8#よくある傷痕
湯の中で私が手で掬い上げたお湯が、パシャリと音を立てて跳ねる。透明で暖かな湯に浸かりながら、私は腑に落ちない事柄に眉根を寄せていた。折角の湯浴みだというのに、あまり心楽しい気分になれないのは、此処にくる前に部屋でディから聞いた言葉のせいだ。
「ディは何者なの?」
「あん?」
ディが紹介してくれた宿は確かに食事が美味しく、その食堂で食事しながら私とオーサーは、改めて彼に問いかけてみた。
「なんで私らについてきてくれるわけ?」
「なんでって、面白そうだからに決まってんじゃん。今時、刻龍につけ狙われるような面白いガキなんてなかなかいねぇしな」
予想通りにあっさりとディから返されてしまったが、私にはあまりにも信じがたい。オーサーはそれなりに納得していたし、これまで相対してきたディの性格からは理解もできるのだが、私にはどうにもディにそれ以外の何かがあるように思えてならないのだ。
それにディはああいったが、私には面白いで片付けられるような問題でもない。もちろん、腕の立つディの護衛は私にもオーサーにも願ってもない申し出ではあるのだが、それにしたってディは登場から何から不自然すぎる。宿の食事でも結局かわされてしまい、私の中にはまだ疑問だけが燻りつづけている。
(なんなんだろ、あの人)
出会った時から私の中にある漠然とした安心感が、余計に私を混乱させる。私は初対面の人間に気を許すなんて物心ついてから一度もないのに、あのオーサーにだって本当に気を許したのは時間が必要だったというのに、安々とディだけが私の領域に入り込んできた。ディ自身がそういったわけではないのに、最初からそこにいるのが当たり前と感じている自分が何よりも信じられない。
逆上せないうちに湯から上がった私は、タオルで全身を吹いた後で脱衣所に戻る直前、鏡の前を通り、ちらりと自分の姿を盗み見た。
ここは宿に隣接している大浴場で、まだ日も高いせいか私の他に人はいない。それは私にとっても幸いなことで、少女と言うよりも少年に近い体型に多少なりとコンプレックスを持っている私は、今まで何度胸が小さい等とからかってきた輩を叩きのめしたかしれない。
乾いたタオルで全身を拭き、下着を着けただけの格好で、私はもう一度鏡の前に立つ。筋肉質でおよそ女性らしくないこの体は、良くも悪くもコンプレックスを刺激する。言われなくても、自分が女性らしくない自覚はあるだけに、たとえばこういう公衆浴場で女性らしい体型の持ち主と行きあってしまっても、考えずにはいられなくなる。自分ももう少しぐらい胸が大きいとかであれば、女性らしく振る舞うのに、と思わないでもない。結局はないものねだりという自覚はあるのだが。
湯に入らないように髪を纏めていたタオルを解くと、私の真っ直ぐで漆黒の髪は重力に従ってストンと落ちた。重苦しい自分のこの髪を私は好きではないが、切らないでいるのは単にマリ母さんが泣くからだ。
鏡の傍らに備えてある緑青色の石を手にし、私はそれを目を閉じて、額に押し当てる。一瞬の間の後、石を押し当てた位置から強い風が生まれ、髪についた水を全て弾き飛ばした。
これは風の力を溜めた「魔石」と呼ばれるもので、かつて女神たちが使っていた力の一種だと伝えられている。原理は未だに解明されていないが、ただ魔石の種類によって自然とその魔力が溜まる性質の石であるとされ、それらは種類ごとに生活の場毎に生かされている。この風を溜めた風石はもっとも数が多いため、一般家庭にも普及している代物だ。大衆浴場に備えられていても全く不思議はない。
風に揺れる髪が収まった後で、私はゆっくりと髪に櫛を入れてゆく。手入れを欠かしても元の髪質のおかげで絡まることはないが、部屋に戻ったときにオーサーに口うるさく言われるのは面倒だ。髪をまたひとくくりに纏めた後で、私は宿へと戻る。もちろん、眠る為である。
「なんでディがここにいるのよ」
宿の部屋はオーサーと分けるつもりはなかったし、宿代を節約する意味も含めてシングルにしてある。だが、その部屋になんでこの大男までいるのだろう。そして、オーサーは青い顔で苦しそうに床で寝転がっている。
「護衛だって」
オーサーと向い合って座るディの前には、すでに数本の酒瓶が空けられている。オーサーは下戸だから、これらを飲んだのはディの方だろうと、私でもすぐに予想がついた。
「ちゃんと宿代は自分の分出すって。それより、これ飲まねぇか? イーストギート産二〇〇年モノだぜ」
「いただくわ」
ディの誘いに迷うことなくあっさりと私がのっかってしまったのは、勧められた物が明らかな高級酒だからだ。渡された透明のグラスの中で透明な液体がゆらりと揺れ、芳しい花蜜の香りが鼻をつく。
イーストギートといえば花にまつわる特産品で有名な地方で、蜂蜜や季節の花はもちろんのことだが、花を使った料理でも有名だ。とりわけ、この地方でしか作られない花蜜酒はかなり特殊で、一部の酒好きの間でも有名な逸品で、一度だけ私も村の飲み仲間になめさせてもらったことがある。私はグラスの中を一息に飲み干してから、それが本物と見極めた。
「あきれた、ディはどこでこんなの手に入れたの?」
「ふふん、さっきの貴族様からちょっとな」
あからさまに機嫌の悪くなった私を、ディはからりと笑う。
「あんたの治療費だよ。傷の具合は?」
「なんともないわ」
ほら、と私が前髪をかき上げると、ディにはすでに傷が跡形もないのがわかっただろう。
「ほー、あのときの妖精とやらにでも治してもらったか」
「ファラにそんな力はないわよ。あの子、あれでもまだ生まれたばかりなんだから」
あの時もだが、ファラはいつも私の前で虚勢を張って、大言壮語を吐く。けれど、言うだけの力がないことぐらい私は知っているから、いつもギリギリの場面までファラを呼ばないのだ。
「アディは治癒ぐらいなら自分で出来るってぇことか」
「ま、そーゆーこと、」
ディが私のグラスに注ぎながら言った言葉をそのまま流しそうになり、ふと私は気がついた。私はディに拳闘士であると宣言しているし、彼の前でファラを呼び出す以外のことはしていない。妖精の呼び出しは魔法が使えるかどうかではなく、妖精に好かれるかどうかの問題であるから、ただそれだけで魔法が使えるとわかるはずもない。
「オーサーが話したのね」
私が眉間にシワを寄せて、倒れているオーサーを睨みつけると、口の軽い幼馴染は苦しそうな呻きを上げている。
「ははは、怒ってやるな。過保護そうなオーサーがあんたのことを心配してねぇようだから、俺が聞いてみただけだ」
次いで、明るい笑い声をたてるディを見た私は困惑した。悪い男じゃないし、自分に危害を加えるわけでもない。だが、ほとんど初対面からディを憎めないのは、この笑い方のせいだろうか。
「魔法が使えるのになぜ隠す? いいことじゃねぇか」
「知らない。私はただマリ母さんに絶対人前で使うなって禁止されてるんだもん」
「……ふーん」
ディがそれ以上追求してこなかったのは正直、助かった。マリ母さんに私がおとなしく従う理由は、オーサーにも話していないことだからだ。
「オーサー、そこで寝るの?」
「うー……ぎもぢわるぃ……」
「じゃあ、今日のベッドは私ね」
ベッドから毛布を引っぺがし、オーサーに掛けてから、私は買ったばかりの旅用マントを掛けた。湯殿で暖まり、酒も入れば、当然眠さも増す。
「ディは眠らないの?」
「ああ、そーだな。俺もひとっ風呂浴びてくるか」
「そう」
一瞬ここにいてくれないのかと言いかけて、私は口をつぐんだ。本当に初対面と言っていい、昨日合ったばかりの男を信用するなんて、私自身でもあまりに非常識だと思う。だが、ディにはそこまで信用させる何かがある気がする。
「鍵は閉めておいてよね、オーサー」
すでに眠っているオーサーに届かないと知りながら、私は夢うつつに命じる。応えるのはやはりオーサーではなく、ディで。
「わかったよ、アデュラリア。……良い夢を……の姫君」
すでに半分以上夢の世界に落ちていた私には、ディが何を言ったのかわからなかったけれど。ただオーサーがいることよりも、ディがそばにいることでいつになく心が温かさで満たされているのを素直に感じていた。
ひと眠りして起きた私を迎えたのは、予想通りディだった。私はなんとなくだが起きたらディがいるような気がしていたし、当たり前だがオーサーも起きている。オーサーは下戸だが、二日酔いになった姿を私は見たことがない。
私は寝起きでボーッとした頭をふるふると振って、かすかに感じる軽い空腹と外の闇から、既に夜になったことを知る。
「ディ、まさかお風呂上がってから、ずっとここにいたの?」
苦笑いしながら、ディはコップの中の透明な液体を煽っている。同じものをオーサーが平気で飲んでいることからして、それはおそらく水だろう。
「オーサー」
グラスに水を注いだオーサーは私が言う前に歩き出し、手にしていたグラスを私に差し出した。私は少し香りを嗅いでから、無臭の液体を一口、喉に通す。ひやりと冷たい液体は寝起きの乾いた身体に染み込んで、半覚醒の私の身体に目覚めを促す。
ぼんやりとしたままの私の後ろに回ったオーサーが、慣れた手で髪を梳くのを大人しく享受する。オーサーは寝起きの私の髪をセットするのが趣味なのだ。
「ディ、私が寝る前に何か言ってなかった?」
「ん?寝る前?」
ディから回答をもらう前に、部屋の戸を叩く音が聞こえた。隣じゃなく、この部屋の戸だ。ここに人がくる約束をしたわけでもないから、私は身構え、オーサーが私の隣に立つ。
「誰だ」
問いかけたのはディで、戸の向こうからは丁寧な低めの女性声が答えた。
「オーブド様の使いで参りました、ラリマーと申します。こちらにビアス様は居られますか?」
言われた名前が誰かわからずに私がオーサーが首を傾げると、ディが答える。
「ああ、昼間のあいつか」
立ち上がったディは、私やオーサーに問い掛けもせずに、客人を招き入れた。
部屋に入ってきた人物は暗色の赤い執事服を来た人物で、エナメル色の髪は短く切られている。
戸の向こうから聞こえた女性と思えた声を姿が合わなくて、思わず私がオーサーと顔を見合わせていると、ラリマーと名乗った人物が声を発した。
「先程は私どもの馬車がお連れ様に怪我をさせてしまって、申し訳ありませんでした」
そう言って深々と私に頭を下げる姿に、私は流石に目を瞬かせる。先程からの言動からして、これはどうやら私たちの方がディに連れられていると思われているらしい。
「違うわよ。ディが勝手に私たちについてきているんだから、別に連れでもなんでもないわ」
私の言葉にディは軽く笑い声を立てたが、ラリマーの表情は変わらないままだ。ラリマーは真っ直ぐに私に近づいてきたので、警戒したオーサーが私の前に移動する。それに対して、ラリマーは表情を変えないままに、手元の薄い革製のバッグから長方形の封筒を取り出した。
それまでラリマーがバッグを持っているようには見えなかっただけに、私は怪訝に眉をひそめる。持っていないように見せかけるのは魔法を使わない限り、拳闘の技だ。それが拳闘士でない者の前であるならまだしも、私自身それなりの強さはあるからわからないということがほとんどない。つまり、それだけの強さを持っているということを証明する断片にはなるだけに、私は警戒を強めた。
封筒を受け取ったオーサーが何かをする前に、私はすばやく奪い取る。
「ちょっと、アディっ」
オーサーの抗議を無視して手にした封筒には封蝋がされていて、宛名は書かれていない。
「お名前を存じ上げなかったので、失礼とは思いましたが」
心を読んだようにラリマーに言われ、私は顔を上げた。ラリマーの表情は相変わらず変わらないが、後ろでディが無言で頷き、開けるように私を促す。
罠は見当たらないが、それなりの拳闘の腕を持った者を使いに寄越すぐらいだ。下手な小細工もないだろう。なにより、こちらにはディがいる。
そこまで考えかけて、ディを信頼してしまっている自分を私は小さく笑った。
「アディ?」
怪訝そうなオーサーには応えず、私は封を開ける。中からは上質で厚めの紙が半分に折りたたまれて入っていた。その他には何も無いようだ。
封筒を指に挟んだまま、私は半分に折りたたまれた紙を広げて、目を通す。
「……招待状、だね」
横から覗き見たオーサーが意外そうに事実を口にする。
オーブドゥという貴族からの手紙には、今夜の夕食への招待が綴られているだけだ。文面からわかるのは、旅の話が聞きたいと言うことで、最後にサインがある以外に特別なことは何もない。これが貴族や王族以外なら私も素直に出掛けるところだが、相手は貴族。油断すれば、オーサーも危険に道連れにする可能性があると、つい身構えてしまう。
「暇なのね、貴族って」
目の前にいるラリマーを睨みつけても仕方ない。本人でないと言うのもあるが、様子がまったく変わらないのでは代用にもならない。
「タダ飯はありがたいけど、どうする?」
私が問いかけると、ディはこちらが吃驚するほど、驚きに目を見開いた。孔雀の羽と同じ青緑のディの瞳が大きく見えて、それが楽しくて思わず私も笑いを零す。
「訊いてくれんのか?」
「だって、旅の話ができるのはディしかいないじゃない」
あっさりと私が言うと、ディは納得してくれたらしく頷いてくれる。オーサーだけが強張った顔で私を見ている。
「貴族の屋敷は嫌なんじゃねぇのか?」
「別に。料理に罪はないでしょ」
貴族は嫌いだが、今の私は逃げ回るだけの子供ではないし、理由はわからずとも、心強い護衛だっている。何より、口にしたように、用意される料理にだって罪はないし、イーストギートの高級酒を簡単にくれるぐらいだ。材料の質には期待して良いはず。
「きっと美味しいお酒もあるはずよ。うん、楽しみっ」
目の前にまだ使者はいるが、私の前にはすでに白いテーブルクロスに並べられた料理の幻影が映っている。オーサーは呆れているが、もちろんオーサーの札士の腕だって信用しているからだと気づかないのだろうか。私が作り笑顔でラリマーを見るが、彼女はまったく表情を変えない。
「では、ご出席ということでよろしいですね?」
「ですね?」
私が繰り返すと、オーサーはため息をつき、ディもわがままな妹でも見るように優しく笑っている。
「はいはい」
「いいぜ」
ラリマーが部屋を去った後で、私は両腕を背中に回して、すっかり目覚めた身体をほぐした。
「さて、私らは貸衣装屋に行くけど、どうする?」
驚くのはオーサーだけで、ディはひらひらと手を振った。
「俺はこれでいいんだよ。一応、騎士の正装だしな」
「騎士ィ? ……ま、いいか。じゃあ、着替えるからディは出てって」
ディを部屋から追い出し、オーサーだけの残る部屋で私はおもむろに着ていたシャツを脱ぐ。
「あ、アディっ」
「ん?オーサーもさっさと着替えなさいよ」
バッグから白無地の長袖シャツを被りながら言うから、私にはオーサーがどんな顔をしているかわからない。でも、声の調子で焦っているのはわかる。もうずっと一緒にいるのだから、別に私の身体なんて見慣れているはずなのに変なの、と私は笑った。
昨日履いていたズボンを履いて、最後に腰のあたりを布でぐるぐると巻いて、端を中に入れ込めば着替は完了だ。サイドテーブルに置いておいた髪紐を手に、自分の髪を一括りに縛りながらオーサーを振り返る。
「なにしてんの、オーサー。早く準備しなよ」
「何って、もう……少しぐらい意識してよ」
右手で自分の顔を抑えてため息をついたオーサーが、後半何を行ったのか私には聞こえなかった。オーサーが準備するのを待つ間に、私は自分とオーサーのバッグに昨日買った品を詰めていく。夕食を食べてすぐに帰れるとは思えないし、もしものこともある。この宿は引き払って、荷物は持っていった方がいいだろう。
「行くわよ、オーサー」
オーサーの支度が終わるのを見て、私はすぐに二人分の荷物を手に部屋の出口へと向かった。
「ま、まってよ、アディ!」
オーサーが私のところに付く前に、私は廊下へと出る。
「遅かったな」
部屋の外では私たちと同じく荷物をまとめたディが待っている。一体いつからそこにいたのだろうかと考えかけて、私はすぐにやめた。ディと私の力量は目に見えて違いすぎるから、考えても仕方が無いことだ。
「時間になったらここの食堂で落ちあいましょ」
「了解」
ディの返答を聞いてから、私とオーサーは宿を後にした。だが、すぐにディが距離を置いてついてきていることに私は気付く。あれだけの巨体で目立ちそうなのに完全に町に溶け込んでいるディの様子に、私はひそかに感嘆を漏らす。
「どうしたの、アディ」
「んーん、なんでもないよ」
オーサーに先導されて歩きながら、私はまた理由のつかない安心感に笑いを零した。