序章
はじめまして、黒いミルクです。
本作『この世界の去りゆく者』は、架空のファンタジー世界を舞台に、
呼吸し、考え、選びながら生きる人々の物語です。
愛や権力、そして死と向き合いながら、それぞれの運命を歩んでいく群像劇になります。
この物語の世界は、子どもの頃に授業中や夢中になって世界を描いていた頃から生まれたものです。
最初はドラゴンや城、王子や姫が活躍するような物語でしたが、
書いていくうちに、もっと人間の感情や現実に近い物語になりました。
まだ拙い部分も多いですが、AIの力も借りながら少しずつ整えていきます。
ゆっくり更新していく予定ですので、よろしければお付き合いください。
冬の日差しは、かすかで、それでいて澄みきっていた。
庭に新しく植えられた紫星花の木を透かして、まだ風化していない石碑の上に、まだらな光と影が落ちている。
碑面には、石工の鑿跡が細く残っていた。陽光はその上で淡い白い輝きを散らし、土の匂いはいまだ新しい。花木の根元には、厚く積もった落ち葉と湿った苔が重なり、空気には、湿り気を含んだ冷たさと、かすかな甘い香りが漂っていた。
碑には、新しく刻まれた文字が並んでいる。
『ここに眠る 賢き妻にして慈しき母 エリーサ・カムクの墓』
『神暦三〇二八年――三〇六三年』
文字は深く刻まれていたが、まだ完全には乾ききっていない墨の色が、なおも石の肌理へとゆっくり染みこんでいくように見えた。
ひと陣の風が吹き抜け、まだ花をつけぬ枝葉がかすかに震える。
庭には音らしい音ひとつなく、ただ揺れる枝の影だけが墓碑に触れ、ほとんど聞き取れないほどの、さらさらという微かな音を立てていた。
墓前には、二人の姿があった。
年かさの男は、深い黒の外套をまとい、銀の髪をきっちりと後ろで束ねている。肩章の紋様は冬の陽に照らされて鈍い金色を帯び、その顔には厳しさ以外のものがなかった。長く命じ、長く耐えてきた者だけが刻むことのできる硬い線が、眉間に深く残っている。
この地の領主――カムク伯爵である。
その傍らに立つ少年は、伯爵より頭ひとつぶん低かった。身につけているのは整ってはいるがどこか古びた黒の礼服で、年の頃はまだ十六、七ほど。風が吹くたび、金褐色の髪がかすかに揺れ、その下から淡い色の目がのぞく。
だがその目は伯爵を見てはいなかった。少年はただひたすら、墓碑だけを見つめていた。その表情は、感情を失ったように静まり返っている。
二人はそこに立ったまま、まるで冬の冷たい光に凍りつかされたようだった。
どちらも口を開かない。
それが悲しみによる沈黙なのか、それとも理性がすべてを冷やし尽くしたあとの静けさなのか、判然とはしなかった。
少し離れたところには、従者服を着た男が跪いていた。年は三十をいくらか越えたほどだろうか。顔色は悪く、手には羊皮紙の巻物を抱えている。涙ですでに視界は滲みきっていたが、それでも堪えようとして、なお嗚咽を漏らしていた。
「旦那様……お持ちした、この『オミシスト氏の罪状に関する論述』ですが……いかがいたしましょうか……」
男の声は、冬の風の中でかすかに震えていた。
伯爵の視線は、なおも墓碑から動かなかった。
そこに刻まれた名を見ているのか、それとも石の向こうに去ってしまった歳月を見ているのか、それは誰にも分からない。
長い沈黙ののち、伯爵はようやく口を開いた。
「この墓の前で、それを焼け」
従者は一瞬、言葉を失った。
「ですが……それは王都審問庁の正式な副本で……」
「焼け」
声音は静かだった。だが、疑う余地はなかった。
従者は黙り込み、震える指で懐から火打ち具を取り出した。何度か打っても火花はうまく散らず、それでもほとんど力を使い果たした頃、ようやく小さな火が頼りなく灯った。
火の光が墓碑を照らし、冷たい灰色の石肌に、わずかな橙色のぬくもりが宿る。
羊皮紙は火を受けて燃え上がり、黒い煙を立ちのぼらせた。墨の文字は瞬く間に灰へと変わり、風に散っていった。
少年はそれでも何も言わなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げる。
ちょうどそのとき、陽光が彼の横顔を照らし、淡い金の色をにじませた。
その目には涙はない。
けれどそこには、言葉にならない荒涼だけがあった。
何かを問いたげで、それでも問わなかった。――おそらく、答えをすでに知っていたからだ。
風が、少し強くなった。
火が消えたあと、灰は四方へ吹き散らされる。何枚かの枯れ葉が彼の足元をかすめ、宙に舞った。それは、音もなく捧げられる短い挽歌のようだった。
舞い上がる葉を見つめながら、少年の胸に、ふとひとつの錯覚がよぎる。
風に巻かれているのは、葉ではない。
母が自ら植えた花の花びらなのだと。
あの木は春になると咲いた。
星のような花冠を開き、紫の光をたたえて。
母はその木の下で笑いながら、彼の幼い名を呼んでくれた。
けれどその笑い声はいまや、冷たい土の底深くへ埋められてしまったかのようだった。
「母上……」
かすかな声だった。けれど伯爵の耳には届いた。
伯爵はほんのわずかに動きを止めた。だが、目は向けなかった。
「雪が解け、春が来れば」
伯爵は言った。
「ここにはまた紫星花を植えよう。あの人は、きっとこの花が好きだった」
「……はい」
少年の返事は、ほとんど聞き取れないほど低かった。
さらに冷たい風が吹き抜ける。
紫星花の木の枝はかすかに震え、まだ咲かぬ若芽たちは、あっけなく揺さぶられた。
そのとき少年は、ふと気づいてしまう。
この木は、母が生きていた頃の木ではない。
あのときそこにあった木は、もう思い出の中にしか残っていない。
いま目の前にあるのは、伯爵が遠方から移し植えさせた、ただの代わりにすぎなかった。
その事実に気づいた瞬間、少年の胸を、空白のような寒さが走った。
「父上」
ついに、少年は口を開いた。その声音には、ためらいと慎重さが滲んでいた。
伯爵は振り向き、少年を一瞥する。
その目は静かで、深く、しかし何を思っているのかはついに読み取れない。
少年は目を伏せた。
黒い手袋をはめた指先が、ぎゅっと強く握りしめられる。その表面には、火薬の煤にでも触れたような黒ずみが、わずかに残っていた。
けれど彼は、それ以上何も問わなかった。
やがて、鐘の音が響いた。
それはシエン村の聖堂にある、年老いた時鐘の音だった。重く、長く、冬の空気を震わせる。
伯爵は背を向けた。
風にあおられた外套が、黒い弧を描く。
「行くぞ」
少年は一瞬ためらい、それから最後にもう一度だけ深く墓碑を見つめ、伯爵の後に続いて歩き出した。
二人の背は、冬の日差しの中で長く引き伸ばされ、やがて庭の影と溶け合っていった。
風がやみ、灰は地に落ち着く。
焼け残った羊皮紙の切れ端が、地面にひとかけらだけ残っていた。その上には、半分だけ焼け残った文字が、かろうじて読めた。
――「オミ……」
そして枝先には、ひとつの蕾が、寒風の中でかすかに揺れていた。
まるで、決して訪れぬ春を待ち続けているかのように。




