38#よくある刻印
女神の治癒術というのを初めて受けたが、身体が日向ぼっこしているみたいに温かい。脳髄まで緩んでしまいそうな暖かさに、私は機嫌よく着替えて、言われたとおりに簡易寝台へと横たわった。
直ぐに眠気が襲ってきたのは、魔法で治癒されたとはいえ、身体が修復のために休息を求めているせいだろう。たしか、マリベルがそんな話をしてくれたことがあったような。
(……ディ……?)
眠りの深淵に誘い込まれ、沈む寸前、誰かが部屋に入ってきた気がしたけれど、もう私は目を開ける気力もなかった。
「アディ」
髪を撫でられ、あれ、いつのまに解いたんだっけと疑問が掠めたが、そんなものは睡魔の前では瑣末な問題だ。あとあと、と闇に意識が沈む寸前、大きな音が私の頭上で聞こえた気がした。たぶんだけど、ディが壁を殴った音じゃないかと推察される。
「……最悪だ……っ」
今まで聞いたこともない酷く苦しげなディの低い声は、私の夢の中まで追いかけてきた。おかげで、私の寝覚めは悪いったらない。
それなのに、普段と同じ飄々とした様子でジェリンをあしらうディを見た私の、この複雑な心境が誰にわかるだろうか。
「女神だからだぁ? ふざけるんも大概にせえよ」
私がぼんやりと目を覚ましたとき、すぐそばにはジェリンとディがいた。二人は小声で話していたけれど、狭い部屋の中では聞かないことのほうが難しい。
ジェリンの声音には、私の知っているふざけた様子は欠片もない。本気で怒りに燃えているジェリンは続ける。
「そないな理由で俺様の嫁に勝手な印なんかつけよったんかいッ」
彼の勝手な主張は置いておいて、印って何のことだろう。
「アディの肌に印をつけてもいいのは俺様だけやて、昔から決まってんのやぞッ」
何を言っているんだ、この馬鹿は。私はこれまでに一度たりとも、ジェリンに印をつけられるようなことをされた覚えはない。
「少し落ち着け、あんた、仮にも警備隊長だろうが」
呆れたディの声音は眠る前に聞いたのよりも落ち着いていたので、私はあれは夢だったのかもと安堵した。あんなディを私は見ていたくなかったから。
間をおいて、不服そうなジェリンがディに問いかける。
「何でそない、落ち着いてられるんや。あんたはアディに仕えてる騎士やないかい」
「刻龍の印は目当てを報せるだけのものであって、それですぐさま死に至るわけじゃない。傍で守ればいいだけのことだ」
会話の片鱗から、私はようやくジェリンたちの言う「印」に合点がいった。考えてみれば受けた矢は魔法製で、放ったのは刻龍の者だ。私の怪我した箇所に、オーサーの腕にあった死の刻印と同じものが残されたとしても、なんら不思議はない。むしろ居場所を捉える魔法を使う、絶好の機会だっただろう。
「魔法使われたらどないする気ぃや」
「それはない」
「言い切れへんやろッ」
聞き分けのない子供を諭すように、静かにディが言う。
「刻龍には、絶対の掟がある」
そういえば何故ディは刻龍に詳しいのだろう。聞いたことはなかったと、私は今更のように気が付く。いや、私がディについて知っていることなんて、女神の従者であるということと、オーサーの両親ーーつまりはマリベルに依頼されて、私を守ってくれる騎士だということぐらいだ。
「女神に関わる者は必ず剣をもって、葬らなければならない。もっとも女神を殺すほどの魔法は、女神の内から生まれるものだから、女神自身を、つまりアディを死に至らしめることなんぞできやしねぇがな」
気配が動いたかと思うと、近づいてきて、私の寝台を揺らして座った。ついで、上からわしゃわしゃと前髪を撫でられて、私は心底吃驚した。
「わっ」
「熱は下がったみてぇだな、アディ」
私が起きていたことに、ディは気がついていたらしい。観念して目を開け、私は手の先を辿って、ディを見上げる。私を見下ろす彼は、普段以上にとても優しい顔をしていて。
「動けるか」
背筋がむず痒くなるディの優しさを振り払い、私は右手を軽く握って、力を入れても痛みがないことを確認し、彼の手を借りずに起き上がった。うん、眠る前よりも頭もはっきりしているし、身体の感覚もしっかりある。旅に出る前、日常はいつもこれぐらいだった気がする。ーー知らずに溜まっていた疲れも、一緒に吹き飛んでくれたのかもしれない。
「大丈夫そうだな」
ごく自然と伸ばされたディの腕に首を傾げていると、程なく私は大きな腕の中に迎えられていた。つまり、ディに抱きしめられているわけだが。
「あーッ! あんた、何してんのや。アディは俺の嫁やゆーてるやろッ!」
当然のように騒ぎ出すジェリンの声は、幸いというかディの腕の中にいる私には少しくぐもって聞こえる。てか、誰が誰の嫁だ。
「そういうわけだから、今後は何があっても絶対に傍を離れねぇからな」
頭の上から囁くように示された決意は、しばらく撤回されることはないだろう。
「え、えと、ディ?」
普通ならここは焦る状況なのだけど、私が腕の中から見上げたディの表情は、完全に相手をからかっているときの顔だ。この場では十中八九、ジェリンを、ということで間違いないだろう。
「アディから離れんかい、おっさんッ!」
そういえば、ディという男は、最初から人を食ったような男だったことを思い出し、私は深く息を吐きだしてから、その腕を抜け出した。ディを間に挟んだまま、まっすぐにジェリンを見つめる。
「ジェリン、リュドラントの隊長は?」
「俺に何か用かよ」
ひどく不機嫌な声が室内で聞こえて、私は本気で吃驚した。室内がとても狭いのは、ディとジェリンのせいだけでもなかったらしい。
「い、いたんだ」
ごまかし笑いをする私を見て、彼はさっさと自分の用事を済ませてしまうことにしたらしい。
「我が国リュドラントの国王陛下が、直々に女神の末裔殿と話がしたいそうだ」
リュドラント側の警備隊長は不機嫌もかくやと言った顔を隠しもせず、淡々と告げてきた。それはこちらとしても願ってもみない申し出だし、断るつもりはないけど。
「明朝、砦の向こうに案内する。あるかどうかしらんが、せめて女の格好で出てくれよ」
極めて業務的な言い方から、なんとなくこの人に私は嫌われているような気がする。そりゃあ、喧嘩を売ったけど、リュドラントの警備隊長は買ってないじゃないか。買おうとしてたのを止めたのは、ジェリンだけども。
用事は済んだからと出て行こうとするリュドラントの警備隊長を、ジェリンが彼の首に腕を回すようにして捕らえる。
「何勝手に出て行こうとしてるんや」
「俺は明日の準備があるんだ。貴様なんぞに構っている時間はないっ」
「ディさん、こいつの兄貴ならゆうてくれや。こいつは女の子が来てもいつもぶすっとしよってからに」
ああそういえば、ディとリュドラントの警備隊長は知り合いみたいだったのを今更思い出した。
「兄貴じゃねぇ。こいつは昔の知り合いってだけだ」
ディのあっさりとした否定に、しかし私とジェリンは同時に首を傾げていた。そして、私達が問うより早く、リュドラントの警備隊長が口を切る。
「貴様らにはどうでもいいことだろう」
じゃあな、と出て行こうとした彼の背を見たジェリンが、先ほどのディと同じような質の悪い顔で笑った。
「ヨウ、あんさん、やけに女っけがねぇ思たら、そっちか」
思わせぶりだが、遠回しな言葉に私は首を傾げた。そっち、ってどういう意味だ。
「俺は違うからな」
なにかわかっている様子のディが否定し、ジェリンは更に笑みを深める。
「そーか、そーか、なぁるほどなぁー」
「貴様、何が言いたい」
怒気をはらんだ声で振り返ったリュドラントの隊長が、ジェリンを睨みつける。が、そんなものなんだと当人はあっさり受け流しているようだ。
「別にぃ? バラしたりせぇへんよ。リュドラントの警備隊長が「男好き」だなんて、こんなおもろいこ」
「貴様っ!」
剣を抜こうとしたリュドラントの警備隊長の腰の剣を、ジェリンはあっさりと柄を抑えてしまう。思わず感心してしまうほどの鮮やかさだ。
「誰が、男好きだ!」
「ヨウやろ」
「単に同じ部隊にいたことがあるだけだ!」
「リュドラントのか?」
「そ……っ」
「ヨウ」
二人の声をディの重い声が遮った。ジェリンは既に笑みを収め、恐ろしく真剣な眼差しでディを見つめている。リュドラントの警備隊長は、自分の失言に気づいて渋面していた。
「最初からそれが狙いか。心配しなくとも、俺の剣は既にアディに捧げている。今更リュドラントに義理立てするつもりもない」
ジェリンから目線で問われ、私は仕方なく頷いた。強引だったとはいえ、ディが私を裏切ることはないだろう。ディにとって、剣を捧げる主というのは、かなり特別なものであるのは確かだからだ。
「……ジェリン、ディは従者なんだよ」
「あ?」
「女神の従者。だから、絶対に女神を裏切ることは出来ないんだよ」
私はあえて自分ではなく、「女神」を裏切れないと口にした。
「それがどうした」
しかし、ジェリンはそれでは信用出来ないらしい。ディはため息を付いて、私の言葉に口を添えた。
「違うだろ。俺は、女神なんかじゃなく、オマエに誓ったんだ、アデュラリア」
ーー女神の盟約により、我はアデュラリアに騎士として、終生護り仕えることを誓う。
一瞬、あの時のディの姿と、誓いを思い出してしまった私は、結局口を曲げて顔を背けた。
「……頼んでない」
「言えば、誓わせなかっただろうが。それじゃ、おまえを守りきれねぇ」
「……そんなの……っ」
いらない、と言おうとした私の前に、ジェリンが溜息とともに口を開いた。
「オーサー二号かよ」
「は?」
「あーもー、やっぱ、無理言って、居座りゃよかったっ!」
何故か頭を抱えて呻くジェリンに、私を含めた三人が戸惑った。えっと、さっきまでこの人に尋問されてたはず、だよね。
「あのー、ジェリン?」
それから私をみたジェリンは、何故か切なそうな顔をしている。
「最初に会うて、俺がなんてゆーたか、覚えてるか」
「えーと、嫁に来い……」
「あれな、けっこう本気やったんや。せやから、親父とかおまえんとこの村長とかに頼んで、なんとか村に置かせてもらおうとしたんやけどな。どっちも折れんかった」
急に始まった打ち明け話に、先にリュドラントの隊長がため息を付いた。
「おい、俺はもう」
「子供過ぎたとか、そんなんやないで。俺かて、その頃には親父の手伝いもしとったんやからな。でもな、村長の出した条件がどうしても無理やった」
そんなことがあったのか、と大人しく聞いていた私は次の瞬間笑ってしまった。
「村長夫人も含めた村の人間全員に勝てるなら、と。俺は最初のひとりにさえ、かすり傷ひとつ付けられず、あしらわれた」
それは、私も村でやられた遊びの一つだ。毎日毎日、遊んでいると思ったら、拳闘士としての術をほとんど授けられていた。それでも、ヨシュにさえ、手加減してもらえないと勝てないんだけど。オーサーと二人で、村の人間の半分がやっとだ。
ちなみに本当か嘘か、村最強はマリベルだと言われたが、真偽を確かめることはできていない。
「そりゃぁ、無理だろ」
呆れたディの言葉に、私とジェリンが目を向けると、生温かな目で見られた。
「あの村の人間のほとんどが、本物の剣術使い、魔法使い、ないし、札士だからな。村長夫妻に至っちゃ……っと、しゃべりすぎたな」
「え、マリ母さんたちがなんなの?」
「知りたいなら、本人に聞いてくれ。俺も命は惜しい」
残念なことにディはそれ以上教えてくれなかった。確かに、村の外と中ではあまりに力量差がありすぎることは私も知っていたが、何か理由があるとまでは考えなかった。無事に村へ戻ることが出来たら、ヨシュか村長辺りでも問い詰めよう。マリベルには間違いなくはぐらかされそうだから、そもそも聞かない。
小さい頃のジェリンが勝てなくても無理は無いとしても。
「そういや、いつの間にか来なくなったよね。いつから、軍人になんてなったの?」
私が首を傾げて問いかけると、ジェリンは何故か寂しそうに笑っただけだった。謎だ。
さて、ジェリンとディと話しているが、この場にはもう一人いる。リュドラントの警備隊長だ。彼はディが私に騎士の誓いをしたという話の辺りから、ディを鋭い目で凝視している。
「兄貴……」
二人は目線を合わせて、それだけで会話終了してしまった。やはり、ディが主を持つということは何かあるのだろう。もしかすると、リュドラントにいたことにも関わりがあるのかもしれない。
しかし、これは困った。なんといっても、何故か場の空気が重い。原因はリュドラントの隊長とディのせいだ。私が救いを求めてジェリンを見ると、彼は数度瞬きしてから笑顔で頷いた。
「せや、アディのドレスを仕立てんとあかんな」
斜め上の助け舟どころか、ジェリンはあり得ない展開をねじ込んできた。
「いくらなんでもリュドラントの王様に会うのに、そのカッコはないやろ。近くに知り合いの仕立屋があるし、いくか」
にかりと笑うジェリンから、私は自然と後退り、距離をとろうとした。しかし、ここは狭い室内。半歩で踵が壁についてしまう。
「や、やだ……」
「観念しぃ」
「いーやーだーぁっ」
抵抗むなしく、私はジェリンに担がれるようにして、その場を抜け出すことになったのだった。
うむ、リュドラントの隊長の名前を出す隙がなかった。
(2013/04/25)