第25話 政府の役人
ケルベローズが撃退された翌朝、奥谷旅館は、これまでとは質の違う、静かな戦場と化していた。
旅館の周囲は、赤色灯を回すパトカー、政府関係者のものと思われる黒塗りのセダン、そしておびただしい数の報道ヘリとメディアの中継車によって、完全に包囲されていた。テレビの画面の向こう側だったはずの光景が、今、俺たちの日常を侵食している。
「こ、こんなことになって……」
「俺のせいで、町の人たちにまで迷惑が……」
窓からその光景を眺め、青ざめる小町ちゃんと、唇を噛む俺。
そんな俺たちに、郁美さんは冷静に告げた。
「ここからが本番だ。昨日の戦闘は、ただの物理的な脅威の排除に過ぎん。今日始まるのは、情報と、権利をめぐる、本当の戦いだ」
その言葉を証明するかのように、旅館の玄関が、静かに、しかし威圧的に叩かれた。
そこに立っていたのは、二人の男女だった。
一人は、怜悧な眼鏡の奥から、こちらを値踏みするかのような高圧的な視線を送る、いかにもエリート然とした男性役人。
もう一人は、寸分の隙もなく着こなしたスーツに身を包んだ、美しい女性役人。しかし、その美貌は、まるで精巧な能面のように一切の感情を読み取らせず、氷のように冷徹な空気を纏っていた。
彼らは、内閣府に新設された「ダンジョン危機管理室」の者だと名乗った。
居間に通された二人は、そこにブリザードの白石たちがいることにも一切動じることなく、まっすぐに俺を見据えた。
「私はダンジョン危機管理室の納谷というものです。奥谷 俊さん。単刀直入に申し上げます」
高圧的な男性役人が、まるで尋問でも始めるかのように、切り出した。
「今回の、非合法ギルド『ケルベローズ』の国内侵入、及び、それに伴う戦闘行為は、国家の安全保障を揺るがす重大インシデントです。したがって、政府は、その原因となったこのS級ダンジョン、及び隣接する奥谷旅館を、国家の管理下に置くことを決定しました。もちろん、土地の所有者である貴殿には、相応の立ち退き料を支払う用意があります」
その、有無を言わさぬ、あまりにも一方的な決定。
誰もが、ブリザードの白石さんか、アドバイザーの郁美さんが口を開くと思っていた。
しかし、最初に言葉を発したのは、俺だった。
「……お断りします」
俺は、静かに、しかし、決して折れない強い意志を込めて、彼らの目を見返した。
「この旅館は、ただの土地や建物じゃありません。死んだじいちゃんが、人生をかけて守ってきた場所で、俺の母さんが、必死にその魂を繋いできた、俺たち家族の、宝物なんです。だから、この場所は、たとえ国が相手だろうと、誰にも渡すわけにはいかないんです」
俺の、あまりにも純粋で、しかし揺るぎない拒絶に、男性役人は苛立ちを露わにした。
「君、自分が何を言っているのか、分かっているのかね!? 立ち退き料は国家予算にも匹敵するほどの額だぞ!? それをいらないと!? それに、これは国家の安全保障にも深くかかわる事象なんだぞ!? 実質的に君に拒否権はないものと思え!」
彼が声を荒らげた、その時だった。
今まで黙って全てを観察していた、氷の能面のような女性役人が、静かに、しかし有無を言わさぬ力で、その男性役人を制した。
「納谷さん。ここは私が……。……奥谷俊さん。あなたの覚悟は、よく分かりました」
彼女は、その氷のような瞳で俺を見据え、新たな「取引」を持ち掛けてきた。
「良いでしょう。では、こうしませんか。あなたの、その覚悟を尊重し、政府はこの『聖域』の独立管理を、特例として正式に認めます。その代わり、二つ、条件があります」
「条件……?」
「一つ。この町に、国の『ダンジョン管理研究施設』を建設することに同意していただきます。もちろん、町の安全確保と活性化にも繋がり、あなた方にとっても悪い話ではないはずです」
「……」
「そして、二つ目」
彼女は、一拍置いて、告げた。
「私自身が、政府からの連絡調整及び、この聖域の監視役として、この旅館に、常駐します」
「は……?」
その、あまりにも突飛な提案に、俺だけでなく、その場にいた全員が言葉を失った。
政府の役人が、この旅館に、住み込みで……?
「それが、あなた方の独立を認める、最低限の条件です」
小町ちゃんが、あからさまに嫌な顔をしているのが分かる。
だが、俺は、旅館の独立を守れるという、その一点において、この取引を呑む以外の選択肢はないと、直感的に理解していた。
俺は、覚悟を決めた。
「……わかりました。その条件、お受けします」
俺の答えに、女性役人は、初めてその能面に、かすかな、本当に微かなだけの、満足の色を浮かべた気がした。
こうして、俺は、自らの言葉と覚悟で、国という巨大な相手から、この「聖域」の独立を勝ち取ったのだ。
役人たちが、目的を達し、帰ろうと玄関に向かう。
その去り際に、女性役人は、ふと振り返り、初めて、その名を告げた。
「私の名前は、椿茨棘と申します。明日から、お世話になります」
嵐が去った旅館。しかし、そこには新たな火種――椿茨棘という、謎多き監視役が、明日から加わることになった。
小町ちゃんが、俺の袖をくいと引き、不安げに呟く。
「お兄ちゃん……ほんまに明日からあの人と、一緒に暮らすん……?」
俺たちの、奇妙で、波乱に満ちた新しい日常が、今、始まろうとしていた。




