第44話 イクぽん
聖域・奥谷旅館のグランドオープンから、一ヶ月が過ぎた。
俺たちの日常は、驚くほど順調に、そして、どこか奇妙な形で、軌道に乗っていた。
その日、俺たちは、次なる「探索者プラン」の抽選当選者を、玄関で待っていた。
「次に来る人、どんな人やろね、お兄ちゃん」
「さあな。だが、うちの旅館を選んでくれたんだ。最高のおもてなしをするだけだ」
そんな会話を小町ちゃんとしていると、一台の、真っ赤な外国製のスポーツカーが、静かだが、圧倒的な存在感を放ちながら、旅館の前に滑り込んできた。
その車から降り立った人物を見て、俺は、思わず息をのんだ。
陽の光を浴びて輝く、美しい黒髪。計算され尽くした、スタイリッシュな戦闘服。そして、どんなトップモデルすら霞ませるほどの、完璧な美貌とスタイル。
彼女が、ただ者ではないことは、一目で分かった。
「……うそ」
隣で、小町ちゃんが、小声で悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん、あの人……ソロ最強って言われてる、超有名なダンチューバーの、AYAYAだよ! 本物だ……!」
その名前に、ロビーの隅で様子を見ていた氷室さんと椿さんの間にも、緊張が走る。
しかし、ダンジョンや探索者の世界に疎い俺だけは、その状況が分からず、「有名人なのか?」と、きょとんとしていた。
彼女――文埜 殺は、そんな俺たちの様子を一瞥すると、プロフェッショナルな顔で、真っ直ぐに俺に歩み寄ってきた。
「あなたが、ここのオーナーね。今回の滞在中、よろしく頼むわ」
その、一切の隙がない佇まい。彼女が、ただの有名人ではない、本物の実力者であることが、ひしひしと伝わってくる。
その時だった。
AYAYAの視線が、受付業務を終え、こっそりとその場から去ろうとしていた、郁美さんの姿を捉えた。
AYAYAの、常に冷静沈着な仮面が、驚愕によって、音を立てて砕け散った。
「ああ!!!!」
彼女は、信じられないという顔で、郁美さんを指さした。
「い、イクぽんじゃない! なんで、なんであなたがこんなところにいるの!?」
「イクぽん!?」
その場にいた全員が、AYAYAのその言葉に、首をかしげる。
当の郁美さんは、「くそ……バレたか……」と、顔面蒼白で、忌々しげに呟いていた。
「だから、イクぽんって誰なんだよ!」
俺がそう叫ぶと、椿さんと氷室さんが、まるで失われた歴史のピースを見つけたかのように、興奮気味に解説を始めた。
「イクぽん……。まさか、生天目さんが、あの伝説の……」
椿さんが、信じられないという顔で、郁美さんを見つめる。
「彼女は、十代の頃から、ソロ最強のカリスマダンチューバーとして、この業界に君臨した、絶対王者です。その後、ある日を境に急に表舞台から消えて、一切の消息を絶ってしまっていた、謎の人物です……」
「ええ」
氷室さんが、その言葉を引き継いだ。
「ですが、彼女の恐ろしさは、それだけではありません。若くして、ダンジョン学の天才研究者としても、ギルドや大学にその名を轟かせていました。……ただ、当時の彼女は、常にフリルのついた、漆黒のゴスロリのドレスを身に纏っていたはず。今の、この白衣の姿とは、イメージが真逆です……。不覚にも、私も今の今まで気づきませんでした……」
自分の、黒歴史を、次々と暴露され、郁美さんの顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ああもう……! 昔のことはどうだっていいだろ、放っておいてくれ!」
しかし、AYAYAは、そんな郁美の悲鳴など、お構いなしだった。
「どうでもよくないわ!」
彼女は、今度は、郁美さんに詰め寄る。その瞳は、炎のように、熱い情熱に燃えていた。
「やっと見つけたのよ、イクぽん。あなたを、ずうっと探してたんだから! 私と、ソロ最強の座をかけて、勝負しなさい!」
話によれば、当時、AYAYAは、常にイクぽんの背中を追いかける、永遠のナンバー2と言われていたらしい。彼女にとって、郁美さんは、いつか必ず超えるべき目標であり、憧れの存在だったのだ。
しかし、ある日突然、その目標は、表舞台から、一切の消息を絶った。
それ以来、AYAYAは、ずっと彼女を探していたのだ。
「断る……!」
郁美さんは、苦虫を噛み潰したような顔で、叫んだ。
「私はもうダンチューバーも、探索者もやめたんだ……! 今は研究に没頭している。それに、この旅館のアドバイザーの仕事も忙しいんだ。私のことは、もう、放っておいてくれ!」
そう言うと、郁美さんは、AYAYAから逃げるように、バタバタと自室へと駆け込んでしまった。
残されたAYAYAは、その背中を、悔しそうに、しかし、どこか嬉しそうに見つめていた。
そして、彼女は、呆然としている俺に向かって、不敵な笑みを浮かべ、宣言した。
「私、あきらめないんだから。この旅館の滞在中に、なにがなんでも郁美と決着をつけてやる……!」
俺は、ただ、天を仰いで、深いため息をつくしかなかった。
ただでさえ、ワケありの美女たちが集うこの旅館に、また一人、とんでもなく面倒な嵐を呼ぶ女性が、加わってしまった。
聖域の平穏は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。




