第5話 地下と邂逅
顔に当たる水に意識が浮上する。それ合わせて全身を駆け巡る激痛の感覚が戻っていく。わずかな期間の痛みの復活は、ケイルの意識を最大にまで起こした。
「あぅがぁッ……」
言葉にならない声が出る。肺が空気を求めて大きく息を吸う。それが鋭利な刃物に突かれたかのような痛みが走る。
「ごほ、がほ、ごほ……」
大きく咳き込み身体を丸めようとするが、痛みでできず幾度かそれを繰り返す。音が辺りに反響するのが耳に入る。どうやら耳は聞こえるようだと思いながら、目を開く。真っ暗であった。光が何もなく、闇の中に囚われたが如くの暗闇で身体を動かそうにも激痛でうまくいかない。右手をわずかに動かせたから探るとそこは石の地面であることがわかった。皮膚の感覚も戻ると自分が小さな水たまり上に転がっていることを気付かされる。よく聞くと水が落ちる音がした。と同時に自分の顔に水滴が落ちてきたのも感じる。
(どこだ、ここ……。なんだ? あの魔獣は……?)
何が起きているのかわからない。自分がどうしてこんな暗闇の中に転がっているのかを理解できない。蛇魔型独王蛇と言われる貴族種の魔獣に吹き飛ばされたはずだった。その後の記憶が曖昧で思い出せない。彼女は刻紋術を放てたのか、それでどうなったのか記憶にない。
身体に走る激痛に耐えながら無理やり身体を横にしてから右手を使い身体を起こす。左腕には全くといいほど力が入らず動かせないことから折れていることがわかる。右手で辺りを探ると金属に触れる。更に伸ばして形を確かめるとそれは剣であった。撫でるように剣の形を確かめると自分の剣であることがわかった。柄を握り、激痛を我慢して膝を立てる。
「だれか……だれかいるか!」
声が暗闇の中を響く。かなり大きな空間のようが反響により分かる。しばらく耳を澄ませる。水音が響くのが聞こえた。そして、水音と一緒に寝息が聞こえた。他人の息をしている音であった。ケイルは慌ててもう一度声を出す。
「だれか! だれかいるのか!」
「……うぅ」
ケイルの声で起きたようだ。声からして女性であり、それならばと音の方へ這うようにして向かう。暗くて何も見えず、どこにいるかわからない。けれど、起きて呻くような声をする方へと向かう。手で地面を触りながら伝うとそれに行き当たる。布の感触、そして人の体温の暖かさであった。
「ひゃう……?」
「レミ?」
「ケイル、手をのけて……」
「え? ごめん、どこかわからなくて」
「いいから……」
彼は手のついた場所から手をどかした。彼女があまりにかしこまった口調で言うため謝罪する。
「無事か?」
「ケイルは、大丈夫なの?」
「左腕と胴体をいくつかやってるとは思う」
「そう、なら私は聖粉もってるから、それ使いましょ」
「そうなのか、いや、待て。レミ、君の状態は?」
「大丈夫……だと思う」
「なら、余ったのでいいからレミが飲んでからだ。といっても、この暗さじゃ何も見えないけど」
彼女がそれならと言いながら、異国の言葉を話し出す。それが一段落終える時、彼女の左手が仄かに青く光る。彼女の上に刻まれた刺青が光っているようであった。辺りが仄かに照らされる。彼女の顔が見えてケイルはほっと声出す。
「すごい。そういうこともできるんだな」
「ごめんね、本当は火球を放てばいいんだけど、力はいらなくて」
「え? なんだよそれ!?」
彼は彼女の光る腕を見て声を上げた。彼女の腕は浅黒く皮膚がなっており、平時の彼女の腕の倍ぐらいの太さになってそうな勢いであった。ケイルは酷く動揺する。その様子に彼女は薄く笑顔を作り答える。
「えへへ。頑張りすぎたね」
「えへへじゃない。聖粉はあるんだろう? すぐに出してくれ。それは、光らせといて大丈夫なのか? イデッ!」
ケイルは慌てて治療するために彼女から聖粉を要求する。聖粉は粉状の即効性の治療薬である。幻術により作られると言われる神秘の薬だ。彼女はおどけた様子に心配になりながらも左腕を動かそうとして悲鳴を上げた。彼女はどうやら起き上がれないらしく、彼を見ても起き上がる素振りも見せない。彼だって正直に話せば動きたいとは思っていなかった。自身の体から響く鈍痛や激痛は、安静にしろと彼に訴えかけている。
「ケイルも無理しないで……」
「ちょっと待て、動けるだけレミよりマシだよ。どこにある?」
「私の腰のポーチの中に小筒に入れたのがある……」
「わかった。ちょっと動かすぞ」
「ごめんね、全然なんか力が入らなくて……」
「見つけた。二つもあるのか、一つは飲め。半分貰うぞ」
「うん」
彼は見つけた小筒の聖粉をまず自分の分として半分ほど口に含む。仄かに甘い味が口に広がるが、粉が口の中の水分をとっていくため咳き込みそうになる。それを我慢して無理やり飲み込む。
そして残りを彼女の口元へと持っていく。彼女は起き上がれないため、ケイルが右腕で上体を起こすように持ち上げる。その際にも彼自身に走る激痛に顔を歪ませる。レミの心配そうな眼差しを受け、隠すように顔を逸らす。
「本当に無理はだめだよ。ケイルは貴族種の一撃受けたんだからね」
「やっぱりあいつの攻撃を受けたのか」
「覚えてない?」
「身体が吹き飛んだのはなんとなく記憶にあるが、それからはさっぱりだ」
「そうなんだ」
左腕が動かせないため、ケイルは強引に膝の上に載せ、彼女の口元へ聖粉を持っていった。自分もそうだが、彼女を助けるためにも聖粉の効果を期待するしかない。彼女は少し咳き込んだが、それでも聖粉を飲み込んだ。レディミアは自分の身体が酷く重く怠く感じていた。左腕からは針を指しているような痛みが継続的にやってくるが、他の四肢はまるで錘を付けられたかのように動かせないのであった。気分も良くはなく、吐き気がやってくるが動かないのであれば耐えられる程度のものであった。眠気も多分にあり、ケイルに起こされなければずっと寝ていたい気分でもあった。ケイルの膝の上は地面とは比べるもなく暖かい。それが余計に彼女の眠気を誘っていたのだ。
「あいつに火の玉を当てたか?」
「当てたよ。だけど、駄目だったみたい。だけど、怪我はしてるよ、絶対。私の渾身の、一撃だったん、だから……」
「そりゃ、すごいな」
「ふふふ、あのね。蛇魔型独王蛇ってのは、貴族種の中でも硬い方なの。それに傷を負わせたんだ。私は強くなったんだよ」
「ああ、俺なんか足元にも及ばなかったからな」
「私はね、守れるようになったの。ねえ、ケイル……眠い。寝るね」
「あ、おい。寝やがった……。て、真っ暗じゃねえか……」
彼女の意識が途切れたのと同時に左腕の発光が収まり、辺りに闇が戻る。辺りを見渡す時間もなかったが、どうやら広い広間のような空間にいることだけは彼はわかった。なによりケイルは膝の上でスースーと寝息を立てるレディミアを見て心から安心をしていた。
なぜ、ここにいるのかは彼女が起きてから聞けばいいと開き直り、辺りの音に注目する。辺り一切の光のない闇の中だ。接近する敵が現れた場合、音でしか判断ができない。彼は右手の小筒を傍に置いて、剣に持ち替える。そして、横に水平に払う。それを四方に行った。右手のみの範囲のため短い距離であるが、剣の間合いにはなにもないことを確認したのだった。
「どうすっか……」
ため息交じりに彼は虚空につぶやく。寝息を立てているレディミアを起こすわけにも行かず、彼は途方に暮れる。魔獣などが潜んでいる可能性もあるが、彼と彼女の遠慮なしの話し声を聞いてやってこないのも変であることからもいないと彼は判断した。魔獣にこの暗闇がどれほどの意味があるのかは不明だが、声ならばすぐさま反応を示すだろうと考えたのだ。
ならば、この空間には他に気絶していたりする人間がいないのなら、現在、彼女と彼の二人きりということになる。
折よくこの空間は音が響く。水が天井から落ちてくる音もよく響き渡るのだ。何かがやってくればすぐに気づくであろうことは明白であった。つまりは、彼としてはある程度の安全は確保されているように思えたのだった。どうやらこの空間は、石室のようになっていると地面の状態を感じてケイルは判断する。広い空間に柱の一つもあろうが、暗闇では探すことも容易でない。さらに言えば、彼自身だって全身の痛みで動き回ることは不可能だ。
故に、彼は諦めた。
彼女をゆっくりと支えて上体をずらしつつ、彼も外套を枕にして寝ることにした。水たまりのせいで濡れて気分のいいものではなかったが、ないよりマシであるため、諦めてその場に倒れ込む。
彼女のいた場所に水たまりが作られていないことに感謝しながら彼は闇の中目を閉じた。
◆ ◆ ◆
ちらちら火の粉が松明から立ち昇る。急に空間が照らされる。空間は広く何かの一室であるようであった。少し天井が高く松明の火ではうまく照らせず陰が闇を深めている。部屋は廊下のように長く、その壁には壁画があった。松明が壁を移動してもその壁画は続いていく。どうやら壁画は壁全体に広がっているようであった。精巧に作られた壁画はかすれて薄れているが、それでも製作時当時の色彩を残していた。一部分からは全体に描かれる絵画の様子は伺えない。けれど彼が移している部分は海を描いているようである。波のうねりに獣の絵、海に昇る龍を描いてもいる。壮大でかつ繊細な描画のそれは神話の一部分を切り取ったもののように思えた。
その壁画のそばをなにか怯えながらも歩く男がいた。男は中背の冴えない感じを受ける古びた鼠色の服を着ており、足を引きずっていた。血を石畳の部屋の中に残していく。名をダーティ・ドラインという。ダーティは松明の明かりを頼りに部屋を進む。松明とは反対の手には短剣が握られており、松明の火に照らされちらちらと煌めく。ダーティの顔色は優れない。何かをしきりに気にするように彼は照らされる部屋を見る。少し早足気味に廊下のような部屋を通り抜ける。彼は壁画にも壁の優れた彫像にも目もくれない。興味もないようであった。
彼の足音が部屋に響く。部屋の端にある木の扉は朽ちていた。扉は引っかかり動かない。それを除けるように剣で叩いて扉を壊して道を開ける。音は響いたが、彼は仕方ないといった風であった。部屋の先は廊下が繋がっている。松明を向けるが、闇が広がっており何も見えない。その空間を見て、ダーティは舌打ちをして、足を進ませる。彼の足取りは先程よりも早い。
だが――――。
「……よ。…………!」
声がした。女の声だとダーティは気づく。足を止め、身をかがめる。松明はその場に捨て、火を消した。闇が廊下を覆う。じっと次の音を待った。そして、間もなくすぐに届く。
「レミ! ……だ!」
男の声も聞こえる。はっとして男はゆっくりと移動を開始した。火の消えた松明も手に持ってけっして大きな音は立てず進む。廊下を進んでいく。角を曲がると光が見えた。廊下の先、いくつかの扉を抜けた所に扉の開いた部屋があった。そこからは光が漏れでており、随分と明るい光が廊下に伸びていた。
ダーティは、人がたくさんいるのかと思い、角で様子をうかがう。けれど、二人の声はするものの他に声は聞こえない。どうやら二人だけらしいと検討をつけたダーティは傷のついた片足を庇いながらもゆっくりと進む。相手は彼に気づいていないように世間話をしているようであった。
「―—レミ、そろそろ次にいこう。ここだけに時間かけて飯探せなかったら、それこそ本末転倒だよ」
「待って、ここの書類だけ読ませて。これなに書いているか分かる? これ、古代語なのよ! すごい、資料がそのまま残っているところがあるなんて」
「うん、でも、先を急がないと」
「わかったわ、これとこれだけ持って出るから」
「早くな。これだけのものが普通にあるんだから、どっかに水や食料もあるといいんだけど」
ケイルは部屋を出て廊下を伺う。廊下は部屋の明かりのせいで余計に闇が深まっている印象を受けた。何かが迫ってくるような音はせず、彼は警戒しながらも部屋へと目を向ける。
瞬間、剣を抜ききる前に彼は自分の右手を止めた。
首筋に短剣が押し当てられたのを感じたからであった。彼は両手を上げて相手の動向を探る。相手はドアの影に隠れて姿が見えないが、彼と変わらない体格であろうと短剣の穂先からの角度を見て判断する。
「レミ、動かないで」
「何? え……?」
資料を大事に懐にしまい込みながら満面の笑顔を向けるレディミアにケイルは忠告する。レディミアはほうけた顔をしてから彼を見て自体に気づく。
ドアの影から人間がケイルの死角に出るようにして背後に回り込むのを感じる。その間も短剣に一切の動揺が見られないことを確認して彼は緊張を強めた。
(――油断した)
彼の左腕は未だ動かせない。わずかに肩を動かすことはできるが、聖粉を飲んでなお痛みで動かすのをためらうほどであった。体の中も同様で傷が激痛ではなくなった程度で無理に体を動かせば、痛みが走る。相手の動きを見ても全力で行かなければ、この近距離ではまるで勝てる気がしないとケイルは自身の油断を悔いる。危険な場所であることはわかっていたが、ケイルたちが落ちていた舞踏場のような広い部屋を抜けてかれこれ数時間が経つ。その間、魔獣は疎か獣一匹として出会わないのだから、完全に彼は油断をしていた。明かりもレディミアの刻紋術により十分に取れていることもそれを助長させていたのだった。
彼の前に広がる部屋は書庫のようであった。いくつもの書棚が並んでいた。大半は倒れて書籍等が散乱して朽ちていた。けれどいくつかは当時のままであろう状態を保っているものもあった。そこから書籍を取り出して見るとすべて古代語で書かれてあり、レディミアが興奮したのだ。
彼自身は大声はどうかと思っていたのだが、まるで危険の恐れがないので許してしまっていた。そのつけに人に襲われるというのは、なんとも情けない結果だと彼は自分に強い怒りを覚えた。
背後にいるダーティは、何も言わず部屋を舐めるように見渡している。そして部屋の中央付近でこの部屋を照らす光源を見つけて目を見開く。
「どっちだ?」
「どっち?」
「どっちが、刻紋の刺青を入れてる?」
「……」
反応がないが、わずかに短剣を突きつけているケイルが動揺したように思えた。故に目の前で書類を抱えている方が術者とダーティは判断を下す。
「女か。お前、あれを動かすな。消したりしてみろ。この男の首を飛ばす」
「わかったわ」
「待ってくれ、何が目的だ?」
「黙れ。貴様ら、蛇魔型独王蛇に会ったな?」
「あぁ」
「そして沈められた、か」
レミが頷いた。
「お前らの所属と名前を言え」
「俺は、『砂の牛傭兵団』のケイル・ターシュベンだ。向こうは――」
「駄目だ、女。自分で名乗れ」
「私は、同じく『砂の牛傭兵団』のレディミア・オンディーキ」
「嘘だな、傭兵団ごときが刻紋術を挿れれる訳がない」
「……レミ」
「言え」
「わかったから、その剣を引いて」
ケイルの首に押し当てた短剣が押し込まれ、傷を作り血が流れる。其れを見てレディミアは動揺して懇願する。
「私は、アルベニア王立呪法研究院の古代史蹟課の研究員よ」
「は! その歳でか」
「そうよ。嘘じゃないわ」
「……まぁ良いだろう。じゃあまず、女は持ち物をすべて置け。武器も服もだ。そして刻紋の刺青を見せろ」
「おい」
「無駄な抵抗をするな」
「大丈夫だから」
ケイルの声に剣を押し当てる力を込めて制する。レディミアは少し不安そうな顔をしながらも持っていた資料をその場に置き、言うとおりにする。外套を脱ぎ、背負っているかばんと腰のポーチを外す。そして長袖の上着を脱ぐ。下着になると左腕が青黒く染まりながらも幾重にも紋様が青白く光っていることがわかった。
「何だ、その腕は」
「……副作用よ」
「ふん、この光のせいか?」
「いえ、独王蛇と戦いのせいよ」
「あれに挑んだのか? 効いたか?」
「わからないわ」
「そうだろうな。ここに来ているのだしな」
なぜか勝ち誇ったような様子を見せるダーティに彼女は困惑顔をしながら俯いた。所在なさげに彼女は右腕で左腕を掴むように身体を抱く。ダーティはつまらなさそうにレディミアの荷物を見つめる。そして、少しケイルを押して彼女に近づく。
「よし、交代だ。女、こっちにこい」
「おい、変わる必要があるか?」
「男を抱いて楽しむ趣味はねえのよ」
「お前! う……」
「やめて!」
ケイルの首筋に刃を食い込ませる。レディミアの悲痛の叫び声にケイルも暴れようとするのをやめ、ダーティの言うことを聞く。ダーティは其の様子を鼻で笑う。
「威勢だけのガキは嫌いだ」
「早くこい」
レディミアが傍につくとケイルの腰につけた剣を左手でダーティは背後から抜く。ケイルはそれに気づいたが、奥歯を噛んで耐えた。
抜いた剣を傍に寄ってきたレディミアの首筋へと当てる。と同時にケイルを背後から右足で蹴飛ばして体勢を崩させる。ケイルは堪らず、その場に膝をついてから振り返ると立場の逆転したレディミアがそこにいた。
「ひゃっ」
「へ、次はお前の持ち物を見せろ。さぁ早く」
「わかった。その剣で傷つけたら殺すぞ」
「ふん、そりゃやれるならな」
ケイルはやっと見えたダーティの素顔を睨みつけながら、自分の装備を解除していった。といっても服と腰のポーチ、剣帯程度しか持ち合わせなかったが。
レディミアの背後に隠れるようにしてダーティは彼女の首筋に剣を当てている。彼女の右腕を後ろに捉え、ねじ上げて動かないようにしている。急に暴れても逃げ切る前に殺すつもりなのだろう。
「終わりだ……」
「ふん、じゃあお前は、この女の荷物をひっくり返せ」
「なんだ、何を探している?」
「早くしろ」
そう言えば、とケイルは彼の身体を下から見る。そこで合点がいく。彼の左足に怪我を見つけた。彼女の背後にいて見ずらいが、履いているズボンに血痕が染み付いている。それは、比較的新しく見えた。
「聖粉を探しているのか?」
「……早くしろ」
「当たりか。持っているぞ、俺らは聖粉を」
「なら、寄越せ」
「いや、交換だ」
「立場をわきまえろガキが」
「ケイル……」
「おっさん、その足は出血が止まってるのか?」
「……」
「すぐにでも治療しねえと腐るんじゃねえのか。ここは外じゃないしな、満足に治療ができる風でもない」
「ガキが……」
「やめろ」
レディミアに突きつけられた剣が僅かに動いて彼女の首筋にピタリと当てる。徐々に食い込んでいくのが見て取れた。
「なら、言うとおりにするんだな」
「待て、ここに聖粉がある」
そう言って彼はレディミアのポーチの中から木造りの小筒を取り出す。それを掲げるようにダーティに見せつける。ダーティの目線を厳しく小筒へと注がれた。レディミアはケイルを心配そうに眺める。レディミアとしては自身の刻紋術が鍵になると信じるしか方法がない。体術もできるが、この状況下では焼け石に水だと思っていた。
「量は?」
「小瓶の半分だ」
「十分だ。じゃあ、少し近づいて床に立てて置け。置いたら下がれ」
ダーティは用心深い男だ。ケイルはそう思う。絶対に自分の不利になる状況を晒さない。首筋に当てる刃もブレもなく構えられており、その様子から手慣れていることが伺えた。それが一瞬だが安堵した表情をしたのだった。やはりとケイルは思う。彼の傷は軽くない。聖粉がなければ感染症かそれとも足が腐るか、血を出しすぎて死ぬか、ともかく傷は重いようであった。そこに付け入る隙きがあるとケイルは考える。
ゆっくりとダーティに近づき、地面に小筒を置く。
「何をしている。離れろ」
「レミを離すことは?」
「まだ言うのか。無駄だ。今のお前らを自由にすると思うのか?」
「思わない」
「わかっているなら無駄口を叩かず離れろ。お前の女なのだろうが、守るときは引け」
「……駄目だ。剣を向けるのもいいが、攻めてその先は俺にしろ」
「馬鹿が。いいから、さっさと離れろ」
「では、ここに聖粉を捨てるぞ」
「――あッ?」
ケイルは置いた小筒持ち上げて蓋を開け傾ける。聖粉は粉だ。故に地面にばらまこうが使えなくなることはない。けれど、床の塵や埃にまみれた聖粉を選り分けるのに時間がかかる。床を舐めてでも摂取しなくてはならないだろう。
「ガキがふざけるのも大概にしておけ」
「ひゃっ……」
彼女の首筋に血が伝う。彼女がそれに驚きもがくが制される。ケイルは怒りを抑えながらダーティに話しかける。
「交換だ……」
「別にこいつを殺して貴様を殺しても構わんのだぞ」
「出れるのか、それで」
「……立場同じだろうが」
「お前は、いつからここにいる? 上の様子だと一ヶ月かそこらか。彼女は古代語が読める。そして刻紋術の使い手だ。この明かりだって彼女のものだ。彼女を殺せば、闇に戻るし、上へ上がる方法もわからなくなるぞ」
「そんなもの、関係のない。俺は必ず上に上がれるからな」
「どういうことだ?」
「手の内を晒す馬鹿がどこにいる?」
あまりに自信気に語るダーティに訝しむように顔を向ける。ケイルはわずかに手に持つ小筒を動かす。親指と人差指だけで持ったそれを傾ける。彼の顔には怒りを感じるが、動きには淀みもなく冷静だった。それをダーティが訝しむ。ダーティはそこで小筒を持った右手の違和感に気づく。
「――おい、何を持ってる?」
『――分かれなさい――』
その時だった。
火が部屋の天井に生えた。それは生い茂る茅野の大地が風に揺らいだの如く火が天井を這う。ダーティは思わず見上げる。熱気と火の流れに熟練の彼も驚きは隠せない。それは隙きになり、致命的なものとなる。
彼がはっとして気づいた時、目の前にいたケイルは小筒を落として手に持つ何かを投げた。それは鏃のような刃の着いた小型の金属片であり、距離もないこの場において一瞬でそれは彼の短剣を握り、レディミアを抑えている腕に刺さる。痛みで拘束が緩む。しかしダーティも痛みにかまけず、一気にレディミアの首をかききろうと腕を引こうとする。けれど、レディミアはそれを許さないように腕に噛みちぎりる気で噛み付いた。
これにはダーティも耐えられず声を上げて、左腕で突き飛ばす。そして火が彼の周りに天井から落ちてきた。
「うひゃあ――!!」
もはや剣を構えるどころではなかった。左腕に軽く握っていたケイルの剣は取り零し、痛む右腕の短剣を振りながらその場に転がる。けれど、熱は感じるのに不思議に服を火は焼かない。彼の皮膚が火傷を負うが、感じよりもずっと程度の低い痛みしか走らない。だけれど、彼は混乱していた。火が彼の周りに大蛇が食らいつくすかのように落ちてきたのだから当然でもあった。
しばらくして、火が嘘のように消える。
そうして彼は気がついた。火の正体とその目的を。
「女ァ……!」
ダーティは睨みつけながら、レディミアを睨みつける。彼女の左肩の横にはこの部屋を照らす光の玉が浮いている。放つ光の正体は火であった。ケイルは自分の剣をとうに拾い上げており、ダーティへと剣先を向けている。
「逆転したな」