50#よくある囚われの身
アディ視点に戻ります。
あの村の家の壁も村の小さな神殿も石造りだったな、と私はぼんやり思い出していた。
色々なことが一気に起こりすぎて、混乱する。
初めは、ただ私の系統を診断してもらうだけの旅だったのに、私は女神の記憶を完全に思い出してしまって。
従者であるディが現れて、フィッシャーが刻龍の頭領で、オーサーが私の代わりに大神殿に連れて行かれて。
そして、オーブドゥ卿が実は最初の女神の護衛の記憶持ちで、つまりは最初の女神の恋人らしくて。
その上、最初の女神の仇、だと。
「う~っ」
私は寝転がっているベッドの枕に顔を強く押し付けて、意味もなく足をばたつかせる。
静かな室内に広がる音は、私がそれをやめると再び静寂を取り戻した。
顎を上げて、目でベッドの上方を見つめる。
木目を残す木枠の板の向こう側はすっかりダークレッドの重厚なカーテンで塞がれていて、身体を返してぐるりと視線を動かしても切れ目は一つしかない。
ここが大神殿の奥の一室らしいというのは、言われるよりも先に感じた。
ここほど色濃く女神の気配が残る場所など、私は他に一つしか知らない。
それはイネスの地下の遺跡とよく似ていて、同じ空気を肌で感じつつも、同時にぞくりとする薄ら寒さを憶えて、私はむき出しの腕を擦った。
来るまでに着ていた乗馬服は、ラリマーによって、リュドラント王に謁見した時とよく似た真っ白いドレスに着替えさせられた。
抵抗しなかったのは、偏に無表情なラリマーの瞳に謝罪の色を見たからだ。
彼女はオーブドゥ卿に仕えているから逆らえないといったところだろう。
髪を止める紐もなく、おろされた真っ直ぐな黒髪の一房を自分の左手で握って、軽く引く。
髪留めさえも取り上げられ、私としては邪魔なことこの上もない。
それに、このままでは戦い辛い。
だが、これ以上戦ってどうなるというのだろう。
為す術もなく大神殿まで連れて来られてしまっているし、たとえヨンフェンまで今更戻っても、私にはフィッシャーほどの魔法は使えないし、ディほど身一つで戦えるわけもない。
そりゃあ、拳闘士としてそれなりの腕であることは自負しているけれど、本当の戦でそれが役に立てるものかと尋ねられれば、否と答えられる程度に私は自分を知っている。
考えこんでいる自分の手の甲に、ポツリと雫が落ちて、私は慌てて目元をこする。
ここに来てから、一眠りしてしまうぐらいの時間は経ってしまっているはずだ。
泣いている時間があるなら、私は大神殿にいるはずのオーサーを探して、ここから逃げ出すべきだ。
彼ならば、少なくとも村の近くまで帰る札を持っているはずだ。
ーーというか、フィッシャーに私の側へと札を強請った話を聞いた時から、たぶん彼は二人で村に帰る札も「ついで」とばかりに強請っていてもおかしくない。
私の知る幼なじみのオーサーというのは、そういう少年だ。
村の近く、つまりミゼットまで戻れば、ヨンフェンまではそれほどの距離ではない。
少なくともイネスよりは近いし、ヨンフェンはさして大きい町でもない。
戦場に戻ったところで何ができるわけでもないにしても、何もできないとしても、せめて戦争を始めた責任を私がとらなければ。
ベッドの上をそっと移動して、囲む分厚いカーテンの隙間から外を伺う。
入ってきたときと同じ冷たい石の壁や床、天井をぐるりと見回し、誰もいないのを確かめてから、私はそっとカーテンを抜け出した。
部屋の明かり取りーー窓は壁の上の三分の一もつかって、大きく切り取られたみたいになっている。
雨でも降ったら吹き込みそうなその窓に両手をかけて、飛び乗る。
窓枠から見た眺めを前に、私は落胆の息を吐いた。
日差しが差し込んでいるのだから、逃げることぐらいできるだろうと思ったのだが、多少の緑はあるものの、その場所は完全なる箱庭だ。
上方から差し込む日差しがあると思ったのは、どうやら、石壁に鏡面処理でも施してあるせいらしい。
試しに女神の力ある言葉を唱えてみて、何も起こらないことで、私は確信する。
ここは女神の力さえも届かない、魔法力の一切を遮断した場所だ。
女神の記憶の欠片にある通りならば、女神を幽閉するための檻ーー。
力任せに寄りかかる窓枠代わりの壁を殴りつける。
何度も、何度も拳を叩きつけて、ふと見ると壁に自分の血が滲んでいた。
「っ」
呆然としている間にここへ連れて来られ、幽閉され、すべてを諦めようとしていた自分に、その血の色と痛みでもって、尚更に腹が立つ。
女神は誰の命にも従わない。
私は、誰にも、私以外の誰にも従わない。
女神が従ってしまえば、世界は崩壊してしまうのだ。
「諦めて、たまるかっ」
そうでなくとも私を助けるために何人もの人が犠牲となった。
過去も、現在も。
未来にまで、続けさせるわけにはいかない。
すべてを私が終わらせなければいけないのだ。
そのために、この最後の女神の記憶だって、あるのだから。
だんっ、とひときわ強く拳で壁を殴りつけ、私は部屋の内側へと戻る。
部屋を改めて見回してもベッドしかない。
唯一の出入口である石の扉は私の背の三倍はあり、この世界の人間の描いた女神の彫刻が掘り込まれている。
それを見上げ、希う。
「オーサーが見つかりますように」
扉に手をかけると、意外にもそれはすんなりと開いた。
力いっぱいに押さなければならないと思っていただけに拍子抜けするが、すぐに気を引き締める。
女神の力も魔法も使えないというのならば、まずはオーサーを見つけなければ。
札使いの力はこの世界で生まれたもので、この建物内では関係がないはずだ。
魔法使いが書いているとしても、それは女神の力に対する強制力を持たない。
もちろん、そういう意味ではオーブドゥ卿やラリマーに気をつけなければならないので、足音を忍ばせ、私は滑るように廊下を急いだ。
最終章開始です。