35#よくある宣言
かつて世界は女神によって治められていた。女神がいなくなり、国として分裂した各々が統一を目論んでも何の不自然もなく、隣国同士で争うことは当然だ。その上、ルクレシアとリュドラントは数十年前までは同一の国家であったことも要因し、当たり前のように仲が悪い。いくら紋章を重ね合わせた所でその均衡など脆く崩れやすく、だからこそ、今日まで両国間に関が設けられ、警備隊が常駐している。
だが、歴史的事項を無視したとしても、リュドラントは港を保有するルクレシアを欲しがっていたし、ルクレシアはかつての首都を置いていたリュドラントの土地が欲しかった。両国の危ういバランスを辛うじて保っていたのは次世代の女神とまで言われたアークライト妃の存在のみといっても過言じゃない。
そんな話をハーキマーの家で別れる前に、私とディはフィッシャーから聞いた。なんの力も持たない一般市民である私自身が世情に疎いのは知っているけれど、そこまで隣国との関係が危ういとまでは知らなかった。そう言うと、イェフダ様は口元に指を一本立てて、苦笑していた。どうやら、この辺りのことは、私でなくとも知るものは少ないということらしい。
「戦争を始めるのは簡単です。アークライト妃がいない今、ほんの少しのきっかけで両者の均衡は崩壊します」
「きっかけ?」
「リュドラントの警備兵がルクレシアの警備兵を、或いは、ルクレシアの警備兵がリュドラントの警備兵を害せばいい」
フィッシャーの話を声のした方へ走りながら思い出して、私は強く奥歯を噛み締める。このルクレシアと隣国リュドラントが戦争をしていたのは、今の自分が生まれる前の出来事だ。経験しているはずもないが遠い記憶にある、もっと昔の、夢で見た戦争の情景に、私の肌は粟立ち、恐怖と怒りに胸が震える。
私のいた場所から叫び声の聞こえた位置までの距離はそう離れていないから、ディが着いてくるかどうかなんて気にしていなかった。だから、ただひたすらに急ぎ、声を張り上げようと口を開く。
しかし、私の口から、音は、出なかった。自分に何が起きたのか私は理解する間もなく、砂埃の舞う地面が近づく。どさり、と自分が倒れた音を、私は他人事みたいに聞いていた。
「……ィ、アディ!」
焦りと願いと祈りと、初めて聞く泣き出しそうなディの声が、私を呼び戻す。
「医者はいねぇかっ!」
射られたと気付いたのは、ほんの少し後になるけれど、この時はただどうしてそんな風にディが泣きそうに呼ぶか不思議だった。逆光の眩しさを感じながら、私はうっすら目を開いて、目の前の黒い影を見上げた。
「アディ?」
とぎれとぎれの自分の声をひゅうひゅうと風の音が抜けて、言葉とならない。肺に傷がついているのだろうか。肩も痛い気がする。でも、今は耐えなきゃいけないと、私は呼吸を落ち着かせて声を発した。
「女神、の、誓約に、おいて、命、じます」
かすれた自分の声が耳に届き、言葉になったことを安堵する。
「ディは、直にこの中心に、行って……騒動を、止め、」
「嫌だ!」
ディの強い拒否に、私は目を大きく開いた。
「俺は二度も主を失わねぇ。アディを、好きなヤツをこれ以上死なせられるか!」
ひどく苦しげな咆哮を聞いて、そこからディが騎士の誓いをした時の、そしてその後の過剰すぎる行動の理由を察知して、私は納得した。やはり以前にディには仕える主がいて、そして、失っているのだ。だからこそ、今の主となっている私が死ぬことをひどく恐れている。
「誰か医者はいねぇのかよっ、くそっ!」
せっぱ詰まる様子のディに手を伸ばすと、彼は大きな手を震わせながら、私の手を両手で包んだ。
「私、も、すぐ、行く……っ」
「ば、動くなっ」
「この、ぐらい、たい、した、こと……ない……」
ゆっくりとだが体を起こすと、左肩がひどく痛んで、私の口からは小さく呻き声が漏れてしまった。
「無理するなってんだっ」
「今、無理、しないで……いつ、するの」
ディは焦りながらも、怪我をしている私に触れるのを恐れて、無闇に触れてこない。ただそっと背中に添えてくるディの腕に、寄りかかってはダメだ。鳩尾に力を込めるようにして、上半身を自力で支える。
その状態で私が周囲を見回すと、取り囲む人々の不安と恐れの顔、そして、少し離れた場所から金属同士のぶつかり合う音と怒声が聞こえる。
地面についた右腕に力を入れて、自分の体を支え、人々の不安そうな視線を受けながら立ち上がる。ぐらぐらと目が回っている気がするのを、目を閉じて深呼吸することでやり過ごす。そして、私は倒れないように、揺れる地面をしっかりと両足で踏みしめて立ちあがる。
「道を、空けて」
私の発した掠れるほどの小さな声は、周囲の誰にも届かなかった。
「アディ、無茶だ」
座ったままのディが向けてくる願いの篭る視線を視界から追い出し、私はまっすぐに前を向いて声を荒げた。
「今すぐ戦争を起こしたくないなら、道を空けなさいっ」
気圧されるように人垣が割れ、土埃の舞い上がる戦いが、私の目にかすかに映る。痛む左肩を右手で押さえて、私はぐらつく地面を一歩ずつ進む。
「頼む、今は治療を先に……っ」
目の前に現れた大きな影を避けられず、私はぶつかる。頭が、痛い。また、地面が近づく前に、私は足を踏ん張る。肩が、ひどく痛い。でも、私がやると決めたのだから、今更引くつもりはない。このタイミングを逃せば、きっと戦争を避ける機会を失うだろうから。
「ーー天の、女神の、誓約において、命ず。この身、宿りし、女神の力、」
力を込めて綴る言葉の前に、がりっと、私は柔らかくも硬い何かを噛んで、言葉を繋げられなくなった。何かというのは人の指で、口から離されたその指が誰のかと視線を上げれば、ひどく辛そうな表情のディが私を見下ろす。
「少しは俺の話も聞きやがれ……っ」
ディの立場を思えば、私にだって、彼が言わんとすることがなんなのかはわかる。だけど、聞くことは出来ても、今の私はそれを聞き届けられない。
「聞けないよ」
「アディ、頼む」
「聞けない」
「アディ」
縋る言葉も腕も、私は振り払い進む。
「ファラ」
私が歩きながら呼ぶと、普段通り悠長にゆらゆらと妖精が落ちてきて、目の前に留まる。その顔も葉の上も雨に打たれたようにぐっしょりと濡れている。
「行かせません、アディ」
「……あなたまで何言うの。いいから、ディを刻龍のところまで案内して、」
小さくとも風の妖精であるファラならば、それがわかるはずだから、と呼び出したのだが。
「アディが死んでしまうです。僕は、もう、これ以上……あなたを失いたくないですっ」
涙声から溢れる滴はファラの乗る葉に落ち、そこからさらに滴がボタボタと落ちて砂色の地面を黒く染める。
二人が言うほど、私は死にかけているのだろうか。たかが、矢が一本通り抜けただけだ。それも実体のない魔法の矢であり、傷は痛むが実体のある矢とは違って、破片が残る心配もない。普通の矢を受けるより別なことがーー呪いがないか心配となるのはおそらくこの矢を放った相手が刻龍だからだ。見てはいないけれど、おそらくはそう。だからこそ、何が起きるかわからないけれど、そんな心配は起きてから考えてもいいと私は思う。
今は、戦争を起こさせないことが、どんな事象よりも最優先なのだから。
目の前で泣きじゃくる小さな妖精を、私は眼差しを柔らかくして見つめた。私が自分の正体を知ってから従わせることができたのは、この妖精だけだった。彼だけがいつもそばにいてくれた。だけど、彼以外が私に従うことはなかった。世界が女神を必要としていないことなど、私自身がとっくに気がついていた。
「ファラ、お願いよ」
ふよふよと近づいてきた妖精が、私に触れる。小さな手はひんやりと冷たい。
「お願いだから、言うことを聞いて」
「できませんです、アディ」
「ディにも私にもわからない。でも、ファラならアレの居場所がわかるでしょう?」
「できません、アディっ! 今のあなたを一人になんて、できませんっ」
触れ合う部分から、ファラの優しさと不安が流れ込んでくる。心優しい、しょうのない妖精だ。
「女神アデュラリアの誓約において命じます。ファラは今すぐ私を射った刻龍を、私の前まで連れてきなさい」
「いやです、アディっっ」
妖精を肩を抑えていた右手で引っぺがすと、いやいやと首と両手両足を振って、拒絶する。その様子はとても可愛らしいが、持っている手から振動が伝わってきて少し辛い。かといって、ここで痛がって手を離したりなんかしたら、ますます言うことを聞いてくれなくなる。
「ファラ、私にはあなたしかいないの。私をこれ以上情けない女神にしないで」
小さな声でゆっくりと諭すと、ようやくファラは動くのをやめた。つり下げられたまま、小さな目が不安に揺れつつ、私を見つめる。
「僕が戻るまで無茶しないでください、アディ」
「わかってる」
ファラの同意を得て、私は体ごと後ろを振り返り、ディに彼を放り投げる。
「わぁっ」
「ディ、ファラだけじゃ無理だから一緒に行って。ここで待ってるから」
私はゆっくりと地面に腰をおろし、二人を安心させる為に笑顔を向けた。
「いってらっしゃい」
二人は途惑うように私と互いを少し見た後、同時に息を吐き出した。
「絶対に、ここを動くなよ」
「うん」
「すぐに連れてきますから、無茶しないでくださいね」
「うん」
ディとファラ、それぞれからの忠告に頷くと、二人は心配そうにしながらも、すぐに私を残して駆け去った。
動かない、なんて約束は、していない。私はただ二人に頷いただけだ。待つほどの時間はないと、場の空気が知らせてくれるから。ポケットに忍ばせておいた小さな錠剤ーー痛み止めを口に放り込み、飲み込む。別れる前にハーキマーさんからもらったものだ。効き目が現れるのは一分程度と言っていた。それほどに強力な痛み止めで、普通なら副作用で眠くなるはずの成分も殺してあるらしい。代わりに襲ってくる強烈な苦味と吐き気に口を抑えて、やり過ごす。吐いてしまえば効かないとも言われたからだ。
「ーーごめんね、ディ、ファラ」
苦味と痛みが少しだけ引いた体で立ち上がり、私は耳を澄ませた。割れたままの人垣を歩き出す。
「おい」
「……やめたほうが……」
私を気遣い止めようとしてくる人々を一瞥し、私はまっすぐに騒動の中心へと足を進める。
金属をぶつけあう高い音と低い怒声、その中で目当ての者達を探る。そして、自分の間合いに入ってすぐに私は地面を蹴り、周囲の剣を交える警備兵達の間をすり抜けるようにして、その場所まで到着した。
「な、なんや、おまっ?」
ヨンフェンの警備隊長は私を知っているらしく、驚いた表情が視界の片隅に入った。もしかして、ミゼットかイネスの出身の者なのかもしれない。あの村のほかで私を知っているものといえば、その辺りの子供が主だ。
だが、今は追求している時間はない。私は休むことなく、まずヨンフェンの警備隊長の剣を狙って、蹴りを放つ。
「はぁっ!」
流石に剣に当たることは無かったが、後退した姿を着地した横目に見やりつつ、そのままリュドラントの警備隊長に連続で蹴りと拳を放つ。
「な、おまえ……っ」
それも避けられるのは想定内だ。むしろ、そのぐらいの力量がなくては困る。二人を引き離した中心に膝をついた私は、肺に空気を送り込み、腹に力を込めて一気に吐き出す。
「両者、剣を引け! ここは両国の中立域! このまま戦争を始めるつもりでないのなら、剣を治めよ!!」
「女、何様のつもりか知らんが……っ」
リュドラントの警備隊長が息巻くのを、私は強く睨みつける。何を言いたいかわかっていても、今はそれを先に黙らせることが先決だ。
「私は、アデュラリア!」
これを口にしてしまえば、後戻りできない。だけど、私はもう二度と、女神に関わる戦なんて、繰り返したくないんだ。
「最後の女神の末裔よ!!」
ディ祭開催中!
この間の賢者たちの動向もあらすじでは書いていたんですが……さて、どこで載せようか。
とりあえず、しばらくはヨンフェンです。
(2013/03/26)