5
前世の俺はブラック企業で働いていたから、忙しいことには慣れている。
サービス残業にサービス休日出勤なんてざらで、うっかり旅行なんかに行って急な呼び出しに対応出来ないと、君は無責任だと言われるぐらいにだ。
そんな俺だから、暇な時間は苦痛だ。
暇が出来ることでゆっくり出来るとは言うものの、何かしないといけないと思いつつ、結局何も出来ずに時間だけが過ぎていく。
急な呼び出しを警戒し、どこにも出かけない日もあった。
結局呼び出しも無く、せっかくの休日を無駄にしてしまったと、俺は後悔するのだった。
それがこの世界に転生する前の、俺の休日の過ごし方だ。
今の俺は朝はリズに起こされ、リズが用意してくれた洗面器に張ったぬるめのお湯で顔を洗い、リズが用意してくれたタオルで顔を拭き、ついでにリズに上から下まで身支度をしてもらい、朝食はリズに給仕をしてもらう。
ついでにリズに口元を拭いてもらい、食後のお茶をリズに淹れてもらう。
これって、まずくないか?
・・・・・・・リズ無しで生きていけるのだろうか?
まあ、なんとかなるかな。
顔を自分で拭けるようになったから、これは一歩前進と言えるのではないだろうか?
もっとも、顔を完璧に拭かないと、リズはあらあらと言いながら、これ以上ない程に満面の笑みをたたえながら、拭き残しをこれまた実に丁寧に優しく、そしてしつこく拭いてくる。
ゆえに朝から、緊張感をもって顔を拭くようにしている、俺だった。
追い詰められることには慣れているし、上司や同僚が知らない間にスキルアップをし、色々な場面にこっそりと手を出していることもあった。
後で火の粉が降ってきても、大丈夫なようにだ。
その結果、俺が不在になると業務が回らなくなり、俺の価値が一段上がったようだ。
その後の俺に責任ある仕事が回ってきたけど、その分敵が増えたけどね。
前世での俺はそうやって、自分の居場所を確保してきたから、敵が増えるのは仕方が無い。
だって、無能な奴らは少しでも優秀な奴を蹴落としてその地位に取って代わろうと、色々と仕掛けてくるモノだからだ。
当時の俺は、どうしてもそいつらとは仲良く出来なかった。
いいやり方があるんだろうけど、これが俺のやり方だ。
変えられないし、変えようとも思わない。
頑なではなく、何となく嫌なんだ。
でも、ここでは違うようだ。
ある意味では俺は何もさせてくれないし、むしろ前に出ないと本当に無能なおぼっちゃまになりかねない。
そんな訳で自分の居場所を確保するためにも、ひとつひとつ自分でやらせてもらえるようになろう。
次は何を要求しようか。
・・・・いや、なにかおかしいような?
そんな俺の日々の生活は、毎日ほとんど変化が無かった。
いつものように午前中は身体を鍛え、リズの旦那さんに剣の指南を受ける。
お昼は軽めの食事とお昼寝を少々、午後は座学だ。
講師はなんと、あのダイ・ケン・ジャさまだ。
もとい、大賢者さまだ。
どうも大賢者さまは俺の教師として、聖都からここに赴任してきたようだ。
多分だけど。
俺がこの世界に転生した直後に大賢者さまが居合わせたのは、たまたまでも偶然ではなく、この屋敷に挨拶に訪れたタイミングだったようだ。
俺って、運がいい。
しかし、今更お勉強なんて、退屈しないかと思ったけど、この身体は案外忍耐力があるようだ。
お昼寝をしたせいかもしれないけど、気だるい午後にはならず、意外に元気溌剌だった。
ちなみにお昼寝では、リズの膝枕で夢見心地ではなく、普通にベッドで横になった。
そして枕元には、いつもリズが居る。
昼寝の時のリズは、夜寝る時のように子守歌は歌わなかった。
まあ、お昼寝だしね。
ただ、いつも何かをしていた。
それは編み物をしていたり、何か書類みたいなものを見ていたりと、いつも何かをしていた。
いつも、忙しくしている。
ある時、うっかりつぶやいてしまった。
「リズもお昼寝ぐらいすればいいのに」
小声だったのに、リズの耳に入ってしまった。
「あら、たしかにそうでございますわ」
すると、リズはベッドに乗ってきた。
衣擦れの音が、ちょっとドキドキした。
リズはそのまま俺の隣で横寝の姿勢になり、俺をあやすようにリズの手は俺の胸のあたりにあった。
子守歌は歌わなかったけど、リズミカルにリズの手がゆっくりとポ~ン、ポ~ンと当たる度に、何か深い場所に落ちていくような感覚に襲われ、そのまま眠ってしまった。
気が付いたら、もう起きないといけない時間になっていた。
リズはいつものように、おぼっちゃま、おぼっちゃまと優しく起こしてくれた。
不思議と、起きないといけないと思う。
抗う気持ちが湧かないのが、ちょっと不思議だった。
考えてみたら、俺はあと五分とか、もう少し寝かせてと言うシーンに縁がなかった。
一度、してみたかったけどね。
でも、リズの呼び声はどの目覚ましよりも効果があった。
リズの声には、魔力でも宿っているのだろうか?
そう思った時、ふと思い出した。
あの時大賢者さまが言った、ちゆとは治癒のことだろう。
大賢者さまは、俺の胸に手をかざしていた。
それはつまり、魔法ということだろう。
さっすが、異世界ファンタジー世界だ。
俺も、魔法が使えるのかな。
魔法の練習がしたいけど、リズの前でやるのはなんだか気恥ずかしいので、大賢者さまに教えてもらうことにした。
リズが居ない隙に。
リズはいつも俺の側に居るようで、時々席を外すことがある事を、つい先日発見した。
ふと、後ろの気配が変わることがあり、チラッと見るとそこにリズは居なかった。
もっとも、リズが席を外すと代わりに冷たい感じの美人が、俺の後ろに立っていたけど。
むしろ、俺はこのクールな美人が苦手だ。
いや、何なら世の女性はすべて苦手だけど。
まあいい。
リズが席を外し、クールな美人と入れ替わる隙に、俺は魔法のことを大賢者さまに質問したら、それはまだお早いですよとたしなめられた。
早いのか?
質問したかったけど、クールな美人がクールさをマシマシで現れたので、俺は口を閉じることにした。
問題は、いつならいいのだろうか?
まあ、いい。
おいおい、分かるだろう。
だけど、勉強は意外に楽しかった。
基礎の算数とか国語とかはまあまあだったが、歴史や信仰については、結構刺激になった。
それはこの国の成り立ちに関わり、同時に俺がこの世界のどんな役割を担っているのか、徐々に分かってきたからだ。
聖なる神
それがこの世界の主神で、その主神と対立しているのが、魔神と呼ばれる存在であると。
我々は聖なる神の子であり、いずれ世界最終戦争で聖なる神と共に魔神とその眷属どもと戦い、これに勝利するのだという。
単純に言うとそういうことであり、俺がいつか行くことになる聖都は、世界の中心にあるという。
とはいえ、これはまだ初心者向けであり、いずれは聖都で本格的に学ぶそうだ。
今は信仰の基礎を学び、いずれ聖都で本格的に聖なる神の信徒となるべく精進しないといけないそうだ。
俺は色々と質問するけど、それは聖都に留学してからですと言われたので、もしかしたら知らないのかもしれない。
昔から偉そうにしている奴に限って、実は無知だったりする。
実務は俺みたいな下っ端に押し付けているから、いざという時に何も出来ない。
この大賢者さまも、きっとそうだろうと思った。
遠回しにそのことをルスやリズに聞いても、大賢者さまは偉大な方ですと返ってくるだけだった。
ルスもリズも、案外権威に弱いのかな?
まあ、別にいいさ。
聖都とやらに行けば、すべてが分かる。
午後の座学が終わると、今度は社交ダンスの練習だ。
練習相手はいつもリズで、身体を密着させながら踊る。
リズは俺よりも背が高いので、ちょっと踊りにくい。
俺の背が低いわけではないと思う。
年相応だろうけど、そもそも俺はいくつなんだ?
ダンスの練習の時は、リズはシックだけど華やかな夜会服を着用し、ヒールの高い靴を履いている。
リズの夜会服姿はとても素敵だけど、ヒールの高い靴を履かれると、俺の背の低さが目立つ。
しかも、ヒールの高さの分だけ俺の顔あたりにそれがあたる。
リズの、ご立派なお胸がだ。
さすがに女性の胸に顔を密着させながら踊るのは、どう考えてもおかしいだろうと思うけど、リズはむしろもっとくっついてくださいませと言ってくる始末だ。
それではお相手をリード出来ませんよと。
そうは言っても、本当に踊りにくい。
リズの出っ張ったお胸が、本当に邪魔なのだ。
本当にだ。
と言うことは、リズとのダンスが踊りにくいと分かるぐらい、俺は熟達したようだ。
いつの間にか、リズの足も踏まなくなったし。
俺はそのことをリズに伝え、もうダンスの練習はしなくていいと言ったら、リズはさようでございますかと答え、ではおひとりで踊ってみてくださいませと促された。
「ダンスって、ひとりで踊るものではないでしょう?」
「はい、さようでございますわ。でも、おひとりで踊れない限り、一人前とは言えませんわ」
「リズは踊れるの?」
「はい、もちろんでございますわ!」
リズは広間の真ん中に、颯爽と躍り出た。
まるで合図のようにヒールを高らかに鳴らしながら、ひとりで優雅に踊り始めた。
それはまるで、誰かもうひとり、いや、俺のように背が低い相手が目の前に居るように踊っている。
そして次は、明らかにリズよりも背が大きな、恐らくはルスを相手に踊っているように見えた。
ひとりでクルクル回っているだけなのに、何故か相手が居るように見えた。
ヒールが醸し出す音がリズミカルに広間に響き、まるで音楽を奏でているような感じがする。
手拍子をしたくなるぐらい。
一応、ピアノの伴奏者は居るんだけど、リズの出すヒールの音に圧倒されてしまい、ピアノの存在感がゼロだった。
後ろで幾重にも編んで束ねた金色に光る髪を颯爽と揺らし、夜会服の裾を翻しながら、優雅にフィナーレを飾った。
すげえ~!
思った以上に、リズはカッコよかった。
いや、マジで。
俺は思わず、拍手をしてしまった。
リズはスッと流れるようにスカートの端を摘み、優雅に頭を下げた。
まるで、貴族の御令嬢のように。
というか、そもそもリズって貴族だよね?
エーオス夫人の夫人って、貴族の女性に対する呼び方だよね?
俺はそれすら、よく知らなかった。
そもそも、俺って誰なんだ?
「さあ、次はおぼっちゃまの番でございますよ」
にっこりと微笑むリズのその表情は、どこかいたずらが成功したような、そんな愛らしい顔をしていた。
リズのそんな仕草を、俺は可愛いとは思えなかった。
ものすごく、嫌な予感がしたからだ。
リズの表情に、俺はすっかり動揺してしまった。
「え?僕?」
「はい、おぼっちゃまの番でございます。もう、練習が要らないぐらい、熟達したとお聞きいたしましたわ。おぼっちゃまの御雄姿を、このリズにお見せくださいませ!」
「は、はい・・・」
俺はひとりでダンスを踊り始めたけど、相手が居ることを前提に踊ることが出来なかった。
ピアノのリズムにも乗れなかったし、足がもつれて転びそうにもなった。
だって、目の前に誰もいない、空気ダンスだからだ。
リズのように決まった手の位置、足さばき、相手をリードしたり、相手の力を利用してより優雅に振舞うことが、一切出来なかった。
「はい!」
見かねたのか、リズは手を叩いて演奏を止めさせた。
俺はすっかり、息が弾んでいた。
剣の稽古よりも、辛かった。
「む、無理だよ」
「おぼっちゃま。おひとりで練習がお出来にならなければ、熟達したなんて言えませんわ」
「でも、僕が踊る機会なんて、無いんじゃないの?」
「何をおっしゃいますか。おぼっちゃまが成人におなりになりましたら、社交界にお披露目をいたしますわ」
「え?何それ?」
聞いてないけど?
ああ、そういうことは俺抜きで話すのかな。
嫌だ。
だって俺は、さらし者になるということだからだ。
「そうなったらおぼっちゃまは、舞踏会にお招きされますわ」
それって、断れないのかな?
断れないんだろうな。
その舞踏会とやらも、俺に一言の相談も無しで、決定だけが伝えられるんだろうな。
じゃあ、この日のこの時間に現場に向かうようにと。
しかも、詳細な業務内容を一切教えられずに。
業務内容を聞こうとすると、上司にうざがられた挙句、細かい話は現場で聞けと言われるし、現場では君は引継ぎをしてないのかと言われる。
理不尽だ。
俺の意思が反映されることって、もう一生ないのかもしれない。
「ご招待をお受けいたしましたら、おぼっちゃまは貴婦人方や御令嬢方をエスコートしたり、リードして差し上げないといけませんわ」
え?
何それ?
エスコートって、どこに?
もしかして、地獄か?
ああ、俺だけか、地獄行きは。
というか、招待を受けるって、誰が決めるの?
俺じゃないんだろうなあ。
お願いだから、断って。
なるべくでいいから。
「だから、おぼっちゃまにはそれまでに、舞踏会における社交術やありとあらゆるダンスの型を覚えていただかないといけませんわ」
「ありとあらゆるって、そんなにあるの?」
「それほどでもありませんから、ご安心くださいませ」
「ああ、そう」
「だからそれまでは、リズがちゃんとお教えいたしますから、ご安心くださいませ!」
リズは知らないようだから、俺が教えてあげよう。
それは安心とは言わない。
一種の、拷問と言う。
華やかな夜会服に身を包んだ美女が、キラキラと光る髪と豊かな胸をもって、俺をとことん追い詰めていく。
昔の俺なら、羨ましいとか思うんだろうな。
逃げたい。
それが夕食前の、俺とリズとの濃密な時間だった。
身体をぴったりと密着させるぐらいの、濃厚な男女の時間だ。
しかも、俺には縁の無い夜会服を身にまとった美女とだ。
俺の人生で、こんな華やかな美女と連日身体を密着出来る日が来るなんて、想像だにしていなかった。
でも、不思議だ。
リズは魅力的な美人で、しかも巨乳なのに。
密着していても、何故か嬉しくない。
それに考えると、貴族って結構辛いのね。
庶民だった俺は、気楽なもんだと思う。
いや、前世ではインフルエンザに罹っても仕事は休めなかったので、本当のところどっちがマシなのだろうか?
顔も知らない人と踊るぐらいなら、39度の熱にうなされながら仕事をしていた方が、まだ良かったのかな。
はあ~。
逃げたいなあ。
異世界転生したいなあ。




