3#よくある見送り
高く青い空を薄雲が駆け足で辺りを立ち去ってゆくのを、私は足下の翳りで眺める。別に好きで空を見上げずに眺めているわけじゃない。通り過ぎる風のさざめきさえも頭痛の種になる原因は十中八九、昨夜の送別会のせいだ。これが最後とばかりに皆が勧めるのを断りきれず、かなりの量の酒を飲んでしまった。一応、半年前に成人――国の定めた年齢は十五――しているとはいえ、皆もう少し加減してほしいものだ。いくら私がまったく酔う素振りを見せなかったからって、ほとんどが三十過ぎの大人だって言うのに容赦ない。
「アディ、ほら薬」
マリベルに手渡された木製の椀の縁いっぱいに入った、白く濁る液体を一気に飲み干す。湯気が出ていたから熱さは覚悟していたものの、顔を一瞬でしかめさせるこの苦みだけはどうしようもない。
「苦~っ」
涙目で私が椀を返すと、マリベルは苦笑しながら受け取る。今日もいつもの白いシャツに赤いチェックのロングスカートだが、髪は頭の上の方に団子状にまとめてある。
「外では昨日みたいに飲んじゃだめよ」
「あんなんここでしかやらないよ~」
いくら酔わないといっても自分で気が付かずに酔っていたりしたら、もしもの場合に対応できないという自覚ぐらいある。
「食べ物と飲み水には気をつけるのよ。拾い食いなんてしちゃだめだからねっ」
「大丈夫だよ、母さん。僕がちゃんと見てるから」
「……マリ母さんも、オーサーも、私をなんだと思って……っ」
反論しようにもごうごうと音が渦巻いて、キリキリと頭を締め上げる痛みと共に私を苛む。その状況の最中、この悪酔いの最大の原因が私の肩に大きな手をかけた。
「わしの勝ちだな」
顧みなくてもわかる低いガラガラ笑う声を視線だけ向けて睨みつける。
「馬鹿いわないで。先に酔い潰れたのは村長でしょう」
「チッ、覚えていたか」
舌打ちするウォルフが目の前に差し出した小さな牛皮の袋を受け取り、中身を確認してから懐に捩込む。中身は旅に必要な最低限の路銀として、百オール程の小銭がじゃらりと詰まっていた。持っている小遣い程度では足りなかったし、金を持っているわけでもない。何より遠慮するような間柄でもないので、素直に受け取った次第だ。オーサーには後で話せばいいだろう。
「帰ったらまたやるぞ」
大きな手が頭を覆い、揺らさないようにぐるりと撫でる。
「……死ぬんじゃねぇぞ」
「誰に育てられたと思ってんのよ」
「けっ、てめぇで育ったんだろうがよっ」
頭の上の重さがなくなったと思うと同時に、強く背中を叩かれ、一瞬息がつまった。
「っ、」
抗議しようと振り返った私は村長の顔をまともに見上げて、そのまま口を閉じる。
「オーサーを頼んだぜ。あいつを、死なせんじゃねぇ」
それは人の親であれば誰もが願うこと。信用しているとかいないとか、そういうものじゃなくて。いつになく真剣な顔で、願う声は真っ直ぐに心に響いて、少しだけオーサーを羨み、少しだけ迷った。本当にオーサーを、私のわがままでつれていっていいかどうか。
「それから、」
迷う私をまっすぐに見たウォルフは、不意に表情を崩して柔らかく笑った。
「おまえも、な。ちゃんとここに帰ってくるんだぜ」
理由とか何も無く、ここが帰る場所だと繰り返してくれる養父の優しさに、溢れそうな涙を隠し堪えて。私はただ強く深くうなづいた。
* * *
養父母に見送られて村から出る時に、私とオーサーは遠くから投げつけられた餞別をそれぞれに手にした。手にしたとたんにそれはばさりと開き、ひらひらとした裾の長い女物のスカートであることを風に流して示してくれる。一応落とさないように私もオーサーも手にしていたが、投げられた方向から走ってくる男を見ずに二人で顔を見合わせて、同時に息を吐く。
「なんなの、ヨシュおじさん」
「何って餞別だろ」
私達の前で立ち止まったヨシュは、ウォルフと並ぶと頭一つ分小さく見える。
「餞別って、これが?」
「どうせその服の替え位しかもってねぇんだろ。女物がひとつあると便利なんだぜ」
何がどう便利なのか詳しく聞いても、碌な答えが返ってこないことは経験からよくわかっている。私は一歩進み出るオーサーに自分のスカートを手渡す。慣れている相棒はそれを自分のと合わせてヨシュに突っ返す。
「な、ん、で、よりにもよって、こんなもの渡すんだよっ」
「黙って受け取れって、オーちゃん」
「ちゃんって、呼ぶなっ!」
ヨシュに返してくれるのはいいんだけど、頭にオーサーの少し高めのトーンは響く。隣に来たマリベルに素直に寄りかかって甘えておく。
「俺らだって、ここに来る前に旅してて、かなり楽になったんだぜ。な、村長」
深くウォルフが肯くのを見て、オーサーと二人で顔を見合わせ、同時にマリベルに視線を送る。マリベルは少し困ったように微笑み、視線を逸らした。かすかに青ざめているようにも見える。
「あれは、楽というか」
「……お前は楽しんでただけだろ、ヨシュ」
ひどく不機嫌な顔でウォルフがヨシュを睨みつけると、彼は肩を小さくすくめた。
「ま、気ぃつけて行ってこいよ」
スカートを今度はウォルフに押し付け、じゃあなとあっさり背を向けてしまったヨシュを見送る私達に、彼の姿が見えなくなってからマリベルがそっと教えてくれる。
「相変わらず、別れが苦手なのね」
隠してるけど、かなり涙もろいのだと聞いた後で、不謹慎だけどオーサーと二人で噴出してしまった。だって、あのヨシュだ。いつも私たちをからかって遊んでて、余裕に見える「あの」ヨシュが。
しかたないなとオーサーと二人で餞別をバッグにつっこみ、荷物を担ぎなおす。といって、ふたりとも互いに背中に軽く背負える程度だから、一キログラムもないだろう。
「じゃあ行くね、マリ母さん」
「ええ」
「おい、俺には何もなしか?」
それはないだろうと名残惜しそうなウォルフを見て、それからオーサーを見る。オーサーは深くため息をついている。
「父さん」
「おまえはいいんだよ、オーサー」
これはもう言わないとダメだろうけど、呼ぶとオーサーはまた拗ねるのだろうか。少し伺いみると、呼んでやってくれと目で言われてしまった。
真っ直ぐにウォルフに向き直る。とても期待した目を直視して、私は今にも羞恥で逃げ出したいのを堪えて、マリベルを真似て、ゆっくりと微笑んだ。
「行ってきます、お父さん」
言ってから直ぐに彼らに背を向け、足早に村の外へ向かう。追いかけてくるオーサーの足音よりも遠くから、ウォルフが吼えるように咽び泣く声と宥めるマリベルの優しい声を聞きながら、私はなおも歩く速度を速めた。
止まったら、たぶん私が泣くと思った。それはそれだけ二人の存在が私の中で大きいということの現われで。追いついてきたオーサーが気遣う言葉に何も返さず、そのまま村を抜けるために森へと足を踏み入れたのだった。