*結・続*
ミシミシと軋んだ音を立てて、目の前の一本の木が傾いていく。
徐々に加速して地面に近付く木の隣、しっかりと二本の足で狼男は立っていた。
「大神、さん?」
無意識に、オレは彼の名前を口にした。
途端、狼男の青い目が光った。
それは――獲物を見つけた獣の目だった。
次の瞬間、大きな音を轟かせて木が完全に倒れた。
そしてそのとき、狼男の姿は“そこ”にはなかった。
狼男は“ここ”にいた。
獰猛な牙を見せつけるように大きく口を開き、オレの喉笛を噛み砕こうとしていた。
「うぉぅりゃぁぁぁ!!」
だけどそんなことを理解できたのは、オレの影からミチルが足の方から現れ、狼男の頬をオーバーヘッドキックの体勢で蹴り飛ばした後だった。
「何、ボーっとしてんの!? 死んじゃうとこだったじゃない!」
くるりと目の前に降り立つと、珍しくミチルが怒鳴った。
「……は、春休みに殺そうとしてきたヤツに言われたくねぇよ」
一応そう反論してみるが、声の震えは止められなかった。完全に気が動転していた。
――何が、起きた?
狼男の姿が、見えなかった。
気付いたときには、もう目の前にいた。
「グゥゥゥゥゥ……」
ミチルの蹴りの勢いで遠くの木まで打ち付けられていた狼男は体勢を立て直し、オレたちを鋭い眼光で睨み付けながら唸っている。
それは初めて会ったときの苦しんでいるものではなく、明らかな敵意のある威嚇の唸り声。
「……完全にノーダメージって感じだな」
目の前の敵から視線を外さず、オレはポケットから『無太刀』を取り出す。
「そうみたいだね。ボクは首をへし折るつもり満々だったんだけどなぁ」
と、オレの影は拗ねた顔で相変わらずの怖いことをさらりと言った。
「大神さん――いや、狼男」
『無太刀』を抜き、その柄の先にある、相手には見えないだろう刃を向け、
「オレはあんたを斬る」
オレは“宣言”を口にした。
途端、『言乃刃』が月明かりを浴びて地面に影を落とした。
直後、刃に一切怯むことなく狼男はまっすぐこっちに向かって駆け出した。
前へ前へと跳ねるように、一歩一歩地面を抉りながら。
――迅いっ!
だが、集中していれば見えないレベルじゃない。それに何より、動きが直線的だ。
オレは素早く『言乃刃』を峰へと持ち替える。
斬る、とは言ったが本気で斬るわけにはいかない。暴走していても、アレは生身の大神さんだ。
「はぁっ!!」
狼男が攻撃範囲内に入った瞬間、オレは『言乃刃』を薙いだ。いくら鋭い牙と爪を持っているとはいえ、届かなければ意味がない。
しかし、なんの手応えもなく『言乃刃』は虚空を斬る。
そこに、狼男の姿はなかった。
「チルチル後ろ!」
ミチルが叫ぶ。
身体を捻るように振り返ると、目の前には黒く光る爪が迫っていた。
「ミチルくんキィックッ!!」
言葉通りにミチルが放った上段の蹴りが狼男の腕を横に弾き、オレの顔面を狙った殺意は頬を掠めて通り過ぎる。
「ふっ!!」
そのまま身体の反転の勢いを利用して、オレも仕返しのように狼男の顔面を『言乃刃』で振り上げる。
しかし今度も、ビュンという風を切る音だけが響いた。
バックステップによる跳躍。そして着地。その距離、十数メートル。
そんな離れたところに、狼男はあっという間に移動していた。
「なんつー脚力だよ……」
頬を流れる血を拭って、いっそ感心するようにオレが呟き、
「まったくだよ。もし後ろ走り幅跳びがあれば、楽勝で金メダルだね」
と、ミチルが返した。
……失敗、一つ追加だ。
『現実世界の肉体がベースである以上、身体能力もそれに付随するレベル』
――なら、元々のレベルが高ければ?
大神さんの高い身体能力に強過ぎる狼の力が合わさって、そのスピードと機動力は常人の域を余裕で超えている。
だけど、当たりはしなかったが狼男は明らかに『言乃刃』を避けた。
“宣言”が――言葉が通じるかどうか心配だったが、そこは大丈夫みたいだ。
『言乃刃』は暗示の刃だ。言葉が通じなければ意味がない。だが避けたということは、狼男にも見えている――効くということだ。
「とりあえず少しずつでもダメージを――」
そう言い終える直前、狼男の真横の木が軋みながら倒れた。そしてその衝撃によって巻き上げられる土煙。
ここで初めて、オレは最初の倒木の理由が分かった。
さっきも今も、狼男が爪で幹を抉るように切り裂いたからだ。
――パワーとスピードを兼ね備えた戦闘特化型。
これは、一撃もまともに食らうわけにはいかねぇな。
気を引き締め直し、もう一度頬の血を拭う。
当たり前のように傷自体はもうないし、あまりに鋭い攻撃だったから痛みも感じない。
「来るよ、チルチル!」
ミチルの言葉を合図にしたかのように、狼男が土煙の中から飛び出した。
衝動のままに、ただ一直線に、オレたちという獲物に向かって。
と、思ったのが五つ目の失敗だった。
直後、狼男は真横に跳ねた。
オレも瞬時に目で追いかけるが、その姿を捕らえられたのは最初の一瞬だけ。乱立する木々に遮られ、狼男を完全に見失った。
……くそっ、場所が悪い。
山は狼の猟場だ。人間の領域じゃない。
その中で、かすかに狼男が駆ける音だけが聞こえる。
オレとミチルは背中合わせで目を凝らす。
どこだ? どこから来る?
たとえ異常な回復力を持っている今のオレでも、狼男の攻撃力の前ではあまりに無力だ。
簡単に、致命傷になる。
だからオレたちは瞬きもせず、周囲に集中する。
――狼男は、どこから仕掛けてくる?
ちょうどそのとき、夜の闇が一段と暗くなった。
ちらりと空を見る。雲が月を隠していた。
だから暗さに慣れるために一瞬――ほんの一瞬だけ目を閉じた。
刹那、オレは背中をミチルに押し飛ばされた。
「……っ!?」
数歩よろめいてから、慌てて振り返る。
そこには凄惨で、絶望的な光景があった。
狼男に喉笛を噛み付かれている自分と全く同じ姿のミチルが、そこにはいた。まるで数秒後の自分の姿のように。
「ゴメン。ちょっと休憩するわ」
息も絶え絶えにそう言い残し、黒い水のように崩れ落ちてオレの足元の影に戻るミチル。
対して、口にした獲物を失って標的を変える狼男。
その殺気に満ち溢れてた目が、オレを射抜く。
とっさに『言乃刃』を構える。ただし、攻撃のためにじゃなく防御のために。
次の瞬間、オレの身体は長い腕と爪に弾き飛ばされ、真後ろの木に打ち付けられた。
「――ぅっ!」
その衝撃による、肺が潰れるような鈍い痛み。口から全ての空気が漏れたが、新しい空気を吸うことができない。
続いて、腕に走る鋭い痛み。学ランの袖とともに皮膚と肉が深く裂けている。
――だけど、今はそんなことはどうでもイイ。
痛みのせいで落としまった視線を前に向ける。
すでに、オレの喉笛を狙った狼男の爪が目前に迫っていた。
「――っ!」
オレの身体が反射的な回避をする――いや、しようとした。
全身の痛みで、身体が一瞬動かない。
――間に合わねぇっ!
そして黒い凶器が――暴走する狂気が、深々と突き刺さった。
……………。
……しかし、それはオレの身体にではなかった。
狼男は自分の爪で、自分の胸を突き刺さしていた。
「……怖い、思いをさせ、て……本当、にすまなかった」
自分の爪を突き立てたまま、狼男はそう言った。
「……大神、さん?」
何が起きたのか分からないまま、オレは呟いた。
「月が陰った……おかげ、かな。なんとか、身体を取り戻せたよ」
獰猛な牙を見せながら、ニコリと笑う大神さん。
その胸の傷口からは、血を滲み出てきている。
「……何、してるんですか?」
口から自然と疑問がこぼれる。そしてやっと頭が状況を理解すると、
「――何してんだよ!!」
思わず怒鳴った。
驚きや心配でなく、真っ先に怒りが込み上げた。それが大神さんに対してか、自分自身に対してかは、分からない。
「……いいんだ。僕はこれでいいんだ」
そう言って、彼はその場に崩れた。
「これなら、僕は誰も傷付けずに済む」
地面に倒れる直前、力なく笑った。
「違う! そんなの、絶対違う!」
……そんなの、ただの自己満足だ。
「はは。泣いているのかい、薄原くん?」
「そんなことはいいから、もう喋らないで! なんで――なんでこんなことになってんだよ?」
――これじゃまるで、あの映画の結末と同じじゃないか。
くそっ、オレはまた救えないのか?
また助けられないのか?
……誰か、助けて。
誰でもいいから、誰か。
誰か、誰か、誰か……。
「早く助けに来いよ、ヴィアン!!」
天高く輝く月に、オレは狼の如く吠えた。