52#よくある感情
私の向いている方向は石の壁に覆われた通路のようだ。
少しカーブを描いたこの通路の向こうからは聞き慣れた幼馴染の足音が小さく響いてくる。
だが、一人ではないようだ。
「ついてこなくても、一人で戻れますよ?」
「別にいいじゃないの。
どーせ、戻る場所は一緒なんだしー」
小さく聞こえてきたオーサーの変わりない声に安堵しつつ、私はもうひとつのハスキーな女性の声に眉根を寄せる。
だが、今はそんなことをしている場合ではないだろう。
せっかくタイミングよくオーサーが通りかかってくれるというのなら、この機を逃す手はない。
私は周囲を見回し、左の壁伝いにある小さな通用口へと身を滑り込ませた。
その間にも足音は近づいてくる。
あと少し、と気配を消して構えていたが、その気配は何故かこちらへと真っ直ぐに向かってくるようだ。
(どうしよう…っ)
慌てて辺りを見回しても、この小さな空間ーー二十メートル四方の立方体みたいな簡素な空間には隠れる場所がない。
だったら、と出入口の側近くで壁に張り付いて身構える。
これはもう、入ってきた瞬間に、オーサーの近くにいる人を殴打して、彼をダッシュするしかない。
機会は一回だけだ。
「別に監視されなくても、逃げやしませんよ。
ていうか、ナルから逃げられるとは思ってません」
「もー、監視って何よ、監視って。
アタシはただ単にオーちゃんで遊びたいだけよ?」
「なお悪いです」
苦笑交じりのオーサーの声音に、ほんの少しだけ切なくなる。
オーサーがこんな風に気を許すなんて、めったにないことだ。
少なくとも、私と居るときに、私以外とここまで気を許すようなことなんてなかった。
自分がオーサーの枷となってしまっている気はしていた。
私がいつもオーサーを振り回していて、もしかしてそれが不満なんじゃないかとか、思わないことはなかった。
でも、オーサーは私が何をしてくれても許してくれて、そして、いつも共にいてくれて。
だからこそ、私はオーサーにーー依存、していたのかもしれない。
もしかしたら、私はオーサーを迎えに来るべきではなかったのかもしれない。
そんなことが頭を過っていたせいで、私は反応が遅れてしまったのだろう。
気がついた時には目の前でオーサーが目を見開いていて。
「え、あ、アディ?
いつ…」
私は混乱しているオーサーの口を両手で塞ぎ、顔をそむけた。
オーサーは女装ではなくて、貴族の子息みたいな立派な服を着ていたけれど、私はそれを直視するほどの余裕もなかった。
隣に立つ女性は、胸こそあまりないとはいえ、長身に見合った、ごくシンプルな一枚布の神官服着ているだけなのに、その耳元で切りそろえられた輝くような銀の髪も、透けるように白く滑らかな肌も、全てが作り物みたいに完璧で完成された一つの美のように美しい人だ。
「迎えに、来たんだけど、必要なかった?」
自分でも思っても見ないほど、低い声が喉から出てきて。
でも、驚くほどに舌がなめらかに動く。
「オーサーは、その人といるほうが楽しい?
私より、大切、なの?」
オーサーが誰といようと、誰を選ぼうと、私には関係ないと思ってた。
それなのに、心の内側から溢れてくる、昏く淀んだ感情はなんなのだろう。
どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
「アディ…?」
「あら、この子が?」
オーサーの斜め後ろにいた長身の女性が、私の顔を覗きこんでくる。
横長の怜悧な瞳にバランスの良い少し高めの鼻梁が映え、薄い唇は熟れた桃のように瑞々しく美しい光を放っている。
動きも優雅で、洗練されていて、思わず見とれてしまいそうだ。
「はじめまして、アデュラリアちゃん。
お会いできて嬉しいわー」
にっこりと目を細めて微笑む女性に、私は何の返事もできないでいた。
「ナル」
そんな私と女性の間に、オーサーが不機嫌そうに割り込む。
「アディに近づかないでください」
「あら、ご挨拶しただけじゃなぁい」
「近づかないでください。
で、アディ、迎えって?
ディやフィッシャー様たちもいるの?」
女性から隠すように私をかばっているオーサーの様子に、私も泣きたくなる。
合わせたくないぐらい、その人が大切なのだろうか。
私と居る時間のほうがずっと長いのに、そんなにも、その人が。
「いないよ」
「え、じゃあ、アディ一人で来たわけ?
何してんだ、あの人達…」
「ディは悪くない。
だって、私はイェフダ様に無理矢理連れて来られちゃったんだもの」
「イェフダ様に?」
こんなことをしている場合じゃないのに、私はもうオーサーを直視できなくて。
でも、離れられなくて、オーサーの背中をゆるく掴んで、頭を預けた。
きっと今頃ディはひどく後悔しているだろう。
ただでさえ、過去を思いだして不安定になっていたようなのに、フィッシャー達に丸め込まれて、戦場へ向かっていたはずなのだ。
そして、まんまと一人になった私はイェフダ様に攫われてしまって。
「私、誰も、巻き込みたくないって、思ってたのに。
なのに、結局、ディもオーサーも巻き込んで、その上ーー」
自分を見てくれないからって、こんな風に拗ねて。
子供みたいだ。
「…最っ低ー…っ」
苦笑が私の不意をついて零れた。
「アディ?」
気遣わしげな幼馴染の声をその背中に接して聞きながら、私はひとつ深い息を吐きだして、彼から離れた。
「オーサー…オーソクレーズ・バルベ―リ、貴方はもう自由だ。
これ以上、私に縛られることはない」
振り返ったオーサーの顔はひどく慌てていた。
「ちょ、ちょっと待って、アディ、何言ってるの!?」
だけど、私はオーサーから一歩下がって、微笑んだ。
「今までありがとう、オーサー」
そして、伸ばされるオーサーの腕が自分に触れる前に、私は彼の隣を走りぬけ、元来た通路へと戻ってしまったのだった。