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第9話 来訪者


 福井の田舎のどかな空気は、その一台の車によって、まるで幻だったかのようにかき消された。

 旅館の前の砂利道に、音もなく滑り込んできた黒塗りの高級車。その漆黒のボディは、周囲ののどかな田園風景を歪めて映し込み、まるで異世界からの侵略者のように、静かな威圧感を放っていた。

 ドアが開き、最初に地面を踏んだのは、寸分の狂いもなく磨き上げられたハイヒール。続いて現れたのは、上質なスーツを戦闘服のように着こなした、秘書風の理知的な女性だった。彼女の背後から、まるで影が分離したかのように、体格のいい二人の男が護衛として控える。彼らの動きには一切の無駄がなく、その視線は常に周囲をスキャンする、完全なプロのそれだった。


 俺と小町ちゃんが完全に気圧されていると、その女性は、完璧なビジネススマイルを浮かべて歩み寄ってきた。


「ギルド『ブリザード』、渉外担当の氷室と申します。本日は、友好的なご挨拶と、相互理解のための予備調査に参りました」


 言葉は限りなく丁寧だが、その目は笑っていない。まるで鷹が獲物を品定めするかのような、鋭い光を宿していた。


「オーナーの奥谷俊様と、お話をさせていただきたいのですが」


 氷室が、真っ直ぐに俺を見据える。

 俺が「あ、えっと……」としどろもどろになっていると、一歩前に出た郁美さんが、まるで盾になるかのように俺たちの前に立った。


「私が奥谷様の代理人兼、こちらのダンジョンの専属アドバイザーです。生天目と申します。ご用件はまず私が伺いましょう、氷室様」


 その毅然とした態度に、氷室の眉が微かに動いた。

 こうして、旅館の未来を賭けた、最初の交渉の火蓋が切って落とされた。


 

 


 居間の光景は、あまりにもシュールだった。

 祖父の代から使っている、傷だらけのちゃぶ台。それを、東京の一等地に本社を構えるであろう大手ギルドの幹部と、俺たちが囲んでいる。部屋の隅には、二人の護衛が彫像のように直立し、静かな圧力を放ち続けていた。


 氷室さんは、おもむろにタブレットを取り出すと、その滑らかな画面をこちらに向けた。


「まず、我々が貴殿の動画をいかに高く評価しているか、ご説明させていただきます」


 画面には、昨日のPV動画をコマ送りで分析した、詳細なデータが表示されていた。


「我々の分析によれば、このスライムはS級相当の個体。そして、奥谷様の潜在能力も、測定不能なほどの可能性を秘めています。これは、我々『ブリザード』が、最大限の敬意を払うべき案件であると判断いたしました」


 彼女はそう言うと、次のページをスワイプし、破格の「協力提案」を提示した。


「つきましては、我がギルドより、三つのご提案がございます。一つ、こちらのダンジョンの独占的な共同管理権。もちろん、利益はギルドと奥谷様で折半とさせていただきます。二つ、奥谷様個人に対する、契約金5億、年俸3億円での専属契約。そして三つ、ギルドによる、この旅館及び関係者の皆様全員の、最高レベルでの身辺警護。いかがでしょうか?」


 提示される金額の大きさに、俺の頭は完全に麻痺していた。ご、ごおく……? さんおく……?

 自分の人生が、自分の知らない単位で取引されようとしている。その事実に、目眩すら覚えた。隣に座る小町ちゃんが、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえる。


 その重い沈黙を破ったのは、郁美さんだった。

 彼女は、小町ちゃんが入れてくれたお茶を一口すすると、ことり、と静かに湯呑を置いた。


「素晴らしいご提案ですね。ですが、いくつか確認させていただきたい点が」


 郁美さんの声は、どこまでも冷静だった。


「『独占的』というお言葉ですが、これは実質的に、他のギルドや研究機関との交流を全て断つ、という意味でよろしいのでしょうか? この未知のダンジョンが持つ学術的価値を考えれば、それはあまりにも大きな機会損失ですね」

「……あくまで、優先的な交渉権とお考えいただければ」

「では、奥谷様へのご契約内容ですが」


 郁美さんは、氷室さんの言葉を遮って続ける。


「年俸3億というのは、彼の現在の『未知数な強さ』に対してですか? それとも、このダンジョンが生み出すであろう、将来的な全ての価値を含めての金額でしょうか? もし後者であるならば、貴ギルドはこの宝の山を、あまりにも安く買い叩こうとしている、と解釈せざるを得ません」

「……」


 氷室さんの完璧な笑顔が、初めて微かに揺らいだ。

 静かだが、火花が散るような言葉の応酬。俺と小町ちゃんは、その高度な駆け引きを、ただ息をのんで見守ることしかできなかった。

 交渉は平行線をたどる。郁美さんが「一度持ち帰って検討してくれ」と話を打ち切ろうとした、その時だった。

 氷室さんは、ふっと息を漏らすと、何かを試すような、楽しそうな笑みを浮かべた。


「口先だけでは、お互いの価値は分かりませんわね。……奥谷様、少しだけ、貴方の『実力』というものを、拝見させていただけませんこと?」

「え……?」

「ご安心ください。ほんの少し、遊んでいただくだけです」


 氷室さんが合図をすると、護衛の一人がおもむろにスーツの上着を脱ぎ、庭へと歩き出した。その身体は、服の上からでもわかるほどの筋肉の鎧で覆われている。


「彼は、B級上位の実力を持つ探索者です。彼を相手に、その剣を一度、振るっていただければ結構ですので」


 それは、事実上の実技試験の要求だった。

 人を相手に、力を試す……? 冗談じゃない。俺はそんなことのために、この力を手に入れたわけじゃ……。

 いや、そもそも、手に入れたいと願ったわけですらない。

 俺が戸惑っていると、隣の小町ちゃんが、俺の服の袖をぎゅっと握った。その震える手。不安そうな瞳。

 そうだ。ここで引けば、俺たちの未来は、この人たちの言いなりになってしまう。

 この旅館も、小町ちゃんも、母さんも、そしてこの規格外の力を持ってしまった俺自身も。

 守るためには、戦わなければならない時がある。

 東京では、俺はただ逃げた。だが、今は違う。

 この旅館は、俺が守るんだ。

 そのためにも、ここできちんと俺の価値を、力を示す。

 

 俺は、静かに立ち上がった。


「……わかりました。少しだけですよ」


 俺は庭に出て、鋼のつるぎを抜き放つ。

 夕陽が、鈍色の刃に反射して、きらりと光った。

 目の前では、護衛の男が、まるで獣のように低い姿勢で構えている。

 これから行われるのは、ただの「試験」か、それとも……。

 世界の常識を覆す、最初の戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。


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