22#よくある古地図
「皆様、失礼いたします。ーー空」
ラリマーが落ち着いた声で力ある言葉を唱えると、ふわりと目の前のカップと中の液体が浮き上がり、それぞれにいつのまにやら用意されたワゴンへと収まっていった。普通の貴族の屋敷であれば、ここは使用人がカップをさげるところなのだろうが、何故刻龍の隠れ家でラリマーが片付けなどをするのだろうか。
と、そこまで考えて、私はここがどこなのかようやく思い当たった。
「……ここはイェフダ様のお屋敷? 刻龍の隠れ家じゃないの?」
「私は一言もここが隠れ家とは言ってませんよ」
クスクスと笑う賢者は確かに、記憶の中で一言もここがどこだと言っていない。「言えない場所」と「刻龍の隠れ家」が同じだと勝手に思い込んでいたのは私の方だ。
「それで、ここはどこなの」
私は睨みつけたものの、フィッシャーは全然まったく気にかける様子もなく、クスクス笑いを続けている。答えるつもりはなさそうだ。
「ここはランバート郊外の私の本邸になります。年に一、二度訪れる程度なので、使用人がいないため、アデュラリア嬢にはご不便をおかけします」
「それは、構いません、けど」
丁寧なオーブドゥ卿に対し、そういう対応をされることに慣れない私は、むず痒いものが背中を這うように感じて、小さく身じろぎした。隣でオーサーが苦笑しているのは私の行動の理由に察しが付いているからだろうけれど、なんでディまで生温い笑顔で私を見ているのだろうか。
「イェフダ様」
そんな中でラリマーがオーブドゥ卿に抑揚のない声をかけると、彼はひとつ頷いて返した。
「広げてくれ」
話している間に用意したのか、ラリマーの腕には両腕で抱えるほど大きな一枚の日焼けした古い紙が丸めて抱えられている。
「皆様、失礼します」
一言断ると、ラリマーはそれをテーブル上に丁寧に広げた。ラリマーが持っているだけでも大きい印象はあったが、広げると更に大きい。テーブル上は直ぐにその紙で覆いつくされてしまった。紙自体は最初に思ったとおりに新品ではないようで、端が鼠に齧られたみたいにぼろぼろになり、何度も水が沁みては乾いたみたいな後の残る汚い紙だ。そこに描かれているのは風景画のような大きな地図に見える。
「宝の地図、ではなさそうですね」
「ある意味では同じものですよ」
にこやかに答えるオーブドゥ卿とは対照的に、フィッシャーとディの二人ともが、明らかに動揺して椅子を揺らした。
「こりゃぁ……っ」
「イフ、こういうものを手に入れたらすぐに言えと……っ」
先ほどまでの余裕はどこへやら、二人ともが腰を浮かしたまま地図を凝視する。その視線は宝を見つけた子供と相違ないだろう。それほど珍しいものなのか、と私とオーサーは瞬きした。
「珍しいの?」
「珍しいなんてもんじゃねぇ。よくこんなもの残ってたな」
興奮状態のディはこちらがわかるように答えるほどの余裕もないようだ。こんなもの、とは一体なんなのだろう、とオーサーと顔を見合わせるも、こちらはわからないと首を振る。どうやら目の前のこれがなんなのかわからないのは、私とオーサーの二人だけらしい。
「状態もかなり良いな」
おそるおそるに震える手でフィッシャーが紙に触れ、そっとなぞる。相当に貴重で珍しいものだというのが、フィッシャーらしくないように見られる動作の端々から分かるが、この古びた地図のようなもののどこにそこまでの価値があるのか、私にはわからない。
もう一度、私がオーサーを見ると、彼は大きく頷いた。
「イェフダ様、これは一体何の地図なのですか?」
オーサーの丁寧な問いかけに、オーブドゥ卿は嬉しそうな笑顔で答えてくれる。
「女神のいた時代のものは遺跡以外のほとんどが存在していないというのはご存知ですね?」
これは割と有名な話なので、私もオーサーも知っている。年月の風化以外の理由でほとんどの遺跡は壊されてしまったのだ。
「最後の女神が成長した後、地上では大きな戦争が起こりました。いわゆる」
聞きなれた文句に私はつい、露骨に眉をしかめていたらしく。隣のオーサーが軽く肩をぶつけて、無言の注意を促してくる。
「女神が天に還ってから最初に起こった戦争で、遺跡以外の一切が焼き尽くされたんですよね」
「正確には、当時の王の手によって、です。最初にこの世界の王となった男は、女神に関わるもので、女神の信仰以外の痕跡の一切を消そうとしました」
女神がいなくなり、最初に一つの国が作られた。だが、女神がいたからこそ成り立っていた統治は容易でなく、国は少しずつ分かれてしまった。幾度となく戦乱を繰り返し、そして今は二つの大国と一つの小国となってしまった。大神殿のあるこのルクレシアは中立国とされる小国だ。あとの二国ではこの五年だけでも二度、衝突があった。
「これは女神の遺品なんですか」
「女神のいた時代の世界地図、といえばいいでしょうか。流石に古神聖文字まで使われては、現代の神官であってもここにある文字を読むことはできませんが、なんとなくこの辺りとか見ると現在と繋がるでしょう?」
同意を求められたフィッシャーは、まだ地図から目を離さずに肯定を返してくる。新品の玩具を与えられた子供のように夢中になっている様子からは、今までの憎たらしいほど余裕綽々だったのが嘘みたいだ。
ここに書かれている文字は普通は読めないものなのか、と私も地図に目を落とす。
「アディ?」
「なんでもないわ」
オーサーのいぶかしむ声に、私は片手で眉間に寄った皺を直しながら答える。
この地図に書かれている文字に、私は見覚えがある。村にあった無人の神殿の壁にも同じような文字があったからだ。そして、それを私はマリベルに文字を習う前から読むことができた。
文字に手を触れる。それだけで、そこに書かれた意味を知ることが出来るのは、普通の技ではない。そして、それが出来る意味というのも私には嫌になるほど分かっている。
「それで女神の眷属かもしれない私が命を狙われる理由とこの地図、どう関係あるの」
私の問いに対し、少し困ったようにオーブドゥ卿は微笑む。
「これは女神が宝とされる所以でもあるのですが、この世界には女神にしか開けることの出来ない五つの扉があります。その扉は天へと通じていて、女神だけがその扉を通っていくことが出来るのだと伝えられているのです」
そうだっただろうか、と私は目を瞬かせた。夢の中ではそこまで詳しく見ていないから断言できないのだが、重要なのは扉ではなく、場所だったような気がする。もちろん、そんな疑問を口にするつもりはない私は別の疑問を尋ねてみた。
「断言するということは、その所在はわかっているんですか」
しかし、これにはとても残念そうに両目を閉じて首を振られてしまう。
「いいえ、文献にそう残っているのです」
「文献に? さっき信仰以外の一切の痕跡を消したって」
「民の目に触れることのないように、消されたのです。まさか本当に消せるはずが無いでしょう。この世界は盲信的な女神信仰でなりたっており、何人たりとも女神を敬愛せずにはいられないのです。これは言わば、魂の刻印であり、誰にもそれに逆らうことも取り除くことも出来ません」
断言するオーブドゥ卿に、私は考えるよりも先に言葉が口をついてでていた。自分の思考に、夢の中の女神が重なるのを感じる。
「嘘よ、現に……最後の女神は……っ」
私は、と声にならない言葉が喉に引っかかる。こんな時まで取り繕おうとしてしまう自分が滑稽で、代わりに口にしていたのはフィッシャーから聞いた話の方で。
「ーー貴族に、殺されたのでしょうっ?」
自分を守るはずだった、一番近くで信頼し、力まで分け与えた存在に殺されたことが、まるで昨日のことのように脳裏に蘇った。そうしてしまうのは同じ愛称をもつ、未だ地図に釘付けとなっているフィッシャーが、そして、彼の親友と同じ愛称のオーブドゥ卿がいるからに違いなく。私は悲しみに自分の心が引きずられているとわかっても、自分ではどうしようもなくなっていた。
信じていたのに、どうして「私」を裏切ったんだ、フィス。
「最後の女神を殺した貴族の名前を聞きましたか?」
「……いいえ」
それは一般人が知ることのないはずの名前で、「私」にももう思い出せない。それを、オーブドゥ卿が口にする。
「フィッシェル・クラスター大公。当時、女神の親衛隊長を務めていた者で、最も信頼の厚い男でした」
名を聞いた瞬間に、「私」の中には言い知れぬ悲しみが生まれた。何度、彼の名前を呼んだだろう。何度、彼に救われただろう。何度、彼と想いを重ねあっただろう。それなのにーー。
「アディ?」
ボタリと、私の膝の上に握った拳に、大きな水滴が落ちた。自分はあの時のことの全部を思い出してはいないけれど、それでも感情が哀しみを、怒りを蘇らせる。
「信頼、していたのよ」
強く噛み締める奥歯が、ぎりりと悲鳴を上げる。
「そうしなければ止められないというから、私は剣をとったのよ。もしも女神が死んでも他の女神が還らないと知ったら、この世界が崩壊するというから、私は世界を、私に付いてきてくれる者たちを死なせないために戦ったのよ……っ」
強すぎる夢の残滓に感情を引きずられ、溢れる涙も怒りに震える拳も、自分では制御しきれない。自分が放つ言葉さえも自由にならない。
「なのに何故……っ?」
完全に思考が夢に引きずられている私を、聞き慣れたテノールが強く引き留める。
「アディ!!」
「私」の両肩を強く抑え、オーサーの強い瞳が私を引き戻す。
「違うよ、アディ。君じゃない。それは君じゃないよ、アディ」
「オー……サー……?」
「落ち着いて、よく思い出してよ。アデュラリア、君じゃない。君は、違う」
重ね合わされるオーサーの額と、近くで囁くオーサーの言葉を聞きながら、ゆっくりと私は目を閉じる。
「君は、女神なんかじゃない。負けず嫌いな僕の姉で、少しだけ魔法の使える、」
そういえば、まだ小さい頃によくこうされた気がする。私が時々夜中に夢に震えて泣く時、オーサーはいつも抱きしめて囁いてくれた。私は違うのだと、女神の眷属でも、女神でもないのだと言ってくれた。その言葉で、いつだって私は私に戻れた。
「僕の大切な女の子だよ」
嵐吹き荒れる私の心を落ち着かせる、オーサーだけが使える魔法だ。
私はのろのろとオーサーから離れ、目を開く。そこには安堵の笑顔を返してくれる大切な弟の顔があった。
「取り乱してごめん、オーサー。それから、ありがとう」
「……え?」
「私は、女神でも、女神の眷属でもない。私自身が認めちゃいけないって、忘れてた」
戸惑ったオーサーが首を傾げる。
「あの、さ。僕の話聞いてた?」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「うん?」
「いや、そうじゃなくて、さ」
もごもごとオーサーが口ごもっていると、オーブドゥ卿が少しわざとらしい咳払いをした。
「アデュラリア嬢の旅の目的は系統を調べることにあると聞きました」
誰とは言わないが、彼らが私についていろいろと知っているのはオーサーが話しているからだと、これまでの経緯でわかっている。賭けに負けたオーサーはほとんどのことを話してしまっているに違いないのだ。
「通常神官の試練として行われるものに、天の回廊、という項目があります。いわゆる、天界を覗き見る技です。これは神官能力査定のひとつではありますが、過去にはこの回廊まで個人の精神を飛ばせるほどの能力者もいました。歴史上知られている女神の眷属はこの方法で系統検査を行ったと、当時のディルファウスト王の日記に残されています」
女神に関する情報というもののほとんどはそのディルファウスト王の時代の記録を元にしているというのは、私も聞いたことがある。
「ああ、これはもちろん公式記録ではありませんがね。貴方の歳まで知らずにいると系統検査は通常の方法では行うことが出来ないのですよ。そうですね、フィス」
話を振られたフィッシャーは、今度は嫌々ながらにオーブドゥ卿を顧みる。
「五歳以上の系統審査は通常の方法では行うことが出来ず、万一やるためには道具と相応の能力をもった神官が必要となる。それから、」
実に苦々しい顔で、フィッシャーはそれを口にした。
「大神殿でなければその審査を行うことはできない。それを可能にしている理由が「扉」にあるからな」
「扉?」
「女神だけにしか開けられない五つの扉の一つ、その場所に大神殿は立てられています」
五つの扉についてはさっき聞いた気がする。
「それなら、他の四つの扉に力の強い神官と行けば、系統検査できるってこと?」
「残念ながら、現存している扉で所在がわかっているのは三つだけです。そのうち、使用することが出来るのは大神殿しかありません。他は神殿そのものが破壊されていたり、水没していたりするのですよ」
オーブドゥ卿の答えを聞いた私は、少しの間額に手を当てて考えた。つまり、それは。
「なに、最初から大神殿には行かなきゃいけないんじゃない」
「別にそんなもの調べなくてもいいと言っているじゃないですか。私の妻になれば公式の記録なんてあってないようなものになりますよ。そうですね、アディなら猫とかもいいんじゃないですか?」
「黙れ、ロリコン」
ここまでの話を総合すると、女神の眷属と「疑われている」から私は大神殿に行くことはできないこと。それから、大神殿でなければ扉が開かれていないから、その扉にいかなければ審査できない。それから、相応の神官能力を持つものが必要、と。
「結局、この地図はなんなの?」
「あー……これは仮定なのですが、」
オーブドゥ卿が何かを迷う瞳で、ディを見る。その意味がわからないディは首を傾げた。
「なんだ?」
「女神の従者は一切の魔法を受け付けない体質です。もしかすると、ディであれば他の扉を開けることが出来るかもしれません」
もしそうであれば、道具と能力の高い神官がいれば、大神殿でなくとも系統を検査することが出来る、とオーブドゥ卿は言う。
視線が集中し、少し困ったようにディが首に手をやった。
「悪いが、それは無理だ。俺もいくつか遺跡を回ったが、入れない神殿も多かった」
「水中神殿フィアネルや、虚空の砦カーフォルでなく?」
「ああ、女神の使う術式はこの世界とは別の理で出来ているらしい。神殿の祭壇の間まで行くことが出来ねぇ」
ディの返答で、明らかにがっくりとオーブドゥ卿の肩が落ちた。
「ディとフィスがいればすべての遺跡に入れると楽しみにしていましたのに……っ」
どうやら、今回の私の系統検査に関して、かなり私情が混じっているようだ。
「イフは相変わらず馬鹿だな」
「ほっといてください。あなたにだけは言われたくありませんよ、フィスっ」
慰めているのか抉っているのかわからないフィッシャーの言葉に、強気にイフが言い返しているのをみて、自然と私の口から穏やかな笑みが零れ落ちる。
「オーブドゥ卿って、案外面白い人ね、オーサー」
「う、うん」
隣にいたオーサーは何かを誤魔化すような曖昧な笑顔を浮かべていた。
長すぎる章を分割しました。
なんか、紛らわしくてごめんなさい……