19#よくある裏切り
いつからか、私がよく見る夢がある。
私は黒髪を高い位置でポニーテールにした女性で、その長さは腰に届くほどある。肌は透き通る白さで、口は紅も引いていないのに淡い桜色で、瑞々しさを損なうことがない。服はいつも白くゆったりした布で、腰のあたりを幅の広い濃赤の布をぐるりと締めている。服には袖がなく、腕はいつもむき出しだ。ついでにいうと、足も太ももの半分より下がむき出しだ。足は細いと言っても折れそうな程でもない、少しだけ肉付きの良い足にはムダ毛もなく、足首に絡みつく細いベルトを辿ると何かの動物の皮を鞣したような靴に辿り着く。必要最低限のそんなあられもない姿なのに他者に少しも色気を感じさせず、いっそ男らしささえ見せるのは、ささやかすぎる私の胸のせいばかりでもないだろう。
世界を渡り戻ってきた風が私の耳元を掠めて吹き抜けていく。ただの風ではなく風の精霊が起こす風だから、私はそれに軽く頷いてみせた。
私が古びた神殿のこの場所へ足を運ぶ回数は、既に数え切れない。この場所から仲間の女神たちが天へと昇っていったことは、なかなか忘れられない。宵闇がうっすらと晴れてゆく朝の光に導かれ、仲間たちは自分の力で空を泳いでいってしまった。天帝の呼び出しだから、説得して戻ってくるとは言っていたが、いつ戻ってこられるのかはわからない。少なくとも、この世界とでは時間の流れが違う場所にいるのだから、私にはわかるわけがない。
かといって、天帝のお許しがなければ、小さな女神は連れていけないし、そうなれば私もこの世界に留まる他ない。幾度輪廻が巡ろうと、それは私にも他の女神にも変えられない、世界の理となってしまっている。
「アデュラリア」
ふわりと自分にコートをかけてくれる相手を、私は顧みる。私が少し首を上げないと見えない男は眉を下げ、心配そうな顔をしているので、私は腕を伸ばし、その頬に触れる。闇色のつややかな長髪を一本に結わえている男は、一見無表情だが、髪と同じ色の目だけに心配の色を濃く忍ばせている。男の通り名はフィスといって、幼い女神と残された私をずっと守ってくれた、この世界の人間だ。
「まだ大丈夫。流石に女神が前線にいると攻めてこられないみたい」
「だが、向こうの陣からここに矢を射かけられたばかりだろう」
少しの苛立と心配を含ませた声で囁くフィスの手が、私の左頬に触れる。その少し上、私の左目の位置は包帯に覆われていて、まだ痛みもある。だが、私が臥せっていては兵の士気も下がるし、皆に心配をかけるばかりだ。あれから一戦あったが、なんとか持ちこたえられたのはフィスが指揮をしてくれたおかげではあるが、頼り切ってばかりでもいられない。何より、今自分が率いている者たちは、私を慕って手を貸してくれているに過ぎないのだから、ほったらかしにもできない。
「殲滅以外の方法がとれればいいんだけど」
「無理だろう。相手が欲しがってるのは貴女の命だ」
苦々し気にフィスが呟くのを、私はかすかに苦笑する。確かにフィスがいうとおり、敵方が欲しがっているのは女神である私の命だ。敵である者らは、私の命を贄として、他の女神達をこの世界へと呼び戻そうとしているらしい。どちらも女神を慕っているのに代わりはないのに、と私が憂いてもどうにもならない。私ひとりではこの世界の人間は満たされない、ということでもだろう。
無駄なことだ、と私は歯噛みする。私だって、何度も仲間たちを呼び戻そうと苦心した。だが、閉ざされた天の門を開ける術はなく、遮断された通信経路をこじ開ける手段はない。それに、おそらく自分は天では亡き者ということになっているはずだ。この世界に残るためにはそうするより他なく、私は二度と門をくぐれ無くなった。
(それでも、あの子を置いてゆくよりはマシだ)
目を閉じて、住まいにしている地下の神殿に眠らせてきた、まだ年若い女神、リンカを思い出す。
リンカの髪は私と同じく黒髪だが、長さは肩に届く程度だ。髪の長さそのものに女神の力も比例しているので、定期的に私が切るようにしている。服装は自分と同じだが、その上からいつも薄布でつくった布を多めに重ね、腰には力を抑えるための呪いを施した白い布を巻き、背中でちょうちょ結びにしている。結び方自体にも力を抑えるための呪いをかけている。その上で、魂に呪いを掛けて、力を押さえつけてある。そうでもしなければ、まだ力の制御もできない女神は、己の力で自分の存在ごと焼き尽くしてしまいかねないのだ。
それほどに、大きな力を持っている女神として生まれてしまったのはリンカにとって不幸としかいいようがない。本来ならば天へと連れて行くべきなのだろう。だが、まだ天の門を潜る資格を持たないリンカを天につれていくことは出来なかったし、今の天帝とリンカを会わせるわけにもいかなかった。だから、自分が残ってリンカの世話をし続けている。
リンカの存在は、この世界では私以外にフィスと世話をしてくれる女神の加護を与えた数人の人間しかいない。だから、私に何かあっても信頼している人間が私を裏切らなければ危険にもならないはずだから、リンカは神殿に残してきている。今頃は昼寝でもしているだろうかと、私は小さく口元を緩めた。
リンカはまだ幼い女神ではあるが、自分の役割をよくわかっているのか、我侭一つ言わない。まだこの世界の人間のように食べるのが苦手で、よく食べこぼしをしたりするし、食べながら眠ることもある。その様子を思い出したのだ。
私は踵を返し、男の隣を抜けて、陣へと足を向ける。ここから、リンカのいる場所までは離れているから、彼女にまで危害が及ぶことは今のところない。
「陽の中天をもって総攻撃を仕掛ける」
「はっ」
私に短い返答をしたものの、フィスはついてくる気配がない。私は振り返ろうかと思ったが、やめた。今は感傷に浸る時間もなければ甘える時間もない。小さな女神を思い返す時間も、ない。
「絶対に勝つよ、フィス」
私はただ、それだけを口にした。フィスからの返答は、なかった。
陣で少しの作戦会議を行い、すぐに先鋒隊の長を務める男が陣を後にしてゆく。私がその後姿をぼんやりと眺めていると、肩に軽く手が乗せられた。
「どうしましたか、アデュラリア様」
言葉遣いの割に気安く声をかけてくるのは通り名をイフという男で、フィスとは昔なじみらしい。フィスと同じく、今回の軍を指揮することのできる有能な人間だ。
「別に」
だからといって、私はイフとはフィスのように親しいわけではない。そっけなく返し、さり気なく肩の手を払う。
「出陣するよ」
肩で風を切って歩き出す私に、フィスとイフ、それからその他軍を指揮する者たちから応の声がかけられた。
私は用意された愛馬の首を優しく撫でてから、鐙に足をかけて、その背に乗る。周囲でも仲間たちが乗ったのを確認し、それぞれが自軍に指令を出してゆくのを確認しながら、私自身はもう一度風の声に耳を済ませる。このほうが自軍の情報より遥かに早くて正確だからだ。もちろん、諜報部隊を信頼していないと言うわけではないが、状況は刻一刻と変わるもの。負けるわけにはいかないし、私は私のためにも、どんなささいな見落としであろうと、あってはならないのだ。
敵――それはかつて私の仲間であり、信頼できる者らであるはずだった。女神達が天界へ連れ戻されるまでは女神に従い、仕えてくれていた一族らだった。ひとりひとりの顔まで思い出せなくとも、その優しさも強かさも知っているし、力を持つ女神では考えもしない生き汚さを嫌悪したことはない。むしろ、そうして女神以外を頼る方法を見つけてくれた方が好ましいとさえ思っている。
なのに、彼らは女神を失ったことを別な方法で利用しようとしているから、こうして戦いとなるのだ。女神をとりもどすという大義名分で、私を生贄として欲している。それさえもおそらくは建前に過ぎず、真に欲するは女神の力――世界を掌握する力そのもの。
「全軍前進っ!」
私が馬上から前を見据えて号令をかける場所は、この軍の中核となる場所だ。私の周囲は護衛の兵に囲まれているがそれは形だけで、実際は周囲の側近よりも私のが剣技でも力でも秀でている。というのも、私に剣を教えていったのは戦女神といわれているアレスなのだ。剣において彼女を超える女神も人もいない。
風が伝えてくる戦況は私に圧倒的な有利だということしか伝えてきていない。彼らは人間のように誤魔化しや嘘がないから、それはきっと真実なのだろう。だが、何を聞いても私の眉間にはずっと皺が寄ったままだった。
(こんな戦いに意味などない)
私を犠牲としても女神達は還らない。それを一番良くわかっているのは私自身だが、口するわけにはいかなかった。誰かが信じているものを真っ向から否定する度胸など、私にはないのだ。
たとえそれが原因で自分の身が狙われ、この争いが起こっているのだとしても。いつか女神が帰る、ということを信じていなければ、まだこの世界の人間たちが立っていられないことはよくわかっているつもりだ。それに――。
前線を離れていても怒声と金属のぶつかり合う音、混じるのは血と汗の匂いが私の中の血を滾らせ、それに抗い、乾く唇を舐める。
戦場に出るのはこれが初めてではないのだが、私はいつになってもこの乾いた感覚に慣れない。そんな私をいつもならフィスが宥めてもくれるのだが、今回は作戦上で重要な役割を与えているのでそばにいないのだ。他の誰にも任せられないからこそフィスを選んだが、早くも私は後悔していた。
そして、その後悔は早くも目に見える形となって、私の前に差し出されることになる。
「アデュラリア様、右翼の様子が妙です」
「何?」
イフに言われて、私はその方向を見やる。あそこはフィスに任せてあるはずだが、もしやあちらに強敵でも沸いたのだろうか。敵方にそれほど有能なものがいた記憶はないが、私は馬首を巡らせ、手綱を引く。
「イフ、おまえにここの指揮を任せる。私はフィスの加勢に行く」
「っ! お待ちください、アデュラリア様っ!」
イフの制止を振り切り、私は馬の腹を蹴った。風が私の耳元でびゅうびゅうと過ぎる中、それまでずっと遠くで聞こえていた剣戟の音や悲鳴、怒号や呻き声が近くなる。
「無名の女神が出たぞ!」
「討てーっ!」
私は馬上で身を屈め、後ろ手にファルクスを抜き放つ。湾曲したこの剣は刃が内側についている両手剣だが、これは女性でも片手で扱えるし、軽くて透き通った女神の神殿に残る石を原料にしてある。長さは一フィート程度であるが、それでも馬上の私には十分な長さだ。
「死にたくない奴はどいてろっ!」
飛んでくる矢をファルクスで叩き落し、そのまま右翼へ突き進む私の本領はアレスに敵わないまでも戦女神であり、只人で敵う者などなくて等しい。駆け抜ける私――女神一人に人間は誰も手も足も出ず、見送るほか無い。
「フィスー! どこだ、フィス!!」
右翼の混乱した戦場で刀を振るいながら、私は声を張り上げる。私の声は届いているのかいないのか、あたりの自軍の問いかけても誰もフィスの居場所がわからないという状況に心も焦る。
「ィヤァーツ!」
「邪魔をするなっ!!」
奇声を上げて向かってくる敵の槍を受け流し、私は彼の手にファルクスを叩き込む。既に血に塗れている剣では斬ることも難しいが、叩き込んだ衝撃で骨ぐらいは折れることもある。案の定、その手から剣が落ちたのを最後まで確認せず、私は更に戦場を駆け続ける。
「フィス、返事をしろーっ!」
(だめだ)
そう思っているのにいつも終わらないこの夢の中、私は剣を振るい、一刀も浴びずに戦場を駆る。本来ならば、全軍の指揮をしなければいけないのに、こんなところにいてはいけないとわかっているのに、自分でも止められない。フィスの姿を見つけなければと気がはやる私は、いつの間にか戦場の端にまで辿り着いてしまう。
(逃げて)
周囲に敵がいなくなったことで気づいた私は、またぐるりと馬首を巡らせた。埃が入ったのか、目元が痛くて、剣を握りしめたまま、手の付け根で拭う。
フィスは私にとって、最も信頼できる仲間で、ただ一人の友人で、人間の中でも唯一心許せる者であった。物心ついたときには傍に仕え、私にいろいろなことを教えてくれた師であり、唯一無二の親友でもあった。だから、フィスだけが私を呼び捨てることが出来るのだ。
「アデュラリア、困った方だ」
戦場には似つかわしくない穏やかな声がして、私のすぐ隣に馬が止まる。それは良く知る人であったから、私はほっと胸を撫でおろして、馬を止めた。
「ああ、無事だったのか。良かった、フィス」
安堵する私に、両眉を下げた悲しそうな顔でフィスは微笑む。優しくて、泣きたくなるような、そんなフィスの笑顔を見たのは初めてだったから、私も少しだけ不思議には思った。
「来なければ、生きながらえたものを」
いつもとは少しだけ違う笑顔の意味は、直ぐに知ることができた。まったくの普段どおりに差し出されたフィスの腕は、真っ直ぐに私の心臓を貫く。痛みを感じるよりも先に、驚愕で私は目を見開いた。
風から自軍にわずかな綻びの動きがあることはわかっていたが、彼らは私に何も教えなかった。その理由が、やっとわかった。皆、私がフィスを慕っていることを知っていてから、言えなかったのだろう。そして、おそらくはきっと、私も信じなかっただろうから。
「……ど、して……フィス……?」
フィスの剣が抜かれた方向に自分の体が倒れる。そのまま馬から落ちるはずの私を抱きとめてくれたフィスの大きな腕は、いつもと変わらずに暖かくて、優しかった。
初めて私に触れてくれた日も、それから何度も私を抱いてくれた日も、同じ、温かさでフィスは私を包んでくれた。仲間を見送り、寂しさを隠していた私を見つけて、温めてくれた。あの日と何一つ変わらないままだから、最後まで私にはわからなかった。
そうして、どうしてフィスが私を裏切ったのかもわからずに、最後に残った無名の女神、アデュラリアは死んだのだ。