

署名し、命じ、怒鳴り、女を抱くだけで、ひとかたまりの土地を動かしてしまえる種類の男――そんな印象だった。


ブランデは杯を取り、ひと口含んでから、いかにも機嫌をうかがう笑顔を浮かべた。


「ルリー様。やはりここの強い酒が一番お口に合いますな。上城の店は見た目ばかり整えて、中身はどこも薄い。あれでは甘い汁と変わりません」


ルリー様と呼ばれた男は、ようやく杯を手に取った。

だがすぐには飲まず、まず指先で杯の縁をなぞる。欠けがないか、器の口当たりを確かめるような仕草だった。伏せた目には灯りの影が落ち、酔っているというより、ただ機嫌が悪いように見えた。


「上城の話はするな」


ルリーは低く言った。


「上城にはどこにでも目がある。夫人の差し向けた連中、妻の実家が置いた連中、王都から『従者』の顔をして下ってきた連中……あれが本当に世話役だと思うか? あれは俺の息づかいまで見張るための連中だ」


そう言って杯をあおる。喉仏が上下し、夜の寒気ごと飲み下したようだった。


「また奥方様が騒ぎを?」


ブランデがすかさず話を継ぐ。


「ふん」


ルリーは鼻で笑った。だが笑いは目に届かない。


「マリッサめ……あれが騒がない日などあるか。自分が俺の何だと思っている。妻? あれはただ政略結婚という名札にすぎん。カムク家の夫人として俺に嫁いだのも、実家が俺の領地に手を差し込むためだ」


自分の姓でもある「カムク」を、彼はわざと少し重く発音した。


「それが今じゃどうだ。俺が誰を連れ帰るかまで口を出す。どの酒場へ入ったかまで人を使って探らせる。酒ひとつ飲むにも、自分の人間の目の前で飲めだと。まるで俺の帳簿でも改めるつもりか。何様のつもりだ? 俺を飼い犬か何かだと思っているのか?」


ブランデは慌てて首を振る。


「とんでもない。旦那様こそこの地の主でございます。ここは旦那様の領地。奥方様など、所詮は……」


「所詮は女、か?」


ルリーは目を細めた。


「言葉には気をつけろ。女ではある。だがその背後に誰がいる? 姉は誰だ? いまどこに座っている? 王子妃という座は、飾っておくためにあるわけではない。王のそばだ。王族の縁者だ。王家の者どもと、俺のような地方貴族とでは、何が違うか、おまえにわかるか?」


ブランデはすぐに笑みを消し、よくわかっていない者特有の恭しげな顔になった。


「は、はい。出過ぎたことを申しました」


ルリーは、今度こそ少しだけ本当に笑った。

だがそれはどこかひどく汚れていて、くたびれていた。


「考えてもみろ。皆、俺があれを娶ったと言う。だが首枷をかけられたのがどちらだったのか、案外わかったものではない。あれは王子妃の姉を後ろ盾にして、俺が“女を屋敷に連れ込んで遊ぶな”と言う。カムク家の名に傷がつくから、だと。笑わせる。俺こそカムク家の人間だ。俺が俺の名を汚して、何が悪い」


そこまで言う頃には、その目に薄い獰猛さが宿っていた。

それは妻個人に対するものではない。

「自分が制限されている」という事実そのものに向けられた苛立ちだった。


彼は手の甲で卓を軽く叩く。

杯が「ごと」と鳴り、表面の酒に細かな波紋が広がった。


「しかもおかしいのはな」


彼はさらに続ける。急に別のことを思い出したように。


「“あなたがそんな恥を晒せば、二王子殿下との関係にまで差し障る”ときた。聞いたか? 二王子だ。あれの姉はいま、二王子のそばで立場を固めている。すると俺という“夫”まで、あの女が政治的な体面を維持するための部品の一つになるわけだ」


マリッサの声音を真似ているのは明らかだった。女の尖りやきつさを誇張したその口調は、彼の口を通ることで、露骨な嘲弄と嫌悪へ変わっていた。


「だから今夜は気晴らしが必要だった、と」


ブランデがすかさず言う。


「そうでもしなければ、奥方様が屋敷の中でひと悶着起こしますからな」


「勘違いするな」


ルリーは杯を半回転させながら、鋭い目をブランデへ向けた。


「俺はあれが狂うのを恐れているわけじゃない。うんざりしているんだ。まるで“おまえを躾けてやっている”とでも言いたげな顔にな。何様だ? 母親気取りか?」


そこまで言って、彼はゆっくり息を吐いた。

その吐息には酒と煙と、それから長く怒りを押し込めていた人間だけが持つ微かな震えが混じっていた。


彼はもう一杯を一気にあおる。

ブランデもそれに合わせて飲んだ。こちらはもっと急だった。上の人間の堕落に「お供します」と言わんばかりの飲み方だ。何杯か重ねるうちに、顔には不自然な赤みが差し、目にも浮ついた興奮が宿り始める。


「結局のところ」


ブランデは声を落とし、内密の話でもするように身を寄せた。


「奥方様も、オミシスト家も、二王子も――皆、旦那様の名と領地の上で旨いものを食っているにすぎません。旦那様の領地、旦那様の税、旦那様の人脈。奥方様が自分で稼いだものなど一つもない。旦那様がその気になれば、明日からだってあの方を困らせることはできます。それに、屋敷へ連れ込むのが駄目なら、今夜は帰らなければいいだけのことでしょう」


ルリーは笑った。今度は少しばかり本気の愉快さが滲んでいる。


「その口の軽さがあるから、俺はおまえを連れ歩くんだ」


「へへ……」


ブランデは品のないげっぷをひとつ漏らし、自分でも笑った。


「それに、そもそも王だって盤石とは限りません。近年の増税は、さすがに露骨すぎます。あの“新居城”を建てるだの何だの――表向きは“国威のため”“辺境の守りのため”と立派なことを言いますが、誰だって知っている。自分がもっと立派な城に住みたいだけだ。金が欲しいなら、そう言えばいい。なにも『国家』なんぞを看板にせずとも」


「声が大きい」


ルリーは扉のほうへ一度目をやった。だが口元の笑みは消えない。


「言いたいことはわかる。だが忘れるなよ。俺たちがこうしていられるのも、誰のおかげか」


「もちろん、旦那様のおかげです」


ブランデは即座に、さっきまでの陰口などなかったような綺麗な追従へ戻った。


「我々が頼る相手は、旦那様ただお一人です」


ルリーは満足げに頷いた。


二人はさらに飲み続けた。

酒壺は少しずつ空になり、灯りは卓の上で揺れ、壁の影を震わせる。外の雪はまだやんでいないらしく、ときおり窓の隙間を風が押し込む音が、爪で硝子をなぞるように聞こえた。


「もう一本持ってこい」


ルリーが言う。


「はい、旦那様」


ブランデは卓の端に手を伸ばし、小さな鈴を取った。


それは銅でできた呼び鈴だった。本来なら一階の帳場あたりに置かれ、給仕を呼ぶためのものだろう。今はそれが直接この卓の上に置かれている。階下へ降りる必要もなく、大声を張る必要もなく、ただ鳴らせば人が来る。

それ自体がひとつの特権の証のようだった。


――ちりん。


その音が鳴ると、すぐ廊下の向こうで細かな足音がした。

しばらくして、扉がそっと細く開く。


来たのは、彼女だった。

先ほどの若い娘――エリーサである。


片腕に盆を抱え、もう片方の手で扉を押さえながら、まず室内の様子を視界の端で確かめ、それから体を横向きのまま滑り込ませる。

彼女には、はっきりした「癖」があった。常に入口の、ごく最小限の場所だけを占めること。相手から近づいてよいと示されるまでは、決して不用意に部屋の深いところへ踏み込まないこと。

これは臆病なのではない。身を守る術だ。

近づきすぎれば掴まれる。離れすぎれば礼がないと叱られる。

その境目を、彼女はひどく上手に歩いていた。


「先ほどのご注文どおり、もう一壺お持ちしました」


彼女は言った。


「今年焼きの強いお酒です。まだ刺すようにきついので、あまり急いでお飲みになると喉にきます」


話すあいだ、彼女の視線はルリーの顔を正面から見ない。

見ているのは杯の位置、卓の空き、盆をどこへ置けば酒をこぼさずに済むか、肉皿をどこへ寄せれば卓の酒染みに触れないか――そういう点ばかりだった。

彼女は必死に「清潔な給仕」であろうとしていた。

「からかってよい女」ではなく。


「置け」


ブランデが言う。


彼女は盆を卓に置き、空の壺を下げ、新しい酒を二つの杯へ満たした。

注ぐ手の指先はわずかに赤くなっている。一階の炉の熱と、三階の冷たい廊下とを行き来したせいだ。


「ほかに何かご入用はございますか」


彼女が尋ねる。


「名前は何という」


突然、ルリーが口を開いた。


娘の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。

無視するわけにもいかず、彼女は素直に答えた。


「……エリーサ、と申します」


「いくつだ」


彼はさらに聞く。まるで台帳を確かめるような調子だった。


「見たところ、まだ若いな」


「来年の四月で、二十になります」


「家は? どうしてここで働いている」


彼女はやはり答える。


「田舎から、仕事を探して街へ来ました。家には……体の弱い母と、学校に通っている弟がおります。お金が必要で」


「お金が必要で」と言うとき、その声音は驚くほど平らだった。

恨みも、媚びもない。

ただ事実を並べているだけだ。

自分はなぜここにいるのか。どこまで耐えるのか。どこが弱みなのか。

そういうものを、自分で卓の上に出して、検分に任せるような話し方だった。


ルリーはそれ以上問わなかった。


「下がれ」


代わりにブランデが言った。主の意を代わりに告げる従者のように。


「はい」


娘は小さく礼をして身を引き、また扉へ向かって下がる。

動きは相変わらず正確だった。男たちに背を近づけすぎず、最短でこの部屋を出ていける角度を取る。


扉を閉める。


錠がまだ噛み合いきらぬうちに、ブランデはわずかに興奮をにじませながら身を乗り出した。


「旦那様、今の娘ですが――」


ルリーはすぐには答えなかった。

閉じた扉を見つめたまま、指先で卓を一度だけ軽く叩く。


その音はほとんど聞こえないほど小さかった。

だが、この部屋の中では一本の釘を打ち込んだようにも思えた。


「下へ行け」


彼は言う。

声音は、火の中から出てきたばかりの鉄のように低かった。


「さきの娘を用意」


ブランデは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに意味を悟る。

その顔に、酒気と、「ようやく話がいつもの形に収まった」という安堵が混じった笑みが浮かんだ。


「承知しました」


彼は立ち上がる。少しよろめき、椅子の背に手をついて体を立て直し、それでも何事もなかったように襟元を整えると、扉を押して外へ出ていった。


扉がふたたび閉まる。

銅の取っ手が灯りをひやりと反した。


部屋に残るのはルリーひとり。

彼はすぐにはまた酒に手を伸ばさず、椅子の背にもたれてゆっくりと呼吸した。

まるで幕が上がる前に、役者がひとつ心を調えるように。


その頃、階下でも別のことが進み始めていた。


ブランデの足音は、木の階段をぎしぎし鳴らしながら下へ伝わる。聞かせつけるような足音だった。

一階まで降りると、酒場の熱気がまた頬を打ち、顔の赤みをさらに濃くする。彼はまっすぐ帳場へ向かった。自分の家のような気安さで。


帳場では女将がちょうど帳面をつけていた。

中年に差しかかる女で、エプロンの裾は油と汁で深く染まり、髪は無造作に後ろでまとめられている。額にはいく筋かの後れ毛が張りつき、目尻には細い皺があった。笑い皺というより、長年の寝不足と油煙に焼かれてひび割れたような皺だった。


「ほらよ」


ブランデは回りくどいことを言わず、小さな金袋をそのまま帳場へ放った。

袋は台の上で鈍く鳴った。


女将の指が止まる。

彼女はとっさに帳面を手で覆い隠し、目を上げて男を見る。次に袋を見る。

その一瞬、瞳がきゅっと引き締まったのがわかった。だが口元だけはすぐに、心得顔の笑みへ戻る。


「今夜は、どの子をご所望で?」


声を落として問う。


「うちもご承知の通り、娘は多くありませんし、それぞれ手の空き具合もございますので」


奥の厨房、その紙のれんの向こうで、誰かの影が揺れた。

若い男が半身だけ覗かせ、何か言いかけて、すんでのところで飲み込む。


ブランデは顎を少し上げ、料理でも注文するような気軽さで言った。


「さっき上に行ったやつだ。酒を運んだ娘。」


女将の目に、はっきり見て取れる躊躇いがよぎった。

それは「かわいそうだ」という種類の迷いではない。

この取り引きは面倒か、危ないか、見合うか――そういう計算だった。

この先何が起こるかも、誰の前で分からないふりをしてはいけないかも、彼女はよく知っている。

ただ、断るほうが受けるより高くつくかどうかを、頭の中で一瞬で弾いているだけだった。


「……あの子は」


女将はさらに声を落とした。


「来てまだ五か月なんです。本格的にそういうお客様を取ったことはまだなくて。今はまだ、配膳と片付けと部屋の支度だけで……ちゃんと座につくのは、まだ――」


「本当に?」


ブランデは笑った。嘲りに近い。


「この場で物を言うのは、誰の決まりだ?」


声を荒げる必要はなかった。

低いままでも、押し潰せる重みがある。

それと同時に、彼は手をもうひと押しした。金袋が帳場のさらに奥へ、半寸だけ滑る。革と金属が触れ合って、低く重い音を立てた。


その音は、どんな言葉よりも直接的だった。


女将はひとつ息を呑み、喉まで出かかった何かを飲み込むようにしてから、さらに愛想のいい声音へ切り替えた。


「……承知しました。承知しました、ブランデ様。すぐに手配いたします」


「それから」


ブランデは何か思い出したように付け足す。


「部屋はあいつと同じところじゃなくていい。別の部屋を使わせろ。俺も休まなきゃならん」


言い方は軽かったが、それは事実上の宣告だった。

ひとつの部屋はルリーに。もうひとつは自分に。

つまり今夜、その娘は単独でルリーのもとへ残される。


女将はわずかに頭を下げながら、すでに指先で金袋を自分の側へ引き寄せていた。


「かしこまりました。伯爵様のお楽しみを、誰も邪魔などいたしません」


わざと「伯爵様」という四文字を、はっきり聞こえるように言う。


伯爵。

つまり、ルリーという男は、単なる金持ちの客でも、この街で幅を利かせる有力者でもない。

ひとつの領地を持ち、兵を動かし、税を取り、人の生死と行き先を左右できる本物の領主なのだ。


脇にいた若い男――厨房のチャリクは、「伯爵」という言葉を耳にした途端、顔色を変えた。

一度は呆けたように固まり、次の瞬間には針で刺されたように眉を寄せ、唇を真一文字に結ぶ。


「女将……」


たまりかねたように、声を潜めて言う。


「本当に……やるんですか」


女将は彼のほうを見もしなかった。


「仕事しな」


短く、それだけで口を塞いだ。


言い終える頃には、彼女はもう金袋をエプロンの内側の隠し袋へ収めている。その手つきは驚くほど淀みがない。

受け取る。確認する。整える。実行する。

まるでこれらすべてが商売の流れの一部でしかないかのような手際だった。

彼女に良心がないわけではない。

ただ、彼女の立場で良心が銀貨になることはない。

銀貨なら、少なくとも明日も店の扉を開けていられる。


チャリクは何か言おうとして、結局言わなかった。

一歩退いて壁際へ寄り、見えない道を開けるように身を避ける。あるいは、自分がこの取り引きの中へ巻き込まれないよう、ぎりぎりで身を引いたのかもしれない。

彼はポケットの煙草を探る仕草をしたが、そこでようやく、さっきので最後だったことを思い出す。手は空のまま、拳になった。


三階では、あの扉の向こうにまだ灯りが点いていた。


その時点では、エリーサはまだ今のやり取りをすべて聞いてはいなかった。

彼女は一階の厨房の隅で、さっき使った盆を木桶に入れ、こぼれた酒の染みを布で拭っていた。布の上を手が行き来するたび、手の甲はかすかに震える。寒さのせいではない。認めたくもない緊張が、まだ骨の内側から抜けていなかった。


彼女は聞いていた。

外の低い話し声も、金袋が帳場へ当たる鈍い音も。

その意味も、そこで何が決まるのかも、わかっていた。


こういう夜に。

こういう客が来て。

こういう金袋が置かれたら。

何が起こるのか。


それでも彼女は顔を上げなかった。

ただ盆を拭き終え、ひとつ息を吐いて呼吸を落ち着ける。そして、いつも通りに髪を後ろへ撫でつけ、結び直し、エプロンの紐をきつく締め直す。

もう一度、自分を「きちんとした給仕」の姿へ整え直す。


まるで兵士が戦場へ出る前に、鎧の留め具を指先で確かめるみたいに。


そうしているからといって、身なりを整えれば安全だと本気で信じているわけではない。

ただ、それ以外にできることがもう残っていなかっただけだ。


まだ顔を上げる前に、女将がそばへ来ていた。


「エリーサ」


呼び方はひどくやわらかい。

怯えた小動物でもなだめるような、そういう声だった。


「もう一度、三階へ新しい酒を持っていっておくれ。急がなくていいから。転ばないようにね」


エリーサは「はい」とだけ答えた。


だが女将はさらに続ける。

口ぶりは何気ない。けれどその実、あることを決定済みにするための言葉だった。


「伯爵様もだいぶお召しになって、もうお疲れだろうから。少しお世話してさしあげて。お体を冷やさないように。……わかるね?」


「……伯爵様?」


エリーサはその言葉を繰り返した。

「伯爵」の部分だけ、声がかすかに震えた。


「そうだよ」


女将は頷き、彼女の肩に手を置いた。

それは慰める手つきにも見えたし、逃がさぬよう押さえる手つきにも見えた。


「怖がらなくていい。伯爵様が何か仰ったら、その通りにしなさい。機嫌よくお帰りいただければ、きっと褒美もくださる。家でお金がいるんだろう? この前も、お母さんに厚い掛け布を買ってやりたいって言ってたじゃないか」


その瞬間、エリーサの顔色がはっきり変わった。

青ざめたのではない。

もっと急で、もっと深く、自分の柔らかいところを突かれた人間特有の狼狽だった。


口を開きかける。

「嫌です」と。

「それは私の仕事じゃありません」と。

たぶん、そう言いたかった。


だが、言葉は出なかった。


この街に、彼女には身寄りがない。

この店でも、彼女はただの雑用係、皿を運ぶ娘でしかない。帳場に立つ資格すらない。

賃金は月ではなく日ごとに支払われる。

つまり、「言うことを聞かない」は、そのまま「明日から来なくていい」を意味する。

その理屈を、彼女は街へ来て最初の一週間で覚えた。


しかも女将は、母のことを言った。

掛け布のことを言った。

金のことを言った。


舌が、何かに押さえつけられたように動かなかった。


「言うことを聞いておきなさい」


女将はさらに肩を軽く叩く。


「私も女だ。あんたをわざと酷い目に遭わせたいわけじゃないよ。だけど伯爵様のご意向には逆らえない。あんたはただ……お気を悪くさせないようにしなさい。いいね?」


エリーサの喉が、急にひどく乾いた。

頷くことしかできない。


彼女は新しい酒壺を抱え上げる。

重くはない。けれどその手は妙にしっかりしていた。少しでも震えたら、その場ですべてが崩れ落ちるとでも思っているように。


そして歩き出す。

階段へ向かって。


向かう先は、三階だった。


彼女は知っている。

三階の廊下の、外側に近いあの扉は、時々内側から閂が落とされないことを。


彼女は知っている。

そこへ着けば、一階のような暖かな光ではなく、部屋の隅からじわじわと染み出すような、名のつけようのない冷たさがあることを。冬の夜に古い木が発する湿りのような冷気が。


それを知っていても、彼女は上がっていく。


木の階段が、一段ごとに細長い軋みを上げる。

無人の廊下では、その音がひどくよく響く。まるで建物全体が、彼女の足によって少しずつ鳴らされていくみたいに。


彼女は振り返らなかった。


片腕に酒壺を抱き、もう片方の手で、こっそりとエプロンの裾の端を握る。

それは、暗い路地を渡る子どもが掴む最後の糸のようだった。


彼女はなおも階段を上る。


扉の隙間から吹き込む風が、冬の夜の匂いを運んでくる。

そして、拒むことのできない何かが、少しずつ近づいてくる気配も。


最後の数段へ足をかけた頃には、壺に触れていた指先は冷えきって、やや痺れ始めていた。


彼女は知っている。

どうして自分が、ここにいるのかを。

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