第34話 ついにオープン!
その日の朝の空気は、これまでとは明らかに違っていた。
新しく張り替えられた畳の、清々しいい草の香り。厨房から漂う、出汁の芳醇な匂い。そして、これから始まる新しい一日への、期待と、心地よい緊張感。
帳場に集まった、俺と、住み込みの仲間たち、そして、今日から本格的に業務を開始する五人の新しいスタッフ。その全員の顔が、どこか高揚しているように見えた。
「――では、本日のブリーフィングを始める」
ホワイトボードの前に立った郁美さんが、まるで司令官のように、きっぱりとした声で言った。
「本日は、記念すべきグランドオープン第一日目。抽選で選ばれた、一般プランの米田様ご夫妻、そして探索者プランのパーティ『暁の翼』様、計二組が来訪される。我々の任務は、二組のお客様に、最高のおもてなしを提供しつつ、聖域の安全と秩序を維持することだ」
彼女の指示のもと、役割分担が確認されていく。
一般客対応は、小町ちゃんと、彼女の友人である新人JKトリオ、朔ちゃん、雫ちゃん、篠ちゃん。探索者対応は、郁美さんと、彼女の友人である元研究者の大人組、埜乃さんと紗耶香さん。そして俺は、全体の責任者として、両方のお客様に心を配る。
「みんな、笑顔でがんばろうね! えいえいおー!」
小町ちゃんが拳を突き上げると、JKたちが元気よく「おー!」と続く。その、あまりにも平和な光景に、俺は思わず笑みをこぼした。
◇
予約時間通りに、一台のセダンが旅館の前に到着した。
抽選で選ばれた幸運な一組目、若いご夫婦が、緊張と興奮が入り混じった顔で降りてくる。
「ようこそ、奥谷旅館へ!」
小町ちゃんたちの、完璧な笑顔と元気な挨拶が、ご夫婦の緊張を優しく解きほぐしていく。
生まれ変わった館内を案内されるたび、お二人は感嘆の声を上げた。
「うわあ、ネットの動画で見た通り、すごく素敵な旅館……!」
「本当に、あの場所に、私たちが来ちゃったんだ……」
庭でぷるぷるしているニジを見つけると、奥さんが「あ! 看板息子のニジちゃんだ! 可愛い〜!」と、嬉しそうにスマホのカメラを向けている。
その、どこにでもある、平和な観光地の光景。それこそが、俺が取り戻したかった日常だった。
その直後。もう一台、今度は、いかにも頑丈そうな四輪駆動車がやってきた。
探索者プランの一組目、パーティ『暁の翼』の到着だ。リーダーの屈強な剣士、俊敏そうな斥候の女性、知的な魔道士の男性。彼らの瞳は、観光客とは違い、鋭い期待と緊張感を宿していた。
今度は、郁美さんと大人組が、カウンターで対応する。
「『暁の翼』リーダー、ゴンドウ様ですね。探索者ライセンスのご提示をお願いします」
郁美さんが、タブレット端末でライセンスを照合し、分厚い誓約書を差し出す。その、まるで秘密の研究所の入館手続きのような、厳格なプロセス。しかし、彼らはそれに臆することなく、慣れた手つきでサインをしていく。この厳重さこそが、このダンジョンの価値を物語っていると、理解しているのだろう。
ロビーで、二組の客がすれ違う。
ご夫婦は、「わあ、本物の探索者さんだ……」と、目を輝かせている。
探索者パーティは、そんな平和な観光客がいることに、少し驚いた顔をしながらも、軽く会釈を返した。
一つの旅館の中で、日常と非日常が、初めて穏やかに交差した瞬間だった。
◇
その日の午後。
一般客のご夫婦は、新しくなった檜風呂の温泉に浸かり、美しい庭を眺めながら、日頃の疲れを癒していた。「最高ね、ここ……。本当に、天国みたい」。
一方、探索者パーティ『暁の翼』の三人は、万全の準備を整え、ダンジョンへと突入していた。第一階層に足を踏み入れた瞬間、彼らは、そのあまりにも濃密な魔力と、モンスターの一体一体が持つ、報告以上の強さに、「……すごい。これは、本物だ」と、武者震いを隠せない。
厨房では、小町と新人たちが、二組のために、それぞれ違う献立の夕食を、楽しそうに準備している。
そして帳場では、郁美さんが、探索者パーティのバイタルや、ダンジョン内の魔力反応を、リアルタイムでモニターしていた。
誰もが、自分の役割を、完璧にこなしていた。
◇
夜。俺は一人、縁側から、その旅館の様子を眺めていた。
客室からは、楽しそうなご夫婦の話し声が聞こえる。帳場のモニターには、無事に探索を終え、興奮気味に戦利品を整理する探索者たちの姿が映っている。厨房からは、明日の朝食の準備をする、スタッフたちの明るい声が聞こえる。
その光景の全てが、俺にとって、何物にも代えがたい宝物のように感じられた。
危険なダンジョンと、穏やかな旅館。
非日常を求める探索者と、日常の癒しを求める観光客。
その、本来交わるはずのなかった二つの世界が、今、この場所で、確かに共存している。
ふと、小町ちゃんが、温かいお茶を持って、俺の隣に座った。
「お兄ちゃん、お疲れ様。順調やね」
「ああ……」
俺は、心からの、本当に久しぶりの、穏やかな笑顔で頷いた。
「……最高の一日だ」
聖域・奥谷旅館の、本当の意味でのグランドオープンは、大成功のうちに、その最初の夜を迎えるのだった。
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