2#よくいる家族
神殿からまっすぐ見下ろせる、村に一つしかない商店街へと私は走って入った。人口二十名にも満たない小さな村にしては珍しく左右に二軒ずつ、計四軒ある商店の間を、追いかけてくるオーサーを置いて行きすぎないように、時々私は体ごと振り返る。買い物をしている村人らがそれぞれに私たちの追いかけっこを笑う声と、村の静かな喧噪が高い青空に吸い込まれて尚止まず、軽い砂埃が舞う私の足下ではくるりと小さな風が渦巻いてダンスをしている。
「アディっ」
「追いていくよ、オーサー!」
足に力をこめてさらに加速する私は、狙いすまして投げられた手のひら大の何かを、反射的に片手でひとつずつ受け止め、足を止めた。両手にはよく熟れた瑞々しい赤い実が二つ、野菜とは思えない甘い香りを放っている。
「こーゆーときは果物だよ、ヨシュおじさんっ」
投げた方向――左側の商店の右端で取れたての胡瓜や茄子といった青々とした野菜や桃や林檎、西瓜を並べた小さな露天商を開いている濃い髭を生やした男が笑っている。農家の常のように日に焼けた黒い肌の下で妙に優しい黒い目がアディを見つめていると、隣に私に追い付いたオーサーが立ち止まる。両手を膝において、荒い息ながら、オーサーも露天商の男を不思議そうに見つめる。
「ばーか、ガキは野菜とっときゃいいんだよ」
「ヨシュおじさんはいっつもそれね」
私が隣のオーサーの頭にトマトを乗せて手を離すと、オーサーは頭上から転がり落ちてきたそれをわたわたと手にする。
「早くマリベルぐらいにはなってくれよ?」
私も貰ったトマトを一口をかじったところでそれを言われて、一瞬喉に食べたものが詰まって、蒸せた。
マリベルというのはオーサーの母親の名前だ。村一番の美人な上、細身ながら体型もどこぞのモデル並みにはっきりとした凹凸を持っている。男に間違われる私とは天地の開きがあるそれと比べるのは、明らかな皮肉だとしか言いようがない。
「ヨシュおじさん」
陽気な露店商の男は、私の隣で唸るオーサーが剣呑な空気を放っても、にやにやと笑うばかりだ。嫌みがあるわけではないので、別に私は彼を嫌いではない。
「ヨシュおじさん、これ、ありがとう。オーサー、行こう」
一気にトマトを食べ終えてからの謝礼の言葉と同時に、私はオーサーの手を握って、また走り出す。私たちを見送る露天商のヨシュは、相変わらずの笑顔を浮かべたままで、片手をあげて返してきたのだけが見えた。
村の小さな商店街を抜けるとすぐに村を十字に分ける角があり、左に折れると一面に緑の高い草が生えそろう畑が視界を覆う。その緑の壁に沿うように作られた道沿いに七、八軒の並んだ家の中、角から二つめの古い木と土で作られた小さな家の前で、ようやく私は立ち止まった。並んで立つオーサーはまだ肩で荒い息を繰り返している。商店街で立ち止まってからそれほど走ったわけではないし、きっとこれはその前の疲れが残っているからだ。
「オーサー、体力落ちた?」
「アディが早すぎるだけだよ」
「これでも加減して走ってたよ」
「……わかってるよ」
追いつけないのはわかっていると言いながら、何故オーサーがむくれているのか、私にはわからない。聞いてもたぶんわからないだろうから、目の前の扉の前に意識を移す。
この向こうにいるのはオーサーの実の両親で、私にとっては養父母だ。血はつながっていないけれど、オーサーと分け隔てなく可愛がってくれた、とても良い人たちだ。
だけど、いくら良い人たちでも、いくら可愛がってくれていたとしても、二人ともきっと怒るに違いない。だって、私は彼らの一番大切なものを連れていこうとしているのだから。
オーサーと繋いだままの手に、自然と力が入る。自分がどれだけ大きな裏切りをするのかとわかっていても、これだけは手放せない。オーサーが私を拒絶しない限り、私はオーサーと離れたくない。
「大丈夫だよ、アディ」
穏やかなオーサーの声で、引き始めの弓の弦みたいに張り詰めていた緊張が和らぐ。理屈でなく、いつもそうやって隣で支えてくれるから私が安心できるのだと、この弟は知ってくれているのだろうか。
「一人で行かせないから」
握り返された手は私と同じぐらいの大きさなのに、こういうときは不思議と大きく感じる。力強い応援を更に握り返した手で伝えてから、気を落ち着けるために大きく深呼吸して、私は空いた手で取っ手を掴んだ。
そのタイミングを見計らったかのようにドアが向こう側から一気に引き開けられるとは、誰も予想できないだろう。
骨と木が強くぶつかったかなりイイ音と同時に、私は顔を押さえてうずくまる。頭がぐらぐらして、額が割れるように痛い。
「ちょーどいいところに帰ってきたわ、オーサー!」
絶妙のタイミングで戸を開けたのはオーサーの母親で、マリベル=バルベーリという女性だ。白無地の腕と首まで覆うネックシャツを着て、緑のチェック生地をパッチワークしたロングのふわりと広がるスカートを履き、腰をスカートと同色の緑の幅広の布で巻いている。巻いている布は止めるのではなく、内側に入れ込んでいるのだ。
さっきの露天商のヨシュが例に挙げたように、マリベルはいつも重いと嘆くほど立派な胸を持っている。それでいて腰は細くて、私と変わらないが尻は腰と胸囲の中間程度だというのが本人談だ。実際はもっとありそうだけど、怒られるので私もオーサーもつっこまないことを暗黙にしている。
「アディを探してちょーだいっ。マラカスさんが、アディが新しくきた神官さんと喧嘩して、旅に出るって言ってたのを聞いたらしいのっ」
小鳥が囀るのに似た、高いけれど柔らかな声が泣きそうなのを堪えながら、オーサーの両肩をしっかり掴み、一気にまくし立てる。
「母さん、アディなら、そこにいるよ」
苦笑しながらの息子の言葉で、ようやくマリベルは私に気がついてくれた。掴んでいたオーサーを突き放し、しゃがみこんでいる私をいっぱいに涙を湛えた瞳で見下ろす。
下手をすると私やオーサーの姉に間違われるマリベルはスタイルの良い身体に小さめの顔がちょこんと乗っていて、小さいながらもはっきりと通った鼻筋が顔に陰影を作っている。白い肌の綺麗な彼女は、四十歳を超えているとは思えないほど若々しい人だ。濃すぎず、薄すぎない色の小さめの口元は、化粧をしていないのにかすかに膨れ、上から降り注ぐ陽光で瑞々しい光を返す。興奮して上気した赤い頬の上には、オーサーと同じ夜空色の瞳が乗っかり、真っ直ぐに私を見る。
先ほどまで吹いていた風もマリベルの様相に圧されて、なりを潜めてしまっている。だから、普段なら風に煽られて邪魔だとひとつにまとめているオーサーと同じ金色の長いウェーブがかる髪が縛られず、そのままであるというのに、腰の辺りで彼女に合わせて小さく震えるだけだ。
「ごめんね、アディ! あの神官さんにはちゃんと私から話しておくからっ」
私には何故かこのマリベルに拾われた記憶がある。小さい頃のことなんて殆どの出来事が朧げで、親に棄てられた記憶さえもないのに、それだけが鮮明な映像となってあるのだ。赤黒い闇の中にいた私の前に、暖かい光と温もりをくれたマリベルが手を差し延べてくれた日のことを、今でも私は忘れたことなどない。
マリベルが言葉を続ける前に、両手で彼女を抱きしめる。ふわりと肩口に私の鼻腔をくすぐるのはマリベルが得意とする焼きたてのパンの香りで、それを自然に吸い込む。
「ごめん、マリ母さん」
拾われた恩も、育てられた恩も忘れたことは一度もない。私に家族を、温もりをくれたことを本当に感謝している。
「きっかけではあるけど、考えなかったわけじゃないの。だって、このままじゃいつまでも私はマリ母さんの本当の娘になれないじゃない」
かすかにマリベルの体が震え、次には何かを合点したように私の背中を柔らかに抱きしめ返してきた。
「何言ってるの、アディは誰が何と言おうとうちの子です」
系統がすべてを決める世界だからこそ、不自由なことがある。ここで定められた戸籍上では、私はただの孤児のままだ。家族の一員でもなければ、村人でさえない。ここに確かにいるのに、紙の上では存在していないことになっている。
どんなフォローをしてもそれは確かな真実で、そこに私という存在を認めさせなくては人としての幸せの証拠を、何一つ手に出来ない。だから、きっかけはどうあれいつかは行こうと考えていた。
「すぐに帰ってくるよ」
大神殿のあるの首都ランバートまではだいたい一ヶ月ほどの行程だという。すぐに帰れる距離でないのは、ここにいる全員が承知していることではあった。
「すぐに帰ってくるから」
それでも、言わずにはいられなかった。気休めでも。そして、もしも本当に自分が女神の眷属であったら、帰れないのだとしても。
「帰ったら、私を本当の意味でのここのうちの子にしてください」
視界がじわりと歪んだ気がして、隠すようにマリベルを抱きしめる。本当の親を知らないけれど、もしもそんな人がいたとしてもやはり私はマリベルの娘になりたい。それぐらい大好きな人だから、行かなければならないのだ。
マリベルは私の腕の中で、何度も何度も頷いてくれた。
* * *
「なあ、オーサー。アディはなんでわしにはあそこまで懐いてくれねぇんだろうな」
オーサーのいる方向から、低いしゃがれた男の声がする。
「僕が知るわけないよ、父さん」
つまらなそうに返しているのはオーサーだ。彼らのやりとりは日常的に行われているので、おそらくオーサーも飽きているのだろう。
「うちに来た日から、わしに抱きついてきたことなんざ一度もねぇんだよ。こっちが両手を広げて待ってても、攻撃しようとしたり、全力で飛び越えようとしたり」
思い返してみると、確かに養父に抱きついたことは一度も無い。だが、物心つかない幼児でこの家に迎えられたわけではないし、そんな恥ずかしいことは出来なかったのだ。それを知っているオーサーが少しだけ笑いながら、返答する。
「下心が見えるんじゃないかな」
「下心なんかあるかよ。可愛い可愛い一人娘だぜ?」
外野が煩いと顔をあげると、マリベルの優しい眼差しが飛び込んできて、小さく肯く。私はしかたないなと小さく笑って彼女を離し、オーサーと養父に向き直った。養父はこれ見よがしに太く毛深く日焼けた両腕を大きく広げている。
マリベルとは対照的にかなり焼けて「黒い」と表現しても支障ないぐらい日焼けた養父は、ウォルフ=バルベーリという。筋肉質でがっちりとした体格で、オーサーの倍の身長もあるの天辺には岩と見間違い沿うなごつごつした顔が乗っている。これで、濃い黒茶の髭と同色の髪の毛がなければ間違ってもしかたないと思う私の意見には、マリベルを除いた村人の全員が賛成してくれている。
「わしに抱きついて、お父さんって呼んだら、行ってもいいぞー」
機先を制して言われた言葉に、私は口端と頬を上げて微笑んだ。見慣れているオーサーも認める極上の笑顔に、養父も私にわかるほど頬を赤く染める。
「村長」
「呼ばなきゃ、村から出さねぇぞ」
後方へ引いた右足に力を込めて、上体を少しずつ前傾にする。そして、弓の弦に弾かれた矢のように勢いをつけたまま、その大きな腕に突進した。
「うおっ」
強い衝撃を与えたし、うめき声も聴こえたのだけど。その巨体は揺らぐことなく、しっかりと私を抱きとめた。撫でる手は私の頭を覆うほど大きい。
「――お父さん」
小さく呼ぶと、少しだけその手は止まり、次いで息が苦しくなるほど強く抱きしめられる。
「母さん、聞いたかっ?聞いたかっ!」
「お父さん、そんなにしたらまたオーサーが怒るわよ~」
あらあらといいながら、平和に制止する様子の浮かぶマリベルに対して、息子のオーサーの方が苛々とした声で父親を呼ぶ。ついで、身動き一つ出来なかった私は一気に光の元へ連れ出された。そのままオーサーの背中に隠されるように庇われる。
「加減を考えてよ、父さん。アディが窒息するじゃないか」
「なんだ、オーサー。羨ましかったのか?」
そんなんじゃないと言い返すオーサーの背中を見つめながら、深呼吸して息を整える。
「ありがと、オーサー」
顔だけ振り返ったオーサーは、助けたはずの私をも睨みつける。
「アディもアディだよ。あんなの聞かなくったっていいじゃんかっ」
「なんでオーサーが怒るの」
「怒ってないよっ」
ふいと顔を背けたオーサーはやっぱり怒っている様子で、その肩越しに養父と目線を合わせた私は、二人で声を出さずに笑いあう。
「おまえら、仲良いなぁ。旅から戻ったら、二人で祝言でもあげるようか?」
これにはオーサーの耳が瞬時に赤くなった。
「と、父さん、何言って」
照れるオーサーは面白いし、かわいいので、私も養父の言葉にのって、恥じらう声で返す。
「からかわないでよ、村長」
「ア、アディまでっ、な何言って。少しは否定しなよっ」
うろたえたオーサーが私を振り返る前に、できるだけ哀しそうな表情を作っておいたので、合わせた顔はひどく困っていて。
「オーサーは、私じゃ不満?」
「不満、なんて、そんなことあるはずな……、じゃ、なくて、アディっ!」
あんまりからかうと旅についてこないと言い兼ねないので、仕方なく笑って否定してやる。
「オーサーは大切な弟よ、村長。今までも、これからもそれは変わらない」
「ふーん、そうか。気が変わったらいつでも言えよ」
「はい」
冗談交じりではあったけれど、これは養父なりの優しさだと私は気づいていた。もしも、系統がこのまま分からないのだとしても、ここが私の居場所なのだと言っているのだ。
首都までの道のりは子供だけで楽に旅ができるほど平坦ではない。だけど問題はそこではなく、神官が言ったように「女神の眷属」である場合、だ。もしも大神殿でそうとされてしまえば、私は村へ戻るどころか、二度と大神殿から出ることはできなくなるだろう。予想がつくから今まで私は行かなかったし、私に誰も勧めなかった。
「明日には出発するんだろう。夜には送別会するからな、今のうちに休んでおけよ」
今夜は徹夜で飲むぞと宣言し、旅に備えて休めと勧める養父の好意に甘え、私は与えられている自室へと戻った。
小さな家だが、マリベルの出てきた戸口から入って直ぐ、広い室内が広がる。外から見たのとは違って、室内全部を木で組み上げてある様子の見える家の中は、外よりもひんやりと涼しい。
広い一階は団欒の場所としているリビングで、大人の男が十人も入ればいっぱいになる程度の広さだ。今のところ、真ん中には四人分の日々の食事を置くには少し狭い、丈の高いテーブルが陣取っている。壁際にそのテーブルにちょうどよい高さの椅子が積み上げてあるのは、食事時以外に使わないからだ。
入口右手の木の板を積み上げた階段を上って、私は二階へと上がる。階段を上ってすぐのドアがオーサーの部屋で、隣が私の部屋だ。ドアは単に上から布をかけてあるだけなので、私はそれを片手で避けて、室内へと足を踏み入れる。
木の床を覆うように青と白でマリベルが編んだ丸じゅうたんが敷かれた部屋の中には、三段重ねの箪笥とシングルベット一つと、木製の小さな机が置いてあるだけで他は何もない。もともと物に執着する性質ではない私の持ち物は、生活必需品以外は本当に何ももっていないのだ。
壁にかけておいた大きめの黒いショルダーバッグに半袖のシャツ二枚と長袖のシャツ一枚、それからジーンズのパンツを一枚入れて、箪笥の前に置く。それから、私自身は倒れるようにうつぶせに横たわる。
上を風が通り抜けていくのはマリベルが掃除のために開けたからだろう。ベッドは窓に沿うように設置してあるのだ。私は寝返りを打って、薄いタオル地の掛け布団を腹まで引き上げる。
ふわりとバニラ色のカーテンが揺れて、窓の外から爽やかなユーレリアの花の香りと木々に茂る緑の香りを室内へ招き入れる。ユーレリアは村の近くに群生する薄水色の五枚の花弁を持った小さな花だ。一枚の花弁は爪の先ほどで、単体で調合するとちょっとした傷薬になる。薄荷系の爽やかな香りになるのはそのせいもあるのだろう。
「女神の眷属、か」
神官に言われた言葉を思い出し、独り言が口をつく。何度も言われたことだし、今更のことだ。何も、何も思うことなどないはずなのに、不安が胸いっぱいに広がってゆく。
片腕で昼の光を遮り、同時に気持ちにも薄い幕を引いて、私は浅い眠りにつくことにした。眠りは意外とすぐに訪れ、私は穏やかな午睡をただ、感じる。
これから先、旅から戻るまでは今のような休息をとることができないだろう。意識的に私は深い眠りに落ちていたから、普段ならしている警戒を少しだけ怠っていた。だから、さわさわと緩やかなウェーブを描くカーテンの向こう、私の様子を窓の外――離れた木の上から覗く者があったことなど気が付くはずもなく。
温かな日和の午後の風に包まれている私も、外で騒いでいるオーサーや養父母も、誰も旅が全ての始まりで終わりであることなど、知るよしもなかった。