47#よくある初戦
ルクレシア軍が陣を置いたのは国境の町のリュドラント側で、一般人は既に逃げた後だ。
リュドラント王が陣を置いている町との境は僅かな草木が生えるばかりの荒涼とした平原で、少し歩くだけで土煙が舞う。
日が昇る前から国境の町の外で陣形を整え初め、今薄雲のかかる空では頂点より二十度ほど下で太陽がぼやけた光で地上を照らしていた。
その中で私はというと、戦争が始まる前というよりも祭りの前のようなざわついた兵士の中で、馬に跨っている。
世界を渡る風が馬上の私の髪を撫ぜてゆくのを感じつつ、私はしっかりと前方を見据えた。
手綱を握るのは動きやすい深い紅の乗馬服に着替えた私自身で、私の跨る馬上には私の他に誰もいない。
もちろん、馬に乗れない私の馬の側には、ラリマー側に付いている。
私の隣には同じく馬に乗った普段どおりの装いのオーブドゥ卿がいて、少し前にはいつもの騎士の鎧姿のディがいて、彼の隣には普段となんら変わらない蒼衣のフィッシャーがそれぞれの馬上で手綱を握ったまま何か話をしている。
ディは遊軍を率いるのだと聞いたから、二人が話しているのはその打ち合わせだろう。
ここだけ見れば私達はとても戦場にいるようには見えないが、周囲をぐるりと見渡せば、辺りにはルクレシアの紋章をつけた鎧姿の兵士や、神殿の証をつけた白衣に顔までフードで隠している神官兵しかいない。
私の手に力が篭ったのを受けて、私の乗る馬が小さく鼻を鳴らす。
それをラリマーが、馬の首筋を撫でて宥める。
「ディがそばにいないのは不安ですか、アデュラリア嬢」
オーブドゥ卿の穏やかな声音に私は頭を振った。
「そういうわけじゃない、です」
ともすれば上手く吸えない息を意識して吸い込み、私は心を落ち着かせようと務める。
村にいた時までの私は、人を、他人を本当に頼りにしたことなどない。
オーサーは守るべき存在であったし、いくら村の大人たちが強くとも、私にとっては守るべき存在だったからだ。
女神だからとかそんなのではなく、自分自身が災厄の種と知っているから、自然とそう考えるようになった。
だから、守るべき存在を頼るなんて、考えられないことだった。
だから、オーサーがいなくても、ディがいなくても私は平気だ。
その、はずだった。
「そうじゃないんです、イェフダ様」
涙に濡れてしまいそうな声を抑えているので、喉が詰まってしまいそうで、私は奥歯を強く噛んだ。
ディがそばにいないことが不安なわけじゃない。
いつだって、私が大切に想う人たちは私を守って死んでしまう。
そうならないためにいつも壁を作ってきたのに、自分は二人に近づきすぎてしまったのではないかということが不安なのだ。
だから、大切に想う人をこれ以上失うことが、怖くて怖くて、仕方がない。
自分の手で握りしめている手綱が震えているのが、私の視界に入る。
私のそばにいればまだ、この身体を犠牲にしてでも止められる。
でも、オーサーは遠い大神殿に、私の身代わりとしているし、ディだって、これから側を離れていく。
この手で守れないことが、怖くて、とても怖くて。
黙り込んでしまった私を少し思案するように見守っていたオーブドゥ卿は、不意に私の肩を軽く叩いた。
「私の知るフィッシャーは約束を守る男ですよ。
少なくとも今この場で血が流れることはありません」
賢者の称号は偽りではないのですよ、とオーブドゥ卿は柔らかに微笑む。
彼のすぐそばで彼の馬の綱を手にして控えているラリマーは、じっとこちらを見守っているだけで何も言わない。
私はフィッシャーから、計画の詳細は何も聞かされていない。
女神である私はただいるだけで良い、女神は象徴だから戦う必要がないのだと言われた。
だから今、私が持っている武器といえば、いつもどおりに何食わぬ顔でホルスターへ納まるベレッタひとつだ。
それをそっと手で撫でると冷たい反応しか返してくれない。
だけど、わずかながらも心強さをくれる大切な相棒だ。
「そんなことが本当にできるのでしょうか」
「できます」
オーブドゥ卿は力強く頷いてくれても、それでも私は不安に揺らぎながら、前方のディへと視線を向けた。
そのタイミングが良かったのだろう。
丁度振り返ったディと私の視線が交わる。
それはほんの一瞬だったのだけど、心配や不安、その他にも何かいろいろと見透かされてしまいそうで、私のほうから外してしまった。
それだけ、ディの視線は強かったのだ。
「アディを頼む」
「はい」
オーブドゥ卿ダが肯いた後に間を置いて、ディは少数の騎馬を率いて離れていってしまう。
その姿を見えなくなるまで見つめていた私の隣に、フィッシャーが馬を寄せてくる。
「それでは女神アデュラリア、あなたの忠実なる兵士達に勝利の祈りを」
促され、私は何度も見た周囲をもう一度首を巡らし、見回した。
視線は全て私に集まっていて、普通なら怖いと思う状況だというのに、私は懐かしさを憶えている。
それは何度もみている、過去の女神の記憶のせい、というのが大半を占めることだろう。
私は両目を閉じて、軽く頭を振る。
過去の女神の記憶になど、流されてはいけない。
思い返していては、いけない。
そんなことで、女神を名乗るなど烏滸がましいにも程がある。
フィッシャーとオーブドゥ卿との間に埋もれてしまう自分自身の体格を自覚しているので、私は右手を天に高く差し上げた。
「これは奪うための戦いではなく、守るための戦いです。
天の女神はそれを知っておられる。
だから、必ず勝利は私たちの手に残るでしょう!」
語る言葉は、事前にフィッシャーから示されていた。
それを諳んじるだけだから、私自身が考える必要などない。
だけど、口から紡ぐ言葉とは別に、違う、と心のうちで騒ぐ声がする。
「女神は私たちを見捨てることはしません!」
違う、と私の心のうちの扉を叩く人がいる。
「守るための剣をもって、必ず、勝利をっ!」
言葉にならない想いに胸が詰まる前に最後まで叫ぶと、大歓声と共にぐらぐらと地面が揺れ、馬も人も騒ぎ立てる。
祭りかと勘違いしてしまってもおかしくない状況だというのに、私の心の中は水底のように深く暗く沈んでいく。
(女神は、いない)
(女神は、世界を捨てた)
(女神は、世界を忘れた)
「…ぅるさぃ…っ」
否定の声は、私にしか聞こえない。
(女神の見捨てた世界に、女神の加護などあるものか)
強く女神のことを考えれば考えるほど、それらは声高に叫ぶ。
いつもはこういう時にオーサーがいて、震える私の手を握って支えてくれた。
いつも隣にいて、私を宥めてくれた。
けれど、だけど、今はいない。
「…オーサー…」
私は不安そのままの小さな声で、その名を呟く。
助けてと、いいたくても、彼は今私の隣にいない。
「それでは女神、まずは私が行って参ります」
大げさな程恭しく、フィッシャーが私に向かって頭を下げた。
「え?」
「え、じゃないでしょう。
こういう時は素直に頷いておくものです」
てっきりここでフィッシャーが指揮を執るものと思っていただけに、私はオーブドゥ卿を振り返り、見えないディの消えたほうを見やる。
「約束しますよ。
貴方の望むように、一滴の血も流さずにこれを治めましょう」
「だからって、フィッシャーがわざわざ行かなくてもいいんじゃないの?」
焦った様子の私に、フィッシャーは困ったような、嬉しいようなと複雑に笑みを歪める。
「心配せずともすぐに戻りますよ。
貴女の見える距離ならば、私の移動魔法で充分です」
いってきますというや否やフィッシャーの身体を景色が透けて、すぐに姿は掻き消える。
魔法で移動したのだろうが、詠唱したと気が付かないほどの賢者としての、フィッシャーの実力を、私は初めて目の当たりにした気がする。
「フィッシャーって、実はすごい人?」
「あれでも賢者ですからね」
苦笑交じりのオーブドゥ卿の返答に、思わず私が頬を緩めるのとそれは同時だった。
地を震わせる音と共に荒野の向こう側一面に土煙が上がる。
リュドラント軍だ、と私は緩みかけた気持ちと表情を引き締める。
「アデュラリア様、これを」
徒歩で近づいてきたラリマーが、フィッシャーのつけているマントよりも藍の濃いマントを投げ上げてくれる。
見た目よりもそれは軽く、風に流されかけるのを、私は慌てて掴む。
「別に寒くはないよ?」
ラリマーは何も言わずに元の位置まで、つまりオーブドゥ卿の側まで戻ってしまう。
首を傾げる私に、オーブドゥ卿が指で前方を指し示す中、それは起きた。
天が割れたのかと、思った。
耳を塞いでも防ぎきれない雷鳴の音と光が土煙をさえぎり、視界を白く染め上げる。
「っ!?」
「また広範囲で来ましたね」
オーブドゥ卿でさえも驚きの声を上げている。
音と光の応酬、それだけで人馬の悲鳴が私達のいる場所まで聞こえてくる。
うそつき、とあの時と同じく私は小さく呟く。
マースターの時だって、フィッシャーはうそつきだった。
魔法を使わないといったのに、あろうことか女神の力まで引き出して。
おかげで、私は女神としてのほとんどの記憶を取り戻してしまった。
「フィッシャーは昔から負けず嫌いなのです。
だから、貴女は何も心配しなくて良いのです」
宥める声音に少しの異変を感じ取って、私はオーブドゥ卿を顧みる。
彼はいつもと同じ顔で、だけど…目だけが真剣で。
その瞳が夢の中で女神が愛した男によく似ている気がする。
「イェフダ、様?」
彼は私から視線を外さないままに、右手の人差し指につけた赤い石のはまる指輪へ口を近づけ、歯を立てる。
がり、と硬い石の砕ける音が聞こえた。
「っ!?」
同時にオーブドゥ卿を中心とした魔方陣が地面から紅く立ち上り、円柱のなかに私とラリマーを閉じ込める。
「な、何!?」
「こちらはフィスとディにまかせれば大丈夫です。
私達は先に参りましょう、アデュラリア様」
「どこへっ?」
私の問いかけにオーブドゥ卿の右の口端だけが上がり、今まで私が彼に見たことのない皮肉な笑顔を見せる。
「ーーもちろん、大神殿に決まっています」
ゆらゆらと揺れる景色の中、誰も私達の異変に気が付かない。
見えていないはずなどないのに、誰の視線も前線を見たまま動かない。
「い、嫌だ…っ」
泣きそうな子供の声が、私から零れる。
これじゃあ、何もかも放り出しているのと変わらない。
私のせいなのに、私のせいで戦が起きているというのに。
「嫌だ、イェフダ様…っ」
目の前の荒野が、すぐに冷たい石壁に囲まれた通路のような場所に切り替わり、呆然としていた私は、落下の感覚の直ぐ後で、ラリマーに抱きとめられていた。
彼女はいつも通りに無表情で、私を地に立たせる。
オーブドゥ卿は普段と変わらない笑顔を浮かべて、私の前に立ち、腕を大きく広げた。
「おかえり、アデュラリア」
混乱している私は、ただ首を振ってあとづさる。
「なに、どうして、イェフダ様っ」
「まだ気が付きませんか?」
私の頬を溢れた感情が伝う。
この女神の気配の濃い場所だと、より強くわかる。
「なんで、」
オーブドゥ卿は、彼は、関係ないのだと勝手に思っていた。
ただの女神研究家で、ただの貴族で、ただの…人が女神にそれほど執着するわけがなかった。
既に世界が女神を必要としていないのは、明白な事実だからだ。
何故気が付かなかったのだろう。
「まさか、あなたが、ーーなの?」
オーブドゥ卿の仮面を捨てた男は、ただ、心底嬉しそうに、笑った。