1 森の中の死体
人肉の腐敗する匂いが辺りを一様に覆っていた。アイルは匂いの中心へ向かった。
アイルは森の狩人だった。
森では常に幾万の生とそれと同じ数の死があった。およそ獣は同族の死の匂いを避ける。蛆のたかる仲間の死骸は猛獣の心でさえ悲哀に染めてしまう。彼らは危険の兆候から常に逃げた。そして病や疫病を避けたのだった。
同族の死体の匂いは全ての獣が本能から真っ先に避けるものだった。
今、この森で、人肉の腐敗する匂いが辺りを一様に覆っていた。
アイルは水辺の葦際に近づいた。朝方の川辺は濃い霧に覆われていた。湿気を吸った空気の腐敗臭がアイルの鼻孔を刺激し吐き気をもよおさせた。彼は憂鬱になった。
静かな水辺にカエルの鳴き声が響いていた。彼はぬかるんだ土をゆっくり踏みしめながら歩いた。やがて葦際の向こうに何かが見えた。彼は臭い空気を口から思い切り吸い込み,呼吸を止めた。そして葦をかき分け水辺を覗き込んだ。
水辺に死体が浮いていた。
死体はうつ伏せに浮かんでいた。灰白色に淀んだ水底へ向かって両手をだらんと垂らしていた。水面から突き出た死体の背中に黄色い蝶が止まっていた。
死体の背中は緑色だった。死体は人間ではなかった。
死体はオークのそれだった。大の大人の二倍はあろうかという筋骨隆々とした背中のこぶが静かな水面から岩のように突き出していた。水辺の淀みに波紋の一つも立てずにオークの死体がただ浮いていた。
霧が少し動いた。陽の光が少し射した。そして川底の何かがわずかに煌めいた。
アイルは身を乗り出し目を凝らした。そして水中の何かを覗き込んだ。オークの死体の真下に銀色に輝く何かが揺らめいていた。
やがて霧が晴れた。水中に光が射した。光は水中の”何”かを明るく照らし出した。
それは人間の死体だった。死体の顔は白く蝋化し膨れ上がっていた。白く濁ったむき出しの青い双眸がアイルを正面から見つめ返した。波紋一つない水面に沈む彼は琥珀に囚われた蜂の死骸を思わせた。死体は甲冑の重みで半ば泥の中に沈んでいた。
アイルは水に飛び込んだ。そして死体の両足を握り葦際に引きずりあげた。アイルの両手が腐り溶けた両足の肉にくい込み指の跡を残した。
彼は死体を地面に寝かせて観察した。鼻はもげて黒い穴が空いていた。死体の甲冑には真ん中に小さな穴が開いていること意外は目立った傷はなかった。
これは、銃創だろうか。
彼は再び水中に飛び込みオークの腕を掴むと、それも葦際に引きずりあげた。その肌は爬虫類のようなザラザラとした硬質な皮膚をもっていた。そして腕を引っ張り死体を仰向けにした途端、アイルはぎょっとしておもわずのけぞってしまった。
オークの大きな重い頭が急に転がりぐるりと回転しておおきなげっぷを吐いたのだ。死体の口から湧きたつ強烈な硫黄臭にアイルは思わず顔をそむけた。顔面が裂けるほどに開いたオークの大きな口には汚い黄色い犬歯と虫歯で黒く腐った臼歯が密に並んでいた。その大きく虚ろな黄色い双眸は焦点の定まらない目で天空を見上げていた。口の端から水が滴りこぼれ、今にも生き返り動き出しそうな気配さえ感じさせた。
しかし、もちろんオークは死んでいた。その膨れた下腹部には短剣が深く突き刺さっていた。アイルはその短剣を引き抜いた。裂けた下腹部から嫌な色をした液体が吹き出しあたり一面に飛び散った。
アイルは短剣を葦で拭うと地面に置いた。そして兵士の死体を乾いた地面までずりあげると、人を呼ぶため村に走った。
岸辺に上げられた死体の周りには村の大人たちが集まっていた。彼らはアイルが呼んできた村の住人だった。
「南部連隊の兵だな」もっとも年長の老人がいった。彼はアイルが住むスホルト村の村長だった。彼はハゲ上がった頭に茶色の粗末な外套を着ていた。そして太いねじくれた木の杖を握っていた。老人はかつては名の知られた魔法使いだった。
人類とオークは長らく戦争状態にあった。南部連隊とはロードラン国の南の国境を守護する軍隊であった。アイルの住むスホルト村もロードランに属していた。
「年齢は三十といったところか。認識票がある」村長が言うと、首から下げられた銀片を取り上げた。
「お名前は何とおっしゃるのですか」アイルが聞いた。
「名前は書いてない。数字が書いてあるんだ」屈強な体躯をした短髪の中年男が代わりに答えた。彼はヤゴーといいスホルト村の猟師たちの長だった。
「数字はなんと」アイルが聞いた。
「Ⅱ、Ⅱ、Ⅵ、Ⅳだ」村長は答えた。男たちは死体を横倒しにすると甲冑の帯をはずし脱がせた。甲冑の穴は胸甲を貫通し胸の心臓を穿っていた。砕けた鉄板の破片がすぐ下の肉をズタズタに引き裂いていた。
「銃創のようだな」村長は言った。そして節くれだった細い指を死体の崩れた肉の傷穴に突っ込んで中を弄った。やがてその細い指は鉛の塊を探り当てた。鉛の礫はひしゃげて平らに潰れていた。「決まりじゃな。皆よ、オークの銃を探せ」
皆散り散りになり、近くにオークの足跡や戦闘の痕がないか探しに行った。アイルは三たび水の中に飛び込んだ。そして死体の浮かんでいた地点まで泳ぐと、顔を水につけゆっくりと水中を調べ始めた。やがて彼は泥中に沈む銀色の物体を見つけたので、足先で泥を掻き出し、水中からその物体を引き上げた。それは持ち手に細かい錫の細工が施された短銃だった。しかし、アイルも銃器に詳しいわけではなかったが、火ばさみや火蓋などは見たことがない形をしていた。
「ありました!」アイルは声を上げて知らせ、村長のもとに舞い戻った。村長は銃を受け取り軽く調べた後、言った。
「弾は入っていないようだな。これは私が見分しよう。遺書は見つかったか?」
「ありました。」死体を調べていた痩せた男が答えた。彼はゲイルといいヤゴーと同じく年長の猟師だった。彼が胴鎧の裏側を見せるとそこには封が貼り付けてあった。
「ここではまだ読まん」村長が言った。「彼は魔物と戦い村を守った。丁重に葬ってやろう」
「オークはどうしますか」ゲイルが聞いた。
「川に捨てて魚の餌にでもしておけ」村長が言った。ヤゴーがオークの死体を蹴り飛ばすと、それは静かな水面に派手な飛沫をあげて落下した。そしてそのままゆっくりとどこかへ流れていった。
男たちは兵士の死体を運んで村に戻った。
スホルト村はロードラン南部にありがちなあまり文明らしからぬ限界集落のひとつだった。
村は幅十フィートほどの堀に囲まれ、トウヒの木の杭を打ち込んで作られた要塞壁で囲われていた。等間隔で並ぶ六つの櫓の上には巨大なバリスタが据え付けられていた。それは、空からの竜の襲撃に備えたものだった。そして広い中庭には外部の堀とつながった六芒の魔方陣が描かれていた。
その魔方陣は、ダヴィデの防御陣と呼ばれていた。円の内部に六芒星を描いた魔方陣は、その単純図形にもかかわらず一切の魔力を跳ね返した。これはおよそ三千年前にロードランを支配したダヴィデ王の手により残された呪いの一つだった。
ロードラン南部では、この魔方陣を利用し、王権の支配を嫌って山脈のそばに構えられた集落がいくつもあった。スホルト村もそういった未開部族の一つであった。
アイル達は堀に掛けられた丸太の橋を渡った。二十軒ほどある家に囲まれた中庭では、女衆がすでに飯の準備を済ませていた。
村の広場では男衆が集まり火を囲って朝食の粥をかきこんでいた。焚き火の周囲には一人一本の焼き魚が串に刺されて炙られていた。アイルはニジマスの背中にかぶりついた。塩の効いた背中の身は柔らかくてうまかった。
「食いながら聞け」村長が言った。「皆も知っての通り今朝オルド川のほとりで死体が上がった。死体は南部連隊所属の兵士だ。恐らく南の防衛線のどこかが突破されたのだろう。彼はオークと戦い我々の村を守った。丁重に葬ってやろう」村長が銃を取り出しながら言葉を続けた。
「おそらくこれが兵士を撃った銃だ。見ての通り火蓋などはついていないが……」そう言いつつ村長は銃の引き金を絞った。打鉄のからくりが弾け、眩しい火花が瞬間的に舞い散った。「先端に火打ち石がついていて、この火花で火薬に着火するようだ。わしはこの仕組の銃を初めて見るし、鍛冶連中もこんなものは見たことがないらしい。となるとオーク達が開発したものだろう……やつらの技術のほうが人間より先んじているということだ。これは火縄に点火する手間がないから便利だし、夜間の襲撃にはもってこいだろう。もしこれで砦が攻撃されているのなら、まずいことになっているやもしれん」
村長は節くれだった指で銃の引き金をなでながら、続けた。
「南へ使いを出したい。既に他のオークが侵入しているやもしれんから三人使いを出すことにする。ヤゴー、ゲイル、アイル、お前たち三人で行け。領主様にもこのことを知らせねばならぬ。カイン、お前は銃を持ってネーヴェに向かえ。ルーはカインと川を下ったのち、アロンゾに向かいこのことを知らせろ。さて、飯が終わったら皆で墓を造ってやろう」
飯の後に男衆全員で村外れの墓場に穴を掘った。墓地にはまだ数えるほどの墓石しか立っていなかった。村がこの場所に造られてから四半世紀も経っていはなかった。
鎧、革靴、剣を外された兵士は穴の中に手を組んで横たわっていた。武具は全て村で再利用される予定だった。それは限界集落の生きる術だった。
「遺書を読み上げる」村長が言った。「我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え」村長は皆を見渡していった。「この遺言託された。この言葉必ず砦に届けようぞ」死体は埋められ名前の刻まれない墓石が立てられた。
半刻後、アイルは出立の準備を終え村の出口でヤゴーとゲイルを待っていた。そこに若い男が近づいてきた。男は村の鍛冶見習いでルイといった。
「アイル、受け取れ」ルイは鞘に入った短剣を手渡した。その短剣はオークの腹に突き刺さっていたものだ。
「研いだ」ルイはいった。「よく切れると思う」
「ああ」アイルはそう言って短剣を鞘から抜いた。アイルは磨き研がれたそれを改めて見て驚いた。ダマスカスだ。肉厚の刀身は黒く、妖艶な波紋は油染みた黒い光を反射した。ただ刃の縁だけは銀一線に鋭角な光を放っていた。彼はこの短剣を非常に気に入った。
やがて準備を終えたヤゴーとゲイルがやってきた。三人は村を出発した。
こうして三人は川の上流へ向かった。はるか遠方にはウルゴーン山脈の白い山麓が夏の日差しを受けて銀色に輝いていた。八月の入道雲は高くたくましく天空に向かって立ち上がっていた。トウヒの濃い緑の森から真夏の山林の生命の匂いが漂っていた。山は狩りの季節だった。
抜けるような青空と渓流がもたらす静謐な空気の中3人は川を上っていった。
オルド川の透明な水の中にはたくさんのニジマスが泳いでいた。 平和な日常であるならすぐにでも村に戻って3人で釣竿を出すところだった。ニジマスはアイルたちの足音に反応してどこか下流へと逃げていった。
上流から夏の爽やかな風が吹いた。3人は黙って歩いていた。そのとき突如森で何かが蠢いた。
狩人の習性から3人は即座に身構えた。
小さなイボ猪が森の隙間から顔を出した。そして川の水を飲もうと一歩小道へ足を踏み出した。ヤゴーが滑らかな動きでそれまで肩にかけていた弓をかまえ、そのまま音もなく弦を引き絞り矢を放った。矢はこちらを振り向いた猪の眉間をドスリという音を立てて貫いた。猪は硬直し、四肢を投げ出したまま横倒しに倒れた。
「無駄な殺生はするな」ゲイルが言った。
「なあに血抜きで川に放り込んでおいて帰りに持って帰ろうと思ってね」ヤゴーが答えた。
「そうか」ゲイルは一言だけ言った。
3人はイノシシの喉を割いた。1分足らずで腹を開いて内蔵を取り、後ろ足に石を括り付けたあと、川の淀みに沈めた。吹き出した血が煙のように水中で吹き出し下流を赤く染めた。
3人はまた川を上り始めた。
また森から獲物が出てきやしないかとヤゴーは足取り軽く歩いていた。しかし森に動物の気配はなかった。それどころか上流へ進むにつれて森はいやに静かになっていった。
「何も出てこねえな」ヤゴーはいった。
鳥の声すらまばらになっていた。ただ渓流を流れる川の音だけがこの谷の隘路に響いていた。3人はやがて押し黙った。冬の森でもここまで静かではなかった。
やがて彼らは森に潜む危険を確信した。この異様な感覚は危険な魔物が近くにいるときのそれだった。狩人の本能が彼らの足を重くさせた。ただ村から託された責務が彼らに後退を許さなかった。しかし前進するにつれ異様な気配はさらに濃くなっていった。
「嫌な感じだな。一旦村に戻るか?」ヤゴーが聞いた。
「いや、このまま進む」ゲイルが答えた。「どうせダンもここまで狩りに来るし、すぐ気づくだろう。あの兵には義理立てがある。砦の兵にもだ。はやく訃報を知らせないとな」3人はそのまま進んだ。
彼らはやがて急峻な渓谷に差し掛かった。
「なんじゃこりゃ」ヤゴーが言った。それは村の人間たちが長年使ってきた蔦の吊り橋だったが、橋の真ん中がなにか重いものを支えたかのように大きくへたり込み、底板の何枚かは抜け落ちていた。明らかになにか大型の魔獣のようなものが吊橋を通過したのだった。彼らは渡るのを躊躇し、しばらくの間対岸に目を凝らしていた。
「渡るしかねえ」ヤゴーが言った。三人はそろそろと橋に向かって足を踏み出した。
橋の両端を支える蔦は引き伸ばされ、所々皮が剥げ落ち、薄緑色の真皮が覗いていた。三人は橋が揺れないように慎重な足取りで歩いた。
やがて底板が大きく抜けている橋の中央部に差し掛かった。下を覗くと、白いしぶきを上げながら激しく流れる急流が遥か下方に見えた。
「一人ずつ行くぞ」ヤゴーは言った。彼は橋の両脇に渡された細い蔦を伝い、そろりそろりとかに歩きの要領で渡っていた。
彼が穴の中間ほどに差し掛かったころ、渓谷に突如として強い一陣の風が吹いた。
風は橋を左右に激しく揺らした。ヤゴーは蔦に腕をからませ、橋に余計な揺れを加えぬようなるべく身を動かさずに堪えた。
やがて風は止み、橋の揺れも収まった。ヤゴーはアイル達に顔を向け、子供じみた笑顔を見せた。
「あぶねえあぶねえ」彼はそう笑うと、今度は大股にひょいひょいと橋を伝い、ものの5秒で穴を渡り切った。
「なんてこたねえ、俺たちはびびりすぎぜ」彼は言った。「普段の調子でぱぱっと渡っちまえばいい」
アイルとゲイルも次いで橋を渡り、彼らは先へ進んだ。
こうして時間を使っているうちに陽が落ち森は暗くなった。予定ならば既に城に到着し、遺言書も渡して帰路についているはずだった。しかし道の異様が彼らに先を急ぐことをためらわせた。新月が過ぎたばかりの今の森は常時より暗黒に近いのだが、今のこの森の暗闇には質量さえ感じさせる何かがある。
彼らは一度歩を止め、木立の中で一夜を明かすことにした。
しばらく濃いシダの下生えの中を漕ぎ進むと、いい具合に開け、木々に囲まれたくぼみを見つけたので、ここに番を取ることにした。
アイルは乾いた枝を集めに行った。楡の乾いた倒木を見つけると、腰の短剣を抜き枝を切り落とした。初めて使うそのダマスカスの短剣は、細身の割には重量があり、枯れた細い枝を易易と断ち切った。
ヤゴーは小さなスコップを荷袋から出すと、土を一箇所に盛り上げ、その中腹にくぼみを作ると、アイルから手渡された枯れ枝をそのくぼみに積み上げた。
ゲイルは二股の枝を盛り土の天辺に突き立てると、長い枝をその盛り土の上を通るように掛けた。そして荷物入れから乾いた布を取り出し三角形の二辺のように穴の上にかぶせた。
こうして簡素だが小さなテントができた。この方法は山に籠もる猟師の間で広く行われており、焚き火の明かりは外にはほとんど漏らさずに簡易に暖を取ることができた。
ヤゴーは干し肉を取り出し、しばらく眺めてから口に含んだ。
「炙るなよ」ゲイルは言った。「匂いが出るからな」ゲイルは付け加えた。
「んな馬鹿なこたしねーよ」ヤゴーは応えた。
普段の狩りならそこまで気を使わずに暖を取り飯も温めた。ヤゴーは無類の肉好きで一緒に狩りにでかけたときは珍しい獲物を色々焼いてくれたものだった。アイルは干し肉を受け取ると塩気の効いたそれを唾で濡らし肉のエキスをちびちびと吸った。
ゲイルは荷物から竹で編んだ鳥かごを取り出した。その中には紫じみた光沢を持つカラスが体を細くせばめて収まっていた。鳥かごの蓋を開け外に出すと、カラスは羽を羽ばたかせ、羽毛を膨らませて元のふっくらとしたカラスらしい姿になった。
このカラスはトワと言った。非常に賢いカラスで、ゲイルのパートナーとして山深くの狩りを手伝っていた。彼は村人全員の顔と名前まで記憶しており、簡単な使いすらこなすことができた。村人達もこのカラスをよく知っていた。その黒く鋭く光る双眸を見れば、彼に鋭敏な知性が宿っていることがすぐにわかった。
ゲイルは干し肉を口に含み、よくかんで柔らかくしたあとトワの前に差し出した。トワは口の端に肉を挟むと、頭を逆さに天に向けて一息で飲み込んだ。
それを見ていたヤゴーは奥歯に指を突っ込み肉の食べかすをほじくり返すと、指の先に乗せてトワの前に差し出した。
トワは食べかすをついばむと、「プワッッ!!」という奇声を上げ唾ごと焚き火の中に放り捨てた。
「こいつ俺のこと嫌ってんのな」ヤゴーは言った。アイルは笑った。ゲイルは下を向いてニヤついていた。
アイルも自分の肉を裂いてトワに与えた。そして彼の頭を優しくなでた。
その後3人は焚き火の爆ぜる音に耳を傾け沈黙していた。
「あの猪の肉、血ぃ抜けすぎてもうだめかもなあ」ヤゴーが唐突に言った。
「もう腐りはじめてるかも」アイルが応えた。
「バッカ、半分腐ってるのがうめえんだよ。いつも言ってるだろ」
「まあ多分ダンか誰かが見つけて回収してるだろ」ゲイルが言った。
「けっ。あいつのために狩ったんじゃないわい」
しばらくの沈黙のあと、ゲイルが立ち上がりながら言った。
「俺が最初の夜番をするから、お前たちは寝ろ。まずお前を起こすから、時間が来たらヤゴーはアイルを起こせ」ゲイルはヤゴーを見ながら言った。ヤゴーは手で返事をすると、頭の後ろで手を組み目を閉じた。するとすぐに寝息を立てて眠りについた。彼は見た目通り豪胆な男だった。テントが手狭なのでアイルはヤゴーの腹の上に頭を乗せ寝た。
アイルがやがて目を覚ました時、眼前に広がる空は薄暗い青色に染まっており、細い雲が高い空にゆっくりと流れて言った。セキレイの鋭い囀りが湿った夏の空気に響いてきた。アイルはゆっくりと体を起こした。雀の小さな囀りがセキレイの声に加わり、続いてキジバトの特徴的なあの声が谷間の下方から響いてきた。
虫が一斉にその声を奏で始め、カエルの求愛がそれに続いた。久々に生気を取り戻した森はすぐにやかましささえ感じさせるほどになった。アイルは目やにをこすりながらあぐらをかくと、二人は既に出立の準備をしていた。
「ごめん、起きられなかった」アイルは言った。
「ガキが細かいこと気にすんな」ヤゴーが答えた。「森ももういつも通りさ。なんてこたねえ、さっさと砦に行って用事を済ませようぜ」
アイルは自分の荷物を担いで立ち上がった。
しかし、道を奥へと進むに連れて、森は再び静まり返っていった。早朝は上機嫌だったヤゴーも、今は押し黙って歩いていた。夏の緩やかな風に揺れる梢の捺さめきだけが森の中に響いていた。
その時、何かの音がかすかに空気を震わせた。
アイルはちょうど地面を蹴り上げたタイミングだったため、その音を聞き漏らした。
森のどこかで鳥が数匹鳴き声を上げて羽ばたいた。
「銃声か?」ゲイルが言った。たしかに銃声だったような気もする。アイルは自分の心臓の鼓動が少し早まるのを感じた。三人は森の下生えに浅く入り込み、しばらく様子を伺った。しかし何も起こらないので、また歩き始めた。
森は暗い洞窟の奥底のように、一つの物音も立てず静まり返っていた。
やがて三人は滝にさしかかった。滝を囲む冷たい霧の中に艶やかな虹がかかっていた。滝壺の冷気に、真夏の日差しの最中にもかかわらずアイルは寒気を覚えた。アイルは歩きながら何となしに滝を眺めていた。
その時、アイルの目が滝の上の渓流を流れてくる何かを捕らえた。
それはきらきらと金属光沢を反射している、周囲とは異質な何かだった。その物体は渓流の複雑なカレントに巻き込まれ、ぐるりと自身を回転させた。
それは、川の流れに押し流される人間であった。
彼は力なく水面に浮かび、頭を反ってなんとか水面に顔を突き出していた。その見開いた青い双眸は天を仰ぎ、その口は苦悶の表情で誰かに助けを求めていた。
このままでは、滝壺に落下する。
アイルは走った。
アイルは滝を通り過ぎると、すぐに川に飛び込んだ。渓流の水の冷たさがアイルの肌を刺した。アイルは男の腕を掴み、腰に手をまわして岸際に引っ張った。苔むした川底の石にアイルは何度も足を滑らせた。浅瀬まで引き寄せると、岩と自分との間に男を挟んで押しとどめた。緑の苔が岩から剥げ落ち、滝壺の底へ流れていった。
アイルが男の腰に回した手を引き抜くと、その右手は血で真っ赤に染まっていた。アイルは何事かと顔を上げて目の前の人間を見た。
彼は兵士だった。そして兵士の鎖帷子を貫いた腹腔の傷穴からは、おびただしい血が流れ出ていた。腰から下げた長剣の鞘が川の流れに揺られかつんかつんと岩を打ち付けていた。
兵士は何かを喋ろうとし口を動かした。アイルは耳を男の口元に寄せた。川の冷たい冷気の中で男の温い息を耳元に感じた。兵士は言った。
「オークの襲撃だ……。砦がオークどもに襲われた」
兵士はそこまで言うと苦痛に顔を歪ませ肩で息をした。彼は続けた。
「聞いてくれ……城に裏切者がいる……そいつの名前を言う……」
アイルは兵士の顔を直視し、はっきりとうなずき先を促した。
「クラウザー……クラウザーが裏切者の名だ」
「クラウザー」アイルはその名前を繰り返した。
兵士はこくりとうなずいた。「符牒がある……『その王命は銀である』と」
「その王命は銀である」アイルは再び兵士の言を繰り返した。
兵士はうなずき、そしてアイルの腕にすがり、言った。「王弟だけに直接話すんだ……」
「王弟に直接」アイルは繰り返した。
兵士はうなずういた。そしてなにか話そうと口を開いたが、大きく咳き込むと、血が絡んだ痰を吐き出した。彼はあえぎながら言った。「追っ手がもうくる」
アイルは上流を覗き込み、驚嘆に目を見開いた。
二体のオークが腰まで川に浸かりながら大股でこちらに近づいてきた。アイルはすぐに岩陰に顔を引っ込めた。やつらの右手に例の短銃が握られているのが見えた。アイルはヤゴー達を振り返り、手振りで上流を示した。彼らはオークを視認すると、強く頷き森の奥へ入っていった。
「滝の下に逃げます、しっかりつかまって」
アイルはそう言い兵の両脇の下に腕を差し込むと、滝の縁まで引きずっていった。滝壺を覗き込むと、白い霧に遮られて底の様子が見通せなかった。一瞬の躊躇のあと、アイルは兵士を抱えて滝壺に飛び込んだ。
激しく着水した直後、氷のような冷たさがアイルを包んだ。何万もの小さな気泡がアイルを取り囲んだ。滝壺の底から見上げる水は水晶のように青く美しかった。水面は太陽に照らされ眩しく輝いていた。
彼は水面に浮き上がり、兵士を引っ張り上げて滝壺のくぼみに入り込んだ。
オーク共が滝の上から覗き込んだ。アイルは息を潜め、次に起こることを待った。しかし、滝の流れに遮られてオークどもはこちらを視認できなかったようだった。しばらくすると二体のオークは上流へゆっくり帰っていった。
再び兵士を見ると、彼は既に息絶えていた。アイルは兵の認識票を取り外し首にかけた。そしてその場にしばらくとどまった後、滝壺から出て渓流の岩肌を登り小道に戻った。ヤゴーとゲイルも森から出てきた。2体のオークの背中が川の上流に見えた。
「襲うか?」ヤゴーが訊いた。「水に濡らせば銃は使えんだろう。なんとか殺す方法があるかもしれねえ」
「いや、追跡だけする」ゲイルが応えた。「俺達の存在を気取られたくはない。隠れて様子を探ろう」
3人はオークを追って上流へ進んだ。




