深海の訪問者
豪華客船「ブルーオーシャン号」でのクルーズは、絵に描いたような贅沢な日々だった。太陽が降り注ぐデッキ、美味しい食事、そして広大な大海原。主人公の遥は、都会でのストレスから解放され、心ゆくまで休暇を満喫していた。
しかし、その平穏は、ある夜、終わりを告げた。
真夜中、眠れない遥は、一人で甲板に出ていた。満天の星が瞬き、波の音が心地よい。ふと、遥は船の舷側を覗き込んだ。漆黒の海面に、かすかな光が揺らめいているのが見えた。最初は、ただの光の反射だと思った。だが、その光は、ゆっくりと形を変え、まるで人のような姿を形成していく。
それは、細長く、幽霊のように半透明で、深海の闇の中で微かに発光していた。まるで、僕を誘うかのように、水中で手招きしているように見える。遥は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
その日から、遥は奇妙な現象に悩まされるようになる。船内の乗客や乗員たちが、どこか上の空で、ぼんやりと海を見つめる時間が多くなった。彼らの目は、まるで何か遠いものに魅入られているかのように、焦点が定まらない。そして、夜になると、船内のあちこちから、かすかに水の流れるような音が聞こえてくるようになった。
遥は、自分の部屋に戻っても落ち着かなかった。窓の外の海は、いつもと変わらないように見える。しかし、その奥に、あの光る人影が潜んでいるような気がしてならなかった。
ある夜、遥は、廊下で乗客の一人が、フラフラと甲板へ向かっていくのを目撃した。その顔は、まるで夢遊病者のように無表情で、目だけが異常な光を放っていた。遥は、慌ててその後を追った。
甲板に出ると、その乗客は、まるで何かに導かれるかのように、ゆっくりと船の縁へと近づいていた。そして、その目の先には、あの光る人影が、より大きく、より鮮明に、海中から浮かび上がってきていた。その人影は、無数の触手のようなものを持ち、ゆっくりと乗客に向かって伸ばしている。
遥は、恐怖で声が出なかった。深海から来た未知の存在が、人間の魂を求めているのだ。
「やめろ!」
遥は、必死でその乗客に飛びつき、引き戻そうとした。乗客は、まるで人形のように軽かった。その瞬間、彼の体が、まるで水のように溶け出すのを見た。水が、彼の体から滴り落ち、海へと吸い込まれていく。そして、彼の顔には、苦痛と、どこか恍惚とした表情が浮かんでいた。
光る人影は、満足そうに触手を引っ込め、ゆっくりと深海の闇の中へと消えていった。遥は、その場にへたり込み、震えが止まらなかった。
それから数日後、客船は予定通り港に到着した。しかし、何人かの乗客と乗員が、行方不明になっていた。誰もが、ただの事故だと思っていた。
遥は、船を降りても、深海の恐怖から逃れることはできなかった。夜になると、耳の奥で、あの水の流れるような音が聞こえる。そして、自分の部屋の窓の外、暗闇の中に、かすかに光る影が揺らめいているように見えた。
深海の訪問者は、まだ僕を追っている。遥は、海を見るたびに、あの漆黒の闇の奥に、無数の魂を求めて蠢く存在がいることを思い出し、静かな恐怖に身を震わせるのだった。