プロローグのような夢
わたしは夢をみていた。体と外の境目が水彩画みたいにぼやけている。周囲の世界は、瞼の内側を見つめているみたいな、白いのか黒いのか赤いのかよく分からない色をしていた。
それを認識できるだけの意識はあるのに、思考はそこから先に進まない。よくわからない色の世界が動いているようにも、何も見えていないだけのようにもみえてくる。退屈で眠くなる。長い時間が経ったような気も、授業中の居眠りくらい一瞬だったような気もする。
無為の時間を断ち切って耳の奥に響いたのは、幼い子供の泣きじゃくる声だった。懐かしさが湧き上がり、不思議と胸が温かくなる。
惹かれるように声の方へ意識を向けると、その声は遠ざかり、瞬く間に周囲の色が塗り変わる。それから色が形を持ち、見覚えのある世界をつくりあげた。
ここは森の中だ。わたしが育った、そして今も暮らしている孤児院の、裏にある森。子供の立ち入りが許された浅い場所で、振り返れば踏み固められた道と、教会堂の屋根が目に入る筈だ。
視点は、背丈が縮んだみたいに少しだけ低い。この森でよく遊んでいた小さな子供の頃を思い出す。
踏みしめた土の感触や聞こえてくる音がやけにリアルで気味が悪い。風で揺れる木の音から、自分の心臓の音まで感じられる。
そうして音に意識を向けたとき、わたしは遠ざかっていった泣き声がまだ聞こえていることに気がついた。耳の奥からではない。少し先にある木の影からだ。
子供が蹲っている。顔が見えなくてもわかった。その子はカミロ。わたしと同じ孤児院で暮らす、小柄な少年だ。
私は知っている。これは6年前、ただ同じ屋根の下に暮らすだけの他人だったわたしとカミロが、友達になった日の記憶だ。
わたしの身体が勝手にカミロに近づいた。かすかに残る記憶を、そっくりそのまま再生するような動きだった。手足の自由はきかない。できることは、ほんの少し辺りを見回すことだけ。
あの日、偶然泣いているカミロを見つけたわたしは、ほんとうはすぐにその場を去るつもりだった。シスターを呼べば、わたしとは関係のないところで大抵の問題は解決する。
わたしは自分も子供の身でありながら、泣いている子供なんていう面倒なものに関わり合いたくなかった。ましてカミロは、困りごとを相談し合うような親しい相手でもなかった。
それなのに彼があんまり悲痛な声で泣くものだから、わたしは放っておけなくなって声をかけたのだ。
カミロは人づきあいが下手なわたしにも優しい少年だったし、いくら浅くても森の中で一人になるのは安全とは言えない。
なんて、自分に言い訳して。
「……どうしたの」
「……ぼ、ぼうしがね。ぼくの、ぼうしがぁ……」
不愛想なわたしの声に、カミロは一瞬だけ驚いて泣き止んだ。それからわたしに何かを伝えようと話しかけて、思い出したようにまた泣き出した。
結局わたしが聞き取れたのは、カミロの涙には珍しく彼が被っていないお気に入りの帽子が関わっていることと、震える手が指した木のことだけだった。
一瞬、面倒くささが心配を上回るが、何も事情を知らないままシスターを呼びに行けば、知りもしない状況説明のためにもう一度ここまでとんぼ返りさせられることは目に見えていた。
もしカミロを泣かせたのがわたしだと勘違いされようものなら、事実確認より先に叱り飛ばされるかもしれないとすら思っていた。実際に、そんなことがあった。
カミロは優しくて人気者のはかなげな美少年で、わたしはシスターにさえ遠巻きにされる変な子供だったから、どちらが大切にされるかなんて考えるまでもなかった。
頭のどこかで、少しくらいは、わたしの力でなんとかできることなら助けてあげたいと思っていた。
「帽子が、何?」
「うぅ、ぐすっ……えぐっ……」
早速面倒ごとに首を突っ込んだことを後悔した。何もわからない。わからないままでは、なんとかしてあげることもできない。
はちみつ色の瞳が零れ落ちそうなほどぼろぼろと涙を流すカミロ。いつの間にかカミロに握りしめられていたわたしのスカートの裾が、今更この場から逃げ出すことを阻んでいた。
困り果てて、カミロが指した緑の茂った木を見上げる。少し目を凝らせば、木の隙間から風になびく青色のリボンが見えた。交流のほとんどないわたしですら見覚えのある、いつものカミロの帽子に違いなかった。
同時に、空からはらりと、黒色の羽が落ちてくるのが見えた。帽子のまわりを見回せば、1羽の黒い鳥が目に入る。
黒鳥だ。正式な名前は知らないけれど、孤児院でそう呼ばれている鳥である。森に入れる時期になると、必ず気をつけるように言い聞かされる動物。
奴は孤児院の周りに生息していて――ヒラヒラしたものを好む。
カミロの帽子のリボンは、まさにやつの獲物だった。
子供だけでなんとかできる問題ではなかった。黒鳥は近寄らなければ無害だが、敵対するなら大人ですら命が危うくなる相手だ。
カミロも、カミロの帽子も、明らかに目をつけられていた。
わたしは慌ててシスターを呼びに行こうとして、スカートを掴んだカミロの手に阻まれた。
「離して! シスターを呼んでこなきゃ……!!」
「……うぅ、やだぁ……おいてかないで……」
カミロは黒鳥に気づいていない様子だった。
黒鳥は魔鳥に分類される動物だから、神の奇跡を扱えるシスターならなんとかしてくれるはずだった。
カミロの手首をつかんで、引きはがそうとする。しかし泣き続けるカミロの握力に勝てないまま、黒鳥はじわじわ下降してくる。
帽子を持っていかれたら、カミロが今よりもっとひどく泣くことは想像に難くない。今、何とかしてあげられるのはわたしだけだった。
それだけではない。わたしは、カミロの帽子についた青色のリボンが、カミロがこの孤児院に来た頃から持っていたものらしいということを知っていた。彼が持つ、唯一の親との繋がり。
「……シスターには、秘密ね」
カミロの泣き声にかき消されそうなくらい小さな声でそう言って、帽子を見つめた。風に揺れる葉の影まで記憶の通りで、当時の感情が呼び起こされる。
悪いことをする罪悪感と、高揚感。それから小さな使命感と、覚悟。
「”そよ風よ、吹いて”」
声に少しだけ魔力をのせれば、願った通りに風が吹く。想定より少しだけ強いそよ風は、カミロの帽子を巻き上げた。
帽子は無事、風に乗ってゆるやかに落ちてくる。しかし同時に木の葉や砂も巻き上がり、頭の上から降り注ぐ。
慌てて帽子を掴み取り、しゃがみ込んでいるカミロを庇いながら目を瞑った。成長の遅い華奢な体はもう、震えていなかった。目を開ければ、すっかり泣き止んだカミロが居た。
所々、枝にひっかけたのか小さな傷はあったけれど、魔法は無事に成功したし、青色のリボンのついたカミロの帽子は無事だった。
一度、目を瞑ってしまったせいで見逃してしまったけれど、突然の風に驚いたのか黒鳥は離れていったようだった。少なくとも目の届く範囲には見当たらない。
「すごい。アイナ、すごいよ、すごいっ。アイナも、神様の奇跡が使えるんだ!」
そっと汚れを払って手渡せば、カミロは手を叩いて喜んだ。光を反射して輝くはちみつ色は未だうっすら潤んでいたけれど、それ以上涙があふれてくることは無かった。
わたしが使ったのは魔法で、神の奇跡と呼ばれるものとは別物だったけれど、特に否定はしなかった。説明が面倒だったし、神の奇跡の方が、わたしたち孤児の世話をするシスターが扱っていて馴染みがあったから。
このとき、わたしの名前を知っていたのだな、と思った事を覚えている。当時のわたしはほんとうに、人付き合いが下手だった。
しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
鳥の羽ばたく音がして、1枚、2枚と黒い羽が落ちてくる。息を飲んで見上げれば、いつの間にか戻ってきた黒鳥が、獲物を見る目でじっとこちらを見つめていた。
黒鳥は魔鳥に分類される――つまり、それなりに知性のある鳥だった。
黒鳥には自分のものとそうでないものを区別する習性がある。だから自分のものを他者に奪われることを許さない。そして、この日までカミロが被っている帽子に手を出したことはなかっただろう。
わたしはカミロの帽子が、風か何かで飛ばされたものだと思っていたけれど、結果的にそれは間違いだった。考えてみれば、他に障害物もある森の中で、風で飛ばされたにしては高い場所に、帽子はあった。
きっとカミロが被らずに置いていたかした帽子を、黒鳥は誰のものでもなくなったと判断して、自分のものにした。帽子の周りを飛んでいたのは、狙っていたのではなく、コレクションを鑑賞していただけだとしたら。
わたしはカミロの手を取って駆け出した。
幸い孤児院はすぐ側で、その横の神の奇跡に守られた教会堂に逃げ込めば魔鳥は入ってこられないはずだった。
森を抜けて、あと少し――というところで、カミロが転んだ。唐突に走り出したわたしに着いて来られなかったのだろう、それに片手には帽子を握っていて、走りにくかったのもあったかもしれない。
ともかくカミロは私の少し後ろで転んでいて、黒鳥はカミロの手に持つ帽子を狙っている。
狙いが帽子だったとしても、黒鳥の鋭い嘴でカミロの手が傷つくことは想像に難くなかったし、帽子が奪われたと知ればカミロがまた泣き出すのも間違いなかった。もっと言うと、コレクションを盗まれた怒りをぶつけられたらわたしたちの命も危なかった。
それでも、わたしにはどうすることも出来なかった。カミロが怪我をしたとしたら、わたしが余計な手出しを――魔法を使って帽子をとるなんてことを――したせいだとも思った。
足がすくんで、カミロを立ち上がらせることも、黒鳥を追い払うことも出来ないまま、ぎゅぅと目を瞑る。
「何をしているのっ」
次の瞬間響いた鋭い声にはっと目を開ければ、黒鳥とわたしたちの間に薄い膜が出来ていた。結界。シスターが扱う神の奇跡のひとつだ。黒鳥はこれで、こちら側には来られない。
それから孤児院の方から駆けてきたのはやはり、修道服を纏った女性だった。
孤児院の子供が毎年言い聞かされるだけあって、よくある出来事なのだろう。黒鳥を目にしたシスターは迷いなく、座り込んでいたカミロの手からそっと帽子をとって、被せた。
黒鳥ははじめ、結界の向こう側からじっとこちらを見つめていたが、帽子がカミロの頭の上に収まると、すっかり興味を無くしたように去っていった。
「……2人とも、お話を聞きますから着いてきなさい」
シスターの声をトリガーに、世界が歪む。
記憶のはじまりみたいに、景色の色が塗り替わった。
次の場所は部屋の中だ。わたしは長方形のテーブルに対してくの字に並べられたソファにシスターとそれぞれ座っていて、カミロは居ない。
たぶん、事情を聞かれてカミロが解放された後。
わたしの秘密の約束はカミロにきちんと届いていたらしく、彼は精一杯、魔法の使用を秘密にしようとしてくれた。しかし口裏合わせもしていない子供の嘘を見抜くことなど、熟練のシスターには容易かったようだ。
結果として、カミロは一旦解放されて、 わたしはお話をする為に残された。
当時、わたしは魔法を勝手に使用してはいけないと約束させられていた。孤児にはとても珍しく、誰にでも使える力ではなかったから、軽率な行動は慎むようにとくぎを刺されていた。
魔法を使える他人なんて魔法を教えてくれるブラザー1人しか知らなかったから、使えなくとも困ることは無かった。
表面上使用を許されなかった理由は簡単で、わたしがまだ10にも満たない子供で、善悪の判断もつかず、ブラザーに認められるほど魔力の扱いが上達していないからだった。
魔法は無知な子供に持たせるには大きすぎる力だ。事故で人の命を奪うことだって珍しくない。
わたしが遠巻きにされている理由の1番は人づきあいが下手なことだが、理由の2つ目には孤児のくせに魔法を使えることが挙げられるだろう。
当時のわたしはそれをきちんと理解していたし、わざわざ大人を怒らせてまで、他人を傷つけてまで魔法を使う必要を感じなかったから、ほとんどその約束を破ることは無かった。
少しだけ精神が早熟だったわたしにはシスターの気持ちがよく理解できたし、その日もきっと叱られるだろうと思っていた。
しかし予想に反して、シスターは決してご機嫌とは言えないものの、頭ごなしにわたしを叱り飛ばしたりはしなかった。
柔らかいソファに沈みこんで、シスターに促されるまま、記憶の中のわたしは胸の内を吐き出した。
最初からシスターを呼べば魔法を使うまでもなかったはずで、そのつもりだったが、カミロの手が振り払えなかったこと。
黒鳥の姿を見つけて、取られる前に早く帽子を取り返してあげないといけないと思ったこと。断片的な情報で分かった気になって、失敗したこと。
そよ風の魔法は一番最初に使えるようになった魔法で慣れているし、炎なんかと違って大事にはならないと思ったこと。魔法の制御が甘く、事故に繋がる可能性も分かっていたこと。
わたしが余計なことをしなければ、カミロは怪我をしなかっただろうということ。
それでも。
「……カミロが、泣き止むと、思って」
わたしが自分の力で、カミロの帽子を、リボンを取り戻してあげたかったこと。
孤児に魔法が使えるのは、おかしい事だ。魔法使えるだけの魔力は高貴な血筋にしか現れず、血を分けた子供を貴族が捨てることは普通ない。
そんな普通ではないことが起った背後にはどんな事情があったのだろう。どんな理由があれば、貴族の証である魔法が使える身で、捨てられたりなんかするのだろう。
きっとわたしは、自分の魔法で人を助けられることを、認められたかったのだと思う。そして、わたしにはない家族とのつながりを示すあのリボンを取り戻すことで、自分を慰めたかった。
シスターは余計な相槌をせず、ただ頷いて聞いていた。
最後にはきっちりわたしを叱った。それから不用意に魔法を使うことに関して釘を刺され、魔法訓練の量も増やされた。
しかしカミロの帽子を取ってあげたこと――手段は置いておいて、積極的に人助けをしたこと――に関しては、少し大げさなくらい丁寧に褒められた。
親無しのくせに困ったときに大人を頼るなんて思考が当たり前にできたのは、シスターがいたからなのだろう。
また世界が崩れ、孤児院の中の部屋に移った。壁際に並んだ2段ベッドのひとつにカミロが腰かけている。シスターとのお話が終わった後、わたしの部屋に移動したのだ。魔法がいつ暴走するか分からないからと、わたしは余った部屋をひとりで与えられていた。当然、わたしとカミロの他には誰もいない。
「……あの、さ」
ためらいがちにカミロが切り出した。少し傷のついた帽子を、大事そうに抱きかかえている。
懐かしさとあの日の気まずさが胸の中をかき回す。
「……何?」
わたしの口から思っていたよりずっと、とげとげしい声が出る。
カミロはそれを聞いてびくりと身を震わせた。
「あの、ごめんね。お、怒ってる、よね……」
「別に……」
「僕のせいで、シスターにも怒られたんでしょ……?」
ここまで会話をしてやっと、わたしはわたしの態度にカミロが怯えていることに気が付いた。
涙をとめてあげたかったはずのはちみつ色の瞳に、また涙がにじんでいる。
「……わ、わたしが、やりたくてやったことだからっ」
カミロの泣き顔を見ていると、心臓のあるところが握られたようにぎゅうっと痛む。あの頃の私は、この感情が”悲しい”だと知らなかった。
わたしは比較的汚れていない方の袖口を、カミロの顔に押し付ける。
「わぷっ」
「……カミロ、泣かないで」
慣れない手つきでぐいぐい押し付けると、カミロの瞼が少しだけ赤くなる。
涙は止まっていたし、少しだけ表情も柔らかくなっている気がする。
「アイナは、やさしいね。……ありがとう、たすけてくれて」
「やさしいとかじゃ、ない。けど、どういたしまして」
「うん。ありがとう!」
少しだけぎこちなく、それでも笑顔で見つめ合った。
再び世界が遠ざかり、今度はぼんやり意識が薄れていく。今度は夢から覚めるのだと直感的に思った。
遠くから、少年の声が聞こえる。
「――ナ、アイナ。ねぇ起きて。起きてってば」
体を揺さぶられて重い瞼を持ち上げると、こちらを覗き込むはちみつ色の瞳と目が合った。夢の中と変わらない、透き通った綺麗な色だ。
木陰で眠りに落ちて居たらしい。葉の隙間から差し込む光が眩しくて、何度も瞬きしながら、ぼんやりカミロの瞳を見つめた。
「寝ぼけてるの? また、おかしな夢でもみた?」
くすくすと笑う笑い方も、顔立ちも背丈も少し大人びた。あの頃のような帽子はもう被っていない。しかし青色のリボンは相変わらず肌身離さず身に着けていて、伸びた髪を結うのに使っている。
思えば、あれからもう5年が経った。
「……今日は、普通の、昔の夢」
「へぇ、珍しい。ぼくの夢かな」
いたずらっぽく笑う顔。5年前までは一度も見たことが無かった親し気な雰囲気に、しみじみと時の流れを感じる。
「……そう。カミロの夢」
「えっ、ほんとに? へへ、そっかぁ!」
自分で言ったくせにカミロは照れたように、嬉しそうに笑う。
「帽子、かぶらなくなった」
「うん、そうだね。ちゃんと大事にしまってるんだよ」
「そっか」
「アイナが取り返してくれた、大事な帽子だからね」
「……そっか」
カミロの言葉を聞くと、いつも胸が温かくなる。
風に吹かれて木の葉がひとつ、舞い降りてきた。




