18#よくある晦
私が部屋の扉を閉めて振り返ると、フィッシャーは奥に合って私が投げなかった長テーブルの端にある、水を湛えた深めの小さな皿の上に、袖から取り出した指で摘める程度の小さな石を置いた。石は水に触れると徐々に淡く白い光で輝きだし、すぐに室内を明るくする。光石、と呼ばれる魔石のひとつだ。その光は淡いが蝋燭なんかよりもよっぽど明るい光を届けてくれる。
だが、私自身はその石が使われることをあまり好まない。というのも、それがとても高価な石だからだ。女神の魔石の中でも特別数の少ない光石は、この大きさでも七日間陽の光を当てて、一晩程度しか光ることができない。ただし、それでも蝋燭の不安定な灯りや光虫の明滅に比べても遙かに明るいのは確かだから、貴族や王族の屋敷では多く使われている。
「あぁ、サイドテーブルまでひっくり返したんですか」
仕方がないですねと言いながらフィッシャーは軽く手を振って、魔法を使う。私は息をするように自然に魔法を使う者など知らないだけに、フィッシャーはとても異質だ。私の知る魔法士たちは日に二、三程度しか術を行使出来ない。
サイドテーブルに燭台が戻り、風石が戻り、ベッドも整えられた後で、フィッシャーは私に何かを飛ばしてきた。その丸まった大きめの青い球体を両手でつかんだ瞬間、私は床に叩きつける。
「こんなヒラヒラビラビラしたもんなんか着られるわけないでしょっ」
それは私がこの部屋で目覚め、フィッシャーを追い出してから見つけて直ぐに捨てた蒼衣のドレスだ。
「イフとディには見せているんでしょう? 私にも一度ぐらい見せてくれていいじゃないですか」
それがここでの夕食会を指していると気づき、その時を思い出した私は眉間に強く皺を寄せた。色々なことがあったから、過去のものとしていたが、ひと月も前のことではない。それを、賭け事が好きで情報を賭ける賢者が、オーブドゥ卿かディ、あるいはオーサーから聞き出していないはずはなかった。
「絶、対、イ、ヤ、ッ!」
あの時はオーブドゥ卿の真意を見定めるためであったから、私も大人しくオーサーに着飾られた。だが、必要もないのに動きにくい服に着飾る必要など、私には見いだせない。
「見せてくれなきゃ遠見しませんよ」
「それとこれは関係ないでしょっ」
その脅しは卑怯だと私が咎めると、フィッシャーは心底残念そうにしている。だが、私の知ったことではない。わざと乱暴に奥の光石の置かれたテーブルの椅子に座り、私はテーブルの上に強く拳を叩きつける。
私がドレスを着るつもりがないと諦めたフィッシャーは、ゆっくりと近づいてきて、同じテーブルについた。ただし、私の隣にわざわざ椅子を移動させて、だ。私が椅子を動かし、離れようとすると、フィッシャーに腕を捕まれる。
「離れたら駄目ですよ。アディの力が必要だと言ったでしょう」
更に近づいたフィッシャーと私の膝がこつりと当たる。布越しとはいえ、これだけの距離で座っていて近づく男など、オーサー以外にいないだけに、私は戸惑い離れかける。しかし、フィッシャーは私の右手を即座に取り、そこに蒼衣の内側から取り出した固くて平べったい球体を乗せた。
半透明にゆらゆらと内側で光がゆれる石は珍しい。じっと見つめていると夜の水面を見つめるようで不安になる。女神の魔石の中でも特別高価で、特別内包する魔力が大きいとされる水石。他の魔石が外部へ力を発するのに対し、この水石だけはその内に力をこめたまま使用される。中で動いているのは水ではなく魔力の塊だという話を、私はマリ母さんから聞いたことがある。
マリ母さんが持っていたのはもっと小さなペンダントにされたものだったけれど、多少なりと術式の心得がある彼女が手を翳すと、田畑で働いている村長たちの姿が見えて、幼心に安堵の思いで見つめたことを思い出す。村長は知らないことだが、マリ母さんよりは遅いものの、出会って一週間ほどで私は村長を尊敬し、頼っていたのだ。本人が望むように父を呼ばなかったのは、ただ私が恥ずかしかったからというだけのことだ。
フィッシャーが私の手に乗せたのはそれよりも五倍は大きく、両手で持たなければ落としてしまいそうだ。
「落とさないでくださいよ」
私の行動が余程危うかったのか、私の両手の下から覆うようにフィッシャーの手が触れる。その手は貴族や魔法使いだという肩書きから、勝手に傷ひとつない滑らかな手を想像していただけに、私はざらざらと荒れていることに驚いた。動揺する私の手をフィッシャーはそっと支えていて、私が見つめても、既に術式の影響を始めるために意識を完全に水石に集中させていて気づいていないようだ。
「東天の王 明滅の標 蒼天航路ゆく 神々の吐息」
フィッシャーが一語一語を発する毎にふわりと辺りの空気が流れるのが私にもわかる。室内に魔力の風が流れ、私の髪もかすかに浮き立つ。こうしてただ魔法を唱える時のフィッシャーは、悪くない。浮名が絶えないほど女性にもてるというのも、超一流の高等術式制御者というのが肩書きだけではないのだというのもわかる。
「アディ、あなたの村を思い浮かべてください」
声をかけられ、自分がフィッシャーに見とれていたことに気づいた私は、悟られないように注意しながら深く頷いた。
「うん」
「ミゼットから帰る道を順に、いけますか?」
「大丈夫」
フィッシャーに言われるままに、ミゼットからの道のりを脳裏に浮かべる。何度もオーサーと二人で通った道だから、私には忘れようはずも無い。
「目は開けていてください」
「うん」
私は思い出すために閉じてしまった目を開き、目の前の自分の手にある水石を注視する。
最初、水石にはただ水面のような光が揺らめくばかりだった。ゆらゆらと揺れる様に流されないように見つめていると、私の脳裏に描くとおりにミゼットの東門の向こう側が現れる。今が夜であるのに、水石の中の景色が明るい昼間であるのは、私が門を出るときに夜ということがなかったせいだろうか。
「いい調子です」
フィッシャーに促され、私は何度も歩いた道を思い浮かべてゆく。東門からの道を飛ぶように進み、途中の何もない茂みを抜けて、隠された道へと出る。実際に触れているわけもないのに、私の耳元に避けた小枝が跳ねる音がした気がする。その先の獣道を進み、ようやく村があと一歩というところで、私は躊躇した。
動いていた景色も止まったので、私の頭上からフィッシャーが不思議そうに問いかけてくる。
「どうしましたか?」
そのまま進めば村に辿り着くとわかっている。それなのに、私は進むことができない。あとひとつ、茂みを抜けるだけなのに、あと一歩を踏み出せない。
無事を確かめたいけれど、確かめるのが怖い。でも、怖がっていては前に進めないというのも確かだ。
「……なんでもない」
一度目を閉じ、深呼吸し、私は覚悟を決める。大丈夫、と胸のうちで繰り返す。
「行くよ」
緑の背の高い雑草と覆い隠すような木の枝をかきわけた向こう側、急に視界が開ける。目の前には植えたばかりの青々とした小麦畑が広がっていて、遠くには何人か村の男達が働いている様子がわかる。
長閑で、何の変哲もない村の情景に私は胸を撫でおろす。
「なんだ、何も」
何もないじゃないかと紡ごうとした私の目の前で、水石の中の景色が唐突に赤く染まった。さっきまで青々としていた畑を燃え盛る炎が襲い、黒装束の者たちがどこからか湧き出し、村人を手にかけてゆく。
ある者は一突きに頭を貫かれ、ある者は爪のような武器で背中から斬り裂かれ、炎に包まれた家から飛び出してきた者は首を、腕を、足を飛ばされる。村全体が炎の赤と血の赤に彩られ、動く怪しい影が家から家人を引きずり出しては殺してゆくのが、私の目に映る。
何が起こった、と考えるよりも先に耳にその音が私の届く。扉を乱暴に叩き壊す音、泣き叫ぶ声、絶望の悲鳴。でも、どれも私の頭に入らない。目の前の光景に釘付けにされて、私は動けなくなっていた。
水石に映る、村の蹂躙される光景が、私に考える事を放棄させる。
「しっかりしろ、アデュラリア!」
ふと顔をあげると、部屋に入ってきたディが私に呼びかけている。でも私は、どうして私のそばまでディが来ないのかとか、どうして剣なんか取り出しているのかとか、そんなことよりも。
「……あ……」
ディに何かを言おうとした私の口からは赤ん坊みたいに意味のない言葉しか出てこなくて、ボタリと水石に水滴が落ちた。水石に映る景色は目元当てられた大きな青布に隠され、目元から吸い取られる何かで私は自分が泣いているのだと知る。
「すべては手遅れです、アデュラリア。あなたが行っても行かなくても結末は決まっているのです」
私に囁く声に顔を向けると、柔らかにフィッシャーが微笑んでいた。
「世界はあなたの手に余る」
変わらず私の両手を支えるフィッシャーの大きな手は暖かく、彼の瞳にも人の温もりがある。フィッシャーの声も、温かい。
「どう足掻こうともこの世界は既に女神を必要としない」
フィッシャーは、賢者は、私の正体を知っている。だからこそ、私についてきたのだと、やっと確信した。そして、私を欲しているからこそ、そばにいるのだと。
私は大人しく両目を閉じ、フィッシャーに引き寄せられるに身体を任せる。村を、帰る場所を失って、心が壊れてしまいそうで。もう何もかもどうでもいい。自分を誰が所有しようと、世界がどうなろうと、何もかもがどうでもよくなる。
オーサーは大切だけど、それ以上に私にとってはマリ母さんが大切で、彼女がいなければ生きる意味さえない。自分の系統を無事に判明させて、帰ったら本当の意味でのマリベルの娘になりたいのが夢だったから。
最初に私を救ってくれたアデュラリアのためにも、自ら死ぬことはできない。でも、マリ母さんのいない世界でどうやって生きていけばいいのかわからない。
「女神を、貴女を必要としていないのです」
フィッシャーの深い声を、私はずっと知っている気がしていた。その気配を知っているということを、私は自分の気のせいだと考えていた。だって、この世界で記憶を持って生まれ変わることが出来るのはただ一人だけ、女神だけのはずだ。この世界で生まれた普通の人間に、そんなことは不可能で。
「無明の女神」
フィッシャーの愛しさを深く響かせる声は、あの時と同じだった。ずっと昔、今の私ではなく、もっと前の私を、殺したときと同じ。
「アデュラリア」
フィッシャーは穏やかで優しい声で、「私」の名前を呼ぶ。
ずっと昔、創世の頃、世界に残ったたった一人の女神はひとりの男の手にかかって死んだ。私の中で、その男とフィッシャーの姿が重なる。「あの時」、「私」を貫く剣は、的確に心臓を貫き、一瞬で「私」を切り捨てたのに。それなのに、「彼」は最後まで、慈しむ瞳で「私」を見ていた。
「違うっ!」
別の強い声に、私は目を見開く。
「お前は、アディは女神なんかじゃねぇっ!」
強く否定するその声は滑稽なくらい必死で、私の口からは乾いた笑いが溢れる。ディだって既に遺跡で、私の正体に感づいていたはずなのに。
「お前はただの女で、女神なんかじゃなくていいんだ。だから、」
私がフィッシャーに頷くと、私を抱く腕に力を込めて、彼は再び強い言葉を紡ぎ始める。ここに移動してきた時と同じ、女神の力を引き出して使う魔法だ。今度もきっと、私は眠りにつくのだろう。
周囲には窓にあったのと同じ結界が私たちを包んでいるから、ディは近づくことさえできない。どれだけ殴っても蹴っても、切りつけても切れない、不思議な結界だ。
「――逃げるなっ」
私は、ごめん、と声には出さずに口を動かす。ディは守ってくれると約束したけれど、今の私にはもうこの道しか見えない。
さっきの水石に映っていたのが、フィッシャーのみせる嘘だとしても、マリ母さんが生きていても死んでいても、私にはこうするしかできない。
真実だとしたら報復のため、嘘だとしても守るために、私はフィッシャーの手に落ちる他ない。
身体中から力を奪い取られる気持ちの悪さに、私は吐き気と目眩がする。ぐらつく私の身体は、フィッシャーが変わらずに抱えていてくれるから倒れることはない。
少しだけ顔を上げると、私を気遣うフィッシャーの心配そうな顔が見えた。
「怪我はありませんか、アディ」
場所は暗くてよくわからないけれど、さっきまでの広い部屋ではなく、殺風景な山小屋のような場所だ。少しマリ母さんの家のリビングに似ている気がする。静かな部屋の中で、フィッシャーは静けさを壊さないように言葉を紡ぐ。
私を見下ろす闇色の瞳の深さがわからない。賢者とはいえ、フィッシャーはどこまで私のことを知っているのだろう。そして、さっきの水石の映像はどこまでが本当なのか。私は確かめるために口を開く。
「……村を、壊さないで」
「あなたがここにいる限りは、と約束しましょう。――刻龍の頭領として」
フィッシャーの言葉で、私はかすかに安堵した。さっきみた光景は嘘だとわかったから。だったら、私は自分を犠牲にしてでも守る道を選べばいいだけだ。
安堵した私の頬にフィッシャーが荒れた手を添えられ、彼の指で撫でられると少し痛かった。
「こんな方法で連れてきてしまって、申し訳ありません。今夜はこの部屋でお休みください」
ふわりと身体が浮き上がったかと思うと、フィッシャーの顔と近づき、すぐに離れる。何が起こったかというと、私はフィッシャーに抱きかかえられて、ベッドに降ろされたのだ。近くで見ると、フィッシャーはすごく整った顔をしていたけれど、私はそんなことどうでもよかった。
「逃げないから、一人にして」
「はい。おやすみなさい、アディ」
フィッシャーに背を向けた状態で私が告げると、彼は素直に部屋を出て行ってくれた。ぱたんと戸の閉まる音がした後の部屋のなかは、息苦しいほど静かだ。自分の息遣いさえも大げさに聞こえて、自分のすすり泣く声が惨めで、必死に枕に声を押し付けた。
私は自分が女神であることは、なんとなく知っていた。誰かが報せてくれたわけではないけれど、そのために自分をかばって人が死ぬことはわかっていた。女神の眷属は私を守るために生まれて、いつも私のために死んでしまう。本人の意思なんてお構いなしだ。
「違うよ、私は私の意思で一緒にいるの」
アデュラリアの優しい声が耳に蘇り、私は頭が埋まるぐらい更に深くふかふかの枕に顔を押し付けた。
(違うよ、女神の眷属は意思ではなく、血の契約で女神のそばに在る)
あの時にそう言えなかったから、そしてそれを私が拒絶しなかったから、女神の眷属でなく周囲まで私は傷つけているのだろうか。でも、それだけ拒絶しても誰も私を放っておいてはくれない。
人が女神を必要としていなくとも、世界はまだ女神に何かを望んでいる。それがわからなければ、永遠に女神は世界の輪廻から抜けられず、記憶に苦しめられながら生きなければならないのだ。
それが、ひとり世界に残った女神の――宿命だから。