第36話 東京
東京へ旅立つ日の朝。俺は、玄関で、なんだかんだと心配して見送りに来てくれた小町ちゃんと郁美さんに向かって、苦笑いを浮かべていた。
その手には、椿さんから「義務です」と、有無を言わさず渡された、変装用のセット――どう見ても、ただの帽子と眼鏡とマスクが握られている。
「変装!? そんな大げさなもの、いるのか?」
「当たり前です」
椿さんは、一切の感情を排した声で言い放った。
「今のあなたは、ハリウッドスターよりも注目されている最重要人物なのですから。我々は、あなたの顔と、その平穏を、無用な混乱から守る義務があります」
もはや、俺の平穏など、どこにもないような気がするが。
俺は、ため息と共に、その「有名人セット」を身につけた。
新幹線の中は、奇妙な静寂に包まれていた。
窓の外を流れていく、見慣れた田園風景が、次第に都会のビル群へと変わっていく。その景色を眺めながら、俺の心は、落ち着かないままだった。
隣に座る椿さんと氷室さんは、それぞれ黙々と、手元の端末で仕事をしている。その二人の間に挟まれた俺だけが、まるで遠足前の小学生のように、そわそわしていた。
そして、東京駅。
ホームに降り立った、その瞬間だった。
俺たちを、凄まじい光の洪水が襲った。おびただしい数のカメラのフラッシュだ。どこから情報を嗅ぎつけたのか、大勢のマスコミが、完全に俺たちを包囲していた。
「奥谷さん! 総理との会談は事実ですか!?」
「聖域のダンジョンについて、一言お願いします!」
怒号のような質問の嵐に、俺はたじろぐ。
その時、椿さんが、すっと俺の前に立った。彼女は、マイクを突き出す記者たちを、まるでゴミでも見るかのような、絶対零度の視線で一瞥する。
「彼は現在、政府がその身柄を保護している重要人物です。取材は、全て官邸を通して、正式な手続きを踏んでください。これ以上の妨害行為は、公務執行妨害と見なします」
凛とした、しかし有無を言わさぬその声に、熱狂していたマスコミが一瞬、ひるむ。
椿さんは、その隙に「こっちです」と、俺の腕を強く引き、人混みをかき分け、俺の知らない駅の特別出口へと向かった。
そこには、一台の、やけに車体が長い、黒塗りの高級車が、エンジンをかけたまま停まっていた。
◇
ブリザードの日本本部があるという、近未来的な超高層ビルで氷室さんを降ろした後、俺と椿さんは、総理官邸へと招かれた。
その、テレビでしか見たことのない、あまりにも重々しい雰囲気に、俺は緊張で生きた心地がしない。
現れた蜷川総理は、意外にも温和な雰囲気の人物だった。しかし、その目の奥には、この国のトップとしての、鋭い光が宿っている。
彼は、俺の手を固く握り、何度も感謝の言葉を述べた。
「君はこの国を背負っている! 君のような若者がいるから、日本の未来は明るい!」
褒めちぎられながらも、俺は、その言葉の端々に込められた、「その力を、国のために使う覚悟はあるかね?」という、無言のプレッシャーを感じずにはいられなかった。
「はぁ……緊張した……」
官邸から解放され、ぐったりと車のシートに沈み込む俺に、椿さんが、こともなげに言った。
「いえ。おそらく、総理のほうが、あなたに緊張されていたと思いますよ」
「はぁ!? 嘘だろ」
「あなたは、もはや人類の最終兵器です。そんなあなたの機嫌を損ねれば、日本の国防に関わる。総理も、細心の注意を払っていたはずです」
「いやいや……どこぞの筋肉バキバキの父親じゃないんだから……。そんな、俺個人で核兵器並みの圧力ないって……」
「いえ。おそらくあなたは、核兵器よりも何倍もの脅威と、そして抑止力になりえるはずですよ」
そう断言され、俺は「えぇ……」と、ただただ困惑するしかなかった。
◇
ブリザード本部で氷室さんを拾い、三人は、政府が用意したという都内の超高級ホテルへと向かった。
通されたのは、東京の夜景が一望できる、最上階のスイートルーム。その、あまりの豪華さに俺が呆然としていると、ホテルの支配人が、深々と頭を下げた。
「大変申し訳ございません。システムの手違いで、お部屋が、こちらの一部屋しか確保できておりませんでした……」
「はぁ!? 一部屋!?」
俺がパニックに陥る。
しかし、氷室さんと椿さんは、全く動じなかった。
「まあ、いいでしょう」「構いません。ここで結構です」
二人は、当然のように、部屋に入ると荷解きを始めてしまった。
「い、いいの!?」
慌てる俺に、氷室さんが、悪戯っぽく微笑む。
「私たちに手を出すような勇気、あなたにはないでしょう? もしあるのなら、福井のあの家で、すでになんらかの行動をしているはずですし……。もともと同じ家に住んでいるのです。今更でしょう」
「まあ、そうだけど……」
なんだか、男として、ぐうの音も出ないほどへこむ。
結局、その、めちゃくちゃ広い部屋で、三人での奇妙な宿泊が決定した。
俺は、リビングの巨大なソファで寝ることに。
しかし、そのソファは、実家の、何十年も使っている俺のベッドよりも、遥かにふかふかで、気持ちがよかった。
俺は、なんだかとても複雑な気分で、きらめく東京の夜景を、ただ、眺めるのだった。




