またお兄様がろくでもない男を連れてきた
私——ベルファーナ・ディアブは、この世で最も不幸な存在だと確信している。
なぜなら、毎朝目を覚ますたびに、また一日を生きなければならないことに気づかされるからだ。
起床という行為そのものが、私にとっては人生最大の苦痛である。寝台から体を起こし、足を床につけ、身支度を整えて一日を開始するなど、考えただけでも疲労困憊してしまう。
そんな私が、今朝はいつもより深刻な事態に見舞われていた。
「ベルファーナ、もうこんな時間なのにまだ寝ているのか」
下の兄——ナタスお兄様の声だった。
ああ、なんということだろう!
今度は下の兄の登場である!
これはもう完全に、今日という日が呪われてしまった!
私は毛布の中で深いため息をついた。
扉が開かれ、足音が近づいてくる。
年頃の娘の寝室に無遠慮に踏み込んでくるとは、なんとデリカシーのない兄であろうか。
父上が早くにお亡くなりになった後、上の兄のルシアンお兄様を支える立派な方だとは思うけれど、こういうところは本当に配慮が足りない。
「お兄様、私を起こさないでください」
毛布の中から、私はできるだけ弱々しい声で訴えた。
「今日はもう、とても起き上がれるような日ではないのです」
「どうせまたくだらないことだろうけれど、何があった」
くだらないとは失礼な……
私の日常における深刻な問題を、そんな軽々しい言葉で片付けるなど言語道断である。
そもそも、兄のデリカシーの方がよほどくだらないレベルではないだろうか。
とはいえ、兄の性格は昔から変わらない。私がどれほど深刻に悩んでいても、結局は適当にあしらわれるのが常だった。
「朝、侍女がカーテンを開けた瞬間に差し込む光の角度が不快だったのです」
私は事情を説明した。
「光が私の瞼を刺すような角度で侵入し、まるで私に『起きろ』と命令しているかのようでした。もう、今日はとてもいい日になるとは思いません。だから、一日寝て過ごすのです……」
ナタスお兄様はため息をついた。
長く、深いため息だった。
きっと、私の深刻な状況を理解してくれたに違いない。
「そんなかわいそうな妹に、素敵な縁談を持ってきてやったのだ。元気を出せ」
……縁談。
私は毛布の中で目を回した。ナタスお兄様はどうしてこう、私が最も聞きたくない話題を、最も聞きたくないタイミングで持ち込んでくるのだろうか。
そもそも、私は公爵家の長女として生を受けた、正真正銘のお姫様。
我がディアブ公爵家が持つ莫大な財産を背景に、私は生涯にわたって働く必要がない。それどころか、なんなら小指ひとつ動かす必要すらないのだ。
そんな何もしなくても生きていけるという奇跡的な状況にありながら、ちゃんとこうして呼吸をし、心臓を動かしているという事実。これだけでも、もはや偉業と言っても過言ではないはずだ。
誰か私を褒めてほしい。
そんな私を褒めてもくれず、ナタスお兄様は私に政略結婚の話を何度も持ち込んで来る。その度に私は、
「彼の顎の線は、我が家の雰囲気と調和がとれませんわ」
「彼の思想は深みが欠けているようですから、蕁麻疹が出てしまいますわ」
「彼の歩き方を見ていると、なんだか頭痛がしてきますの」
などと適当なことを言い続けてきた。
不思議なことに、そうしているうちに、いつの間にか先方から話が立ち消えになっていく。
貴族としての義務を放棄しているかのような私の態度に、王侯貴族の中では「天上人」と揶揄されているらしい。
でも、私からすると周りの人間の方がおかしい。
なぜ彼らは平然と生きていけるのか?
ただ生存のために魂をすり減らすなど、到底耐えられない。
そして、兄達のように領地経営や騎士団采配に明け暮れるなど、なぜそんな人生において無駄と思われる、しかも体力を使うようなことができるのか?
耐えられない。私にはとても耐えられない……。
だから、兄たちが懸命に働いてくれている分、私が代わりに盛大にだらだらして過ごす。
それがきっと、この家の最適なバランスというものなのだろう。
そう考えているというのに、ナタスお兄様はいつも私の安寧を乱しに来るのだ。
「次はどんな暑苦しくむさ苦しい男が相手なのですか?」
私は毛布の中から、できるだけうんざりした声で尋ねた。
「若くして辺境伯となったヴィオラン様との縁談だ。顔合わせはいつがいい?」
ヴィオラン。
聞いたことのない名前だった。きっと、またナタスお兄様が適当に見つけてきた男に違いない。
「その辺境伯とやらに会いたいと思うときはないので、いつでもダメですね」
「適当に決めておくぞ」
兄のため息交じりの声が聞こえた。
「じゃあ今日は、不快な起き方をするし、兄に不快な話をされるしで、今にも倒れそうなのでもう寝ますね」
「さっきからずっとベッドに倒れているだろう……」
兄の呆れた声が響く。
「まったく、これだけ非協力的な態度なのになぜか縁談を断ることだけはしないのだからな……」
その言葉は、私の耳には届かなかった。いや、届いてはいたけれど、返事をするだけの体力を消耗したくなかった、というのが正しい。
こうして私が唯一やるべきだと考えている義務――下の兄が見繕ってきた男の品定めをするためのお見合い――の日程が、また一つ決まったのであった。
◇
お見合いの日。
その日はやはり、最悪な一日としてスタートした。
まず、起床時刻が通常より二時間も早められたのだ。
二時間も早く起きるということは、私の一日から二時間分の安寧が剥奪されたということだ。
これはもう、人権侵害に等しいのではないだろうか。
侍女たちが「お嬢様、本日は身支度のお時間がございますので」などと、もっともらしい言い訳をしながら、まるで拷問のように私を寝台から引きずり出そうとする。
「……まだ夜は明けておりませんわ」
「いいえお嬢様、とっくに日は昇っております」
ああ、なんと無慈悲な返答だろう。
私は絶望に打ちひしがれながら、侍女たちのなすがままに体を起こされる。
もっとも、一度起きてしまったからには、やるべきことがある。
それは、自らの容姿を丹念に整えることだ。
寝ているとき以外の私は、完璧に着飾られていなければならない。これは、私の人生における数少ない、すべきことの一つである。
ドレスの布地が持つ繊細な色合いから、肌に乗せる香水の一滴に至るまで、すべてが私の哲学に適うものでなければならないのだ。
そうでなければ、鏡に映る自分を見た瞬間に絶望し、とても立っていることなどできなくなってしまうから。
数時間後。
ようやく完璧な姿に仕上がった私は、上の兄であるルシアンお兄様と、下の兄であるナタスお兄様に挟まれるようにして、客間へと向かった。
今日の相手、ヴィオラン辺境伯を出迎えるためである。
やがて、扉が開かれて一人の男が入ってくる。
……ああ。
私は心の中で深いため息をついた。
予想通り、暑苦しくてエネルギーの塊のような男だった。
がっしりとした体躯に、日に焼けた肌。自信に満ち溢れたその瞳は、ぎらぎらと輝いている。
なぜ、このような方が私とお見合いをしようなどと思ったのだろうか。どう見ても、野山を駆け回っている方がお似合いだというのに。
聞けば彼は、国境地帯の紛争を平定した武功により、若くして辺境伯の地位を得たのだという。まさに今が旬の、カリスマ溢れる軍人という触れ込みだった。
そして、「効率化」と「改革」を信条としているらしい。
「これはご丁寧に。ディアブ公爵家の皆様には、日頃より騎士団の運営にご尽力いただき感謝申し上げる」
声まで大きい。
魂が削られるような思いで、私は当たり障りのない笑みを顔に貼り付けた。
案の定、話が始まると、ヴィオラン様は兄たち、特に騎士団の采配を担うナタスお兄様と大いに盛り上がり始めた。
その時の武勇伝を実に誇らしげに語り、いかにして無駄をなくし、効率的に敵を打ち破ったかを熱弁している。
さらには、王都の騎士団が抱える問題点を指摘し、その近代化に向けた改革案まで披露し始めた。
兄たちは感心したように彼の話に聞き入っている。
しかし、私には到底理解できなかった。
効率化などと言いながら、こんなにも無駄に張り切って、身振り手振りを交えながら大声で話すなど、エネルギーの最も非効率な使い方ではないだろうか。
そんなに改革がお好きなら、まずはご自身のその有り余るエネルギーをどうにかしていただきたいものだ。
私はただ静かにソファに腰かけ、一刻も早くこの時間が終わることだけを願っていた。
しばらくして、穏やかな性格のルシアンお兄様が話を振った。
「ヴィオラン様は、何かご趣味はおありなのですか?」
その問いに、ヴィオラン様はにやりと笑って答えた。
「趣味は狩猟ですな! 広大な森で獲物を追いかけると、血が騒ぎます!」
……狩猟。
野山を駆け回り、動物を追いかけ回し、弓矢で射止める。
そんな野蛮で体力を消耗する行為を、趣味と称して楽しむなど、私には到底理解できない。
ヴィオラン様が夫になったなら、きっと私も狩猟の獲物のように日々を追い立てられ、泣いて過ごすことになる。
耐えられない。私にはとても耐えられない……。
ヴィオラン様が満足げに帰っていった後。
ナタスお兄様が、どこか期待を込めたような目で私に尋ねてきた。
「どうだった、ベルファーナ。ヴィオラン様は気骨のある、なかなかの男だろう」
私はゆっくりと首を横に振ると、できるだけうんざりした声で答えた。
「お兄様。趣味が狩猟などと言う野蛮な方と、お近づきになりたくはありませんわ」
その言葉を聞いて、ナタスお兄様は天を仰ぎ、長くて深いため息をついた。
隣で、ルシアンお兄様が「まあ、そうなるだろうとは思っていたよ」とでも言うように、静かに苦笑いを浮かべていたのだった。
◇ ◇
あのお見合いという名の魂を削る苦行から、一夜が明けた。
もちろん、私の気分は最悪である。
昨日の今日で、生きる気力など湧いてくるはずもない。
しかし、あのヴィオランとかいう暑苦しい男の顔を思い出すたびに、言いようのない不快感が胸に広がるのも事実だった。
国境で武功をあげ、効率化だの改革だのと騒ぎ立てる男。
ああ、思い出すだけで疲労困憊してしまう……。
私はある考えを基に侍女を呼びつけると、王都で最も腕が良いと評判の公証人を屋敷に呼ぶように命じた。
もちろん、私が出向くのではない。相手がこちらに来るのだ。当然である。
数時間後。
私がようやく身支度を終えて応接室に向かうと、そこにはすでに執事と、初老の公証人が待っていた。
「それで、ご用件というのは」
公証人が尋ねる。
私はソファに深く腰掛けたまま、優雅に告げた。
「紛争での救済金窓口を、我がディアブ家の名で立ち上げようと思いますの」
私の言葉に、公証人と執事がわずかに目を見開いた。
そうだろう。まさかこの私が、民草のために奉仕活動をしようなどとは、誰も思うまい。
「つきましては、その窓口業務の一切を、こちらの公証人事務所に委託したいのです。受付は、そちらの執事と公証人殿にお任せいたしますわ」
私は、侍女が用意した委任状に、羽ペンでさらさらと署名をした。
ああ、なんてことだろう。たったこれだけのことで、腕がもげてしまいそうだ。
やはり、労働というものは私には向いていない。
そこへ、騒々しい足音と共に下の兄、ナタスお兄様が入ってきた。
「どうしたんだ、急に? 救済金窓口だと?」
まったく、どこで聞きつけてくるのか。
私はできるだけ優雅に、そして慈愛に満ちた表情を作って答えた。
「先日、ヴィオラン様から国境での紛争のお話を伺いましたからね。心を痛めたのですわ。私もたまには、か弱き国民のために奉仕活動をするのも悪くないかと思いまして」
きっと民草は、この救済金窓口を立ち上げた私を、慈悲深き聖女と崇めるに違いない。
しかし、ナタスお兄様は胡散臭いものを見るような目で、私をじろりと見た。
相変わらず失礼な兄である。
「奉仕活動というのは、人に委託するものではなくて、自ら足を運んで行うものだがな」
兄の言葉に、私は心の中で深いため息をついた。
この人は何も分かっていない。
私がわざわざ遠出して、救済金の窓口業務などという肉体労働に励んだら、どうなると思っているのだ。
過労で死んでしまうに決まっているではないか。
私が死んだら、一体誰がこのディアブ家で優雅に過ごすという役目を果たせるというのだろう。
それから、数週間が過ぎた。
私はいつも通りの日々を過ごしていたが、そんなある日の午後。
私が寝台の上でまどろんでいると、扉が勢いよく開け放たれた。
「ベルファーナ! 大変なことになったぞ!」
下の兄、ナタスお兄様だった。
まただ。
またしても、この兄は年頃の娘の寝所に無遠慮に入ってくる。
デリカシーというものを、母の胎内に忘れてきたとしか思えない。
「お兄様、静かになさってくださいまし。今、とても重要なまどろみの最中でしたのに」
私が眉をひそめて言うと、ナタスお兄様はそんなことなどお構いなしに、興奮した様子で捲し立てた。
「それどころじゃない! ヴィオラン辺境伯が、失脚した!」
……ヴィオラン。
あの暑苦しい男。
「まあ、そうですの」
私が気のない返事をすると、ナタスお兄様は私の隣にどかりと腰を下ろした。
「なんでも、昨夜、国王陛下が主催された夜会で、全てが明らかになったそうだ。彼が国境で行ったという『平定』は、実際には非人道的な侵略と搾取だったらしい」
兄の話によると、夜会の最中に、ヴィオラン辺境伯の悪行を告発する者が現れたのだという。
会場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、壇上にいた戦務卿が、その場でヴィオランへの表彰を差し止めるという、前代未聞の事態にまで発展したそうだ。
私が欠伸をかみ殺していると、ナタスお兄様はようやく私の無関心さに気づいたようだった。
彼は呆れたように、しかしどこか安堵したような複雑な表情で私を見た。
私は、ゆっくりと体を起こすと、心からの感想を口にした。
「やっぱり、狩猟が趣味だなどとおっしゃる野蛮な方は、信用なりませんわね」
私の言葉に、ナタスお兄様は言葉を失い、やがて天を仰いで長くて、深いため息をつくのだった。
今回の顛末は、兄よりも先に知っていた。
――というより、そうなるように仕向けただけだ。
◇ ◇ ◇
あのお見合いという名の苦行で、ヴィオランとかいう男と初めて顔を合わせたときから、私は彼の存在そのものが不快でならなかった。
国境の紛争を平定したという武勇伝。
それを語る彼の瞳は、ぎらぎらとした野心に満ち、まるで手柄話に酔いしれているかのようだった。
確かに、紛争を終わらせたというのは偉業なのだろう。
しかし、そこには相応の血が流れたはずだ。人の命が失われ、暮らしを奪われた現場をその目で見たのであれば、言葉の端々に慎重さが滲み出たり、わずかでも憂いの表情が浮かんだりするものではないだろうか。
だというのに、ヴィオランから語られる武勇伝は、まるで吟遊詩人が歌い上げる英雄譚のようだった。
ああ、この男はきっと、実際に起こった出来事の醜さや痛みを、何も見えていないに違いない。
彼はただ、己の武勲という名の光だけを見て、その影に広がる無数の悲劇から目を背けているのだ。
そう確信した私は、すぐに手を打つことにした。
もちろん、私が動くのではない。動くのは、私の意を汲んだ者たちである。
私が設立を命じた「紛争での救済金窓口」。
表向きは、ヴィオランの話に心を痛めた慈悲深き公爵令嬢による、か弱き民への奉仕活動。
しかし、その真の目的は別にある。
救済金を求める者たちは、当然、金銭を受け取るために被害の状況を詳細に語る。
私は公証人と執事に対し、その証言を一つ残らず記録するように命じておいたのだ。
すると、どうだろう。
出るわ出るわ、ヴィオランが語った英雄譚とは似ても似つかぬ、おぞましい現実の数々が。
彼の軍による非道な略奪。
抵抗する力のない村々からの、無用で過剰な食料の接収。
「平定」という名の、一方的な侵略と搾取の情報が、山のように集まったのだ。
それだけではない。
窓口には、彼の領地に近い民からの噂話も集まるように仕向けておいた。
曰く、ヴィオラン辺境伯は、我がディアブ家のことを「旧時代の遺物」「時流を読めぬ老害」と言って憚らないらしい。
そして、公爵家の姫――つまり、この私との縁談を足がかりに、ディアブ家の莫大な財産と、ナタスお兄様が掌握する騎士団を我が物にし、更なる支配地の拡大を目論んでいる、と。
……まあ、噂話などをそのまま鵜呑みにするほど、私も愚かではない。
しかし、元々が気に食わなかった男である。あの自信に満ち溢れた傲慢な態度を鑑みれば、いかにも彼が考えそうなことではあった。
いずれにせよ、切り捨てる理由がまた一つ増えただけのことだ。
彼のあの強引で自己中心的な性格からして、敵も多いに違いない。
特に、彼の急な台頭を快く思わない貴族も多かろう。
私は公証人に命じ、集まった証言の数々を、法的に有効な宣誓供述書として整えさせた。
そして、その分厚い冊子を、ヴィオラン辺境伯のことを日頃から快く思っていないであろう貴族――特に、戦務卿と近しい派閥の者たちへ提出させたのだ。
あとは、時が満ちるのを待つだけ。
下の兄が血相を変えて私の寝室に駆け込んできたのは、今日の昼過ぎのこと。
しかし、私がその結末を知ったのは昨夜のことだ。
夜会で全てが暴露され、ヴィオランが失脚したという第一報は、公証人が放った早馬によって夜会の喧騒が冷めやらぬうちに私の元へと届けられていた。
そのとき私は、いつものように寝台の上で侍女にブドウを食べさせてもらっていた。
「そうですか」と一言だけ返事をし、冷えた甘い果実をもう一つ口に運ぶ。
ああ、これでまた一つ、私の安寧を脅かす存在が消えた。
そう思うと、私はわずかばかり満足し、そのまま安らかな眠りについたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
そもそも、私は根っからの内向的な気質で、自らの精神世界の平穏を何よりも重視する女。
それゆえに、わずかな暇な時間を読書に費やすことも多かった。
特に好きなのは、巷で流行りの恋愛小説だ。
ああ、この物語の主人公たちのように、ドラマチックな恋をしてみたい。
「お前のことなど、決して愛することはない」と言い放つような、意地悪なイケメンに「君がいない人生など、もはや考えられない」と涙ながらに告白されたい。
「氷の王子」と噂される冷徹で知られる王子様に、二人きりのときにだけ、熱くロマンチックな愛を囁かれたい。
いや、もっと言うならば。
『君は毎日寝ていてもいいよ』
『君は生きているだけですごいね』
『何もしない君も、私は心から愛しているよ』
――と、私のことを肯定し、べろべろに甘やかしてくれるような殿方に愛されたいのだ。
そう、私は人並みに……いや、人並みかは分からないが、恋に恋する乙女なのである。
だからこそ、あんなにも魂を削られる苦行であるお見合いに、私は律儀に応じ続けているのだ。
これは、下の兄ナタスお兄様に対して、義務を果たそうとする殊勝な妹を演じることで、恩を売るという側面もある。
しかし、それ以上に、私のことを世界で一番甘やかして、『毎日生きている君は偉くて素敵だ』と心から言ってくれる理想の殿方を探すための、絶好の機会でもあるのだ。
一石二鳥とは、まさにこのこと。
だからこそ、お見合いは私が唯一やってもいい――いや、やるべきことだと考えているのである。
しかし、その考えは、いつも甘かったと思い知らされる。
「それにしても、不思議なものだな。まるで神がお前を甘やかすように、お前が嫌ったお見合い相手が婚前に没落したり、急に心変わりをしたりするのだから」
とは、下の兄の呆れ果てた言である。
違う。私が甘やかされているのではない。
お兄様の脇が、あまりにも甘いだけなのだ。
下の兄が連れてくる男というのは、決まってヴィオランのような、エネルギーの塊みたいな人間ばかり。
とてもではないが、私のことを『生きている君は素晴らしい』などと、心から思ってくれるような繊細さを持ち合わせているとは思えない。
百歩譲って、それはいいとしよう。
問題なのは、彼らのほとんどが、明らかに『あわよくば、このディアブ家を乗っ取ってやろう』という、ぎらついた野心に溢れた者たちであるという点だ。
下の兄の酒好きは、本当に困ったものである。
基本的に、酒場で肩を並べて酒を酌み交わした男のことを、すぐに「気骨のある、いいやつだ」と認定してしまうのだ。
そして、上の兄のルシアンお兄様に至っては、それを上回るほどの単純さで、人が良い。
「この世の中に、心の底から悪い人間などいないのさ」などと、本気で信じている節があるほどのお人よしなのだ。
この単純な兄二人は、悪意を持って誰かが自分たちに近づいてくるなどとは、夢にも思っていないらしい。
これもまた、領地経営や騎士団采配など、騒々しいことにばかりエネルギーを使う存在だからなのだろうか。そう思うと、少し憐れにすら感じてしまう。
幸いなことに、そんな無邪気な二人だからこそ妙な求心力があるのか、領地の経営や騎士団の運営といった事業においては、驚くほど忠誠心の高い有能な側近たちが脇を固めている。
だから、事業で悪意を持った人間が近づいてくることは、まずない。
しかし、縁談となると話は別だ。
これはディアブ家の事業とは関係のない、あくまで私的な話。側近たちも、主人のプライベートにまで口を出すことはしない。
その結果、兄に「いいやつ」と認定された男たちが、何のフィルターも通さずに、私のお見合い相手としてやってくる。
そして、そのほとんどが、我が家を食い物にしようと目論む、野心家しか来ないのだ。
だから、私は毎回、こうして策謀を画策せねばならなくなる。
相手の身辺を密かに調査させ、弱みを握り、裏で手を回して縁談を丁重に断らせたり。
あるいは、今回のように悪事を白日の下に晒し、社会的に消えてもらったりしているのだ。
まあ、説明するのも面倒なので兄達には言わないが……
本当は、お見合いという行為そのものが面倒くさくて、できることなら屋敷から一歩も出たくないというのに。
私を甘々に甘やかしてくれる素敵な殿方を探すため、そして兄たちの見る目のなさを補い、一応はお家を守るためと渋々出席すれば、やってくるのは野心に満ちた暑苦しい男ばかり。
ああ、やはりこの世は不条理に満ちている。
私の生きる活力を、どんどん奪っていくではないか。
そうやって私が寝台に突っ伏して一日を過ごそうとしていると、不意に扉が静かにノックされた。
「ベルファーナ、入ってもいいかい?」
穏やかで優しい声。上の兄、ルシアンお兄様だった。
ナタスお兄様とは違い、きちんと許可を求めてくるところは評価できる。
私が「どうぞ」と気のない返事をすると、ルシアンお兄様は心配そうな顔で入ってきた。
「今回の縁談は残念だったね。でも、ベルファーナに何事もなくて本当に良かったよ」
そう言うと、ルシアンお兄様は私のベッドのそばに腰掛け、私の髪を優しく撫でた。
「うちのことは僕とナタスが何とか切り盛りするから、ベルファーナは縁談を焦らなくていい。ゆっくり、君がいいと思う人を決めればいいんだよ」
「……」
「それに、もし誰も見つからなくても、それはそれでいいじゃないか。兄弟三人でずっと一緒にこの屋敷で暮らすのも、きっと楽しいだろうしね」
その声はひどく甘やかで、心地よかった。
私が心の奥底で求めている、『君は生きているだけで素敵だ』と言ってくれる、理想の殿方の言葉と比較すると、少しだけ弱い。
だが、上の兄がこうして私を無条件に甘やかしてくれるこの時間も、そこそこに快適ではあるのだ。
この優雅な生活を、私はそう簡単には手放せそうにない。
最低でも、この上の兄と同じくらい。
いや、それ以上に私を甘やかしてくれる男は、この世のどこかにはいないのだろうか。
私は兄の優しい手つきに身を任せながら、また一つ、深くて長いため息をつくのだった。
【ある新聞記事の一部】
ヴィオラン辺境伯による非道な行いが明らかとなった紛争に対し、ディアブ家は救済金窓口を立ち上げた。その発起人は、かの「天上人」と名高い公爵令嬢であったという。
これにより、多くの国民が救われたのは事実である。人々は彼女の慈悲深き行いを聖女の御業と崇め……ることは、ついになかった。世間はただの金持ちの道楽と捉え、畏敬ではなくある種の皮肉を込めて、この一件を『天上人の気まぐれ』と呼んだのである。
その噂を耳にした当の令嬢は、寝台の上でただ一言、「ああ、世間と言うのは、なぜこうもやるせなく、私に辛く当たるのでしょう……」と嘆いたと伝えられている。