出立
右手に伸びる大通りのはるか先には城門の上に高くそびえる櫓が見えた。城壁は分厚く三十尋もありモラクス討伐以降に外敵の侵入を許したこと一度もなかった。安全と都市の美しさが人々を惹きつけた。
市場は喧騒にあふれていた。ここでは魚の匂いがした。魚の卸業者が大声で競りを行っているのが聞こえた。そのすぐ隣は材木売り場で、商人然とした二人が何かを書き付けていた。その隣は絨毯売り場だった。異民族のような風体をした老女が暇そうに店番をしていた。
通りは人でごった替えしていた。ある店の前に人だかりができていた。そこには子供や貴族然とした格好の人間も集まっていた。アイルが人ごみをかき分けて進むと、店の奥で競りが行われていた。魔物の競りだ。生きた魔物が口輪をされて見世物にされていた。それはサラマンダーと呼ばれる火を吹く巨大なトカゲだった。ドラゴンの亜種らしいが翼は小さく退化していた。魔物達には珍味なものも多く、内臓などは足が速く腐りやすいので狩人などが生きたまま市場に持ち込むのだった。見物人の子供が棒でサラマンダーをつつくと魔物は身をくねらせて地面を転がりまわった。人々はそれを見て笑った。やがて競りの鐘が鳴り競売が始まった。アルスはその場を離れた。
アルスは市場をぶらぶらと歩いた。そして目的地にたどり着いた。肉の焼ける香ばしいにおいがしてきた。その屋台では羊の肉の串焼きを売っていた。彼が店前に並ぶと店主は目礼を送り黙って二本の串焼きを差し出してきた。アルスは無言で銅貨を支払った。
彼は店主に顔を覚えられたいた。この百万都市の中でアルスを知っているのは彼を含めてわずか八人しかいなかった。そして本当の名前を知っているのは五人だけだった。アルスは肉にかぶりついた。肉汁とタレの香ばしい味が口の中に広がった。
彼はまたあてもなく市場を歩いた。ここの商売人たちは互いに長く知った人間なのだろうか。彼らはアルスと逆で顔が広いほど有利な職業だった。定住し妻を娶り名士として知られる人間もいた。どれもアルスとは縁のないものだった。
アルスは冒険者になりたかった。正確には冒険して商売がしたかった。自分の発見した宝を売り知己を増やし、店を構え商売を大きくする……ということをやってみたかった。しかしそれが具体的にどういったものごとなのか、というと皆目見当もつかなかった。
彼は世間のことを表面的にしか知らなかった。
”アルス”には友人がいなかった……偽名で長く付き合う友人はいた。組織はそういったことについて特に口をはさんでこなかった。
彼は自分の仕事が嫌いだった。
昔は自分の意志というものがなかった。意志を持ったいま彼は空虚だった。
ローゼンハイムの都市中央には四柱に囲まれた祭壇の遺跡が千年前の姿のまま残されていた。
それはかつては邪神モラクスの魔法陣だった。
岩盤に穿たれた直径二百フィートほどの魔法陣はソロモンが地獄との扉を開き悪魔を現世に呼び寄せるために使ったものだった。
魔法陣は中央から真っ二つに引き裂かれており、魔界との力の繋がりを絶たれたモラクスはそのまま討たれて死んだ。
アルスは遺跡を遠くから眺めていた。
王たちとの会話では不明な点がいくつかあった。
王の口ぶりからすると、英雄ロキがアスタロトと内通していたことを国の上層は確信しているらしい。
しかしそれは、そもそも王族が認めうる事柄なのだろうか。
だがアルスはものを訊ける立場ではなかった。
国家の内情に深入りするのは身の危険を増すだけだった。そもそもそれは闇の住人に許される行為ではなかった。
なぜロキはアスタロトを”封印”したのだろう……封印とは一体何のことなのだろうか。
魔法陣を破壊すれば悪魔を殺せるということはある程度自明なことのように思える。
今アスタロトが生きているならば魔法陣は南のどこかに残されているはずだった。
ロキは叡智を求めて南へ向かったという。その後の記録に残らない時間ロキはどこで何をやっていたのだろうか。
そもそもなぜ”叡智を求めて南へ向かう”ことがアスタロトと通じることに飛躍するのかアルスには分からなかった。
恐らくそれが、国体の秘密なのだろう。王は何かを知っていた。先祖が悪魔と関わりを持った事実に否定的ではないらしい。
アルスは遺跡をあとにした。
ローゼンハイムの巨大な城壁の周りは幅100フィートの巨大な堀で囲われていた。前日の雨に露と濡れた緑の瑞々しい土手のほとりで、一人の兵士が甲冑を着たまま釣りをしていた。
昼休憩の際の交代勤務時にそのまま川釣りをするのが彼の日課だった。このたるんだ軍務態度にも誰も文句を言わなかった。都市の平和は誰もが確信していた。
彼のもとへアルスが土手を降りて歩いてきた。彼は釣り竿を脇に抱えていた。
「釣れてる?」アルスは聞いた。
「全然」兵士は答えた。この兵士も同様に若かった。兜を脱いだ兵士の丸みを帯びた目鼻立ちはまだまだ少年の面影を残していた。
アルスは兵士の脇に腰を下ろすと、兵士のエサ箱を勝手に漁りミミズをつまみ出し、針先にちょん掛けして水辺に放り込んだ。二人はしばらく水面を見つめていた。静寂のまま時は過ぎた。釣り糸の先の浮きはピクリとも動かなかった。
「突然だけどさ」アルスは言った。「お別れを言いに来た」
「なに別れって」兵士の若者は答えた。
「仕事で遠くに行くことになった。たぶん今生の別れだと思う」
兵士は目を細めて若者を見上げた。友人の顔は逆光の影になり表情がよく見えなかった。
「仕事って?」兵士は訊いた。「お前ってさ、結局何やってるやつなの?」
アルスは答えなかった。
「遠くってどこいくの」
「南のどっか」
「どっかって。唐突だな」
二人はしばらく押し黙った。兵士は水面を見つめたまま言った。
「まあ頑張れよ。達者でな、アラン」
「アランじゃないんだ」アルスは言った。兵士はまた振り返って友人を見つめた。
「”アルス”っていうんだ。俺の本名」
「そっか」兵士は水面に向き直って言った。「アルス。きっちり覚えた」
「ありがとう」アルスは答えた「お前も達者でな」
兵士はうつむいたまま水面を見つめていた。視界の外で若者が立ち上がり芝を踏みしめ去っていく足音が聞こえた。やがて兵士が振り返ると、アルスの姿はもうそこにはなかった。
修道院に併設された孤児院では子供たちが玉蹴りをしてあそんでいた。
牛革でできた丸い玉を枠で囲った相手の陣地に放り込む遊びだった。体の大きな少年が浮き上がった玉を直接空中で捉え相手の陣地に蹴りこむと、子供たちの間で大歓声があがった。
子供達の遊びは毎年変わった。孤児院を出た少年たちから毎年贈り物が送られてくるのだ。
この歓声をあげる子供達も十三歳で職を得てこの孤児院を出ていくのだった。
年老いた僧が子供達を眺めていると、人の気配がした。振り返ると、金髪の若者が立っていた。
「寄付を申し出たいのですが」若者は言った。
「それはそれは」老人は言った。「大変ありがたいことです。あなた様に神の御加護がありますように」
老人は若者から袋を受け取った。そしてその重さに支えきれず袋が手からずり落ちた。袋の口紐が解けて中に大量の金貨が入っているのが見えた。
「これは」老人が顔をあげて言うと若者はすでに背中を向けて歩き去っていた。老人は息を呑んだ。彼はその風になびく淡い金髪に見覚えがあった。
「アルス!」老人は言った。「きみはアルスじゃないかね!」
若者は振り返らず門をでた。老人は後を追ったがもう通りに若者の姿は見えなかった。
東の巨大な城門は閉門直前にもかかわらず人通りが多かった。
巨大な跳ね上げ橋の昇降装置は四十頭の馬で引くほど巨大だった。そして跳ね上げ橋をつなぐ鎖は人の胴ほど太かった。
城門の櫓ははるか高くにそびえ立ち、その高さを見上げるだけで畏怖を覚えるほどだった。
アルスは城門の天井を見上げながらくぐるのが好きだった。城門をくぐり終えた直後の外界の危険に無防備に身をさらすのがなんとなく好きだったのだ。
門の外は美しい草原が広がっていた。新芽の強く芳醇な香りがした。春の風が草原を駆けた。
堀にかかる橋を渡りきると、アルスは衛兵に目礼し馬を駆けた。




