表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Routes 3 -アデュラリア-  作者: ひまうさ
一章 ルーツの旅
17/59

17#よくある誓い

 人は眠っている間に古い記憶を繰り返し再生しているのだと言う。私の最初の記憶はある一人の女から始まる。


 路地裏でうずくまる小さな私に差し出された女の荒れた細い掌と、余り特異なことのない極普通の容姿。その他で覚えているのは、女がいつも日だまりにいるような気分にさせる穏やかな笑顔を私に向けてくれていたことだ。


「せっかく女の子なんだから、もう少し綺麗にしなきゃあ」

 そう言う女自身だって、私には特別着飾っているようには見えなかった。女はひと繋ぎの真っ白なワンピースに色褪せたラベンダー色のショールを羽織るばかりで、荷物だって片手で持てるぐらいの汚れたショルダーバッグしかない。言われた小さな私も流石に少し呆れたのを覚えている。


 女と過ごしたのはたったの一週間だったけど、私には忘れることなんて出来なかった。だって、私は自分の名前を呼ばれる度に女を思い出すのだから。


 額に感じる冷たい布の感触で、私はゆっくりと目を開ける。暗い部屋の中が女と出会った時と同じに思えて、一瞬だけ私は既視感に囚われた。だが、すぐに私の眠るベッドの隣にいる男に気づいて、今がいつなのかを取り戻す。


「起こしてしまいましたか」

 柔らかく微笑んでいる男は賢者と呼ばれるほどの識者だが、私にとって最も信用ならない部類に属す。だが私を害すことはないと感じる理由は、自分でもよくわからない。そっと壊れ物のように私の額に触れる手は冷たいのに、不思議と温かさを感じるのは何故だろうか。暖色の部屋の中でぼんやりとした燭台の灯だけで見るフィッシャーの蒼衣が妖しく反射して、彼が心底安堵しているのがわかる。


 私は何かを言おうとして口を開き、やめた。


「熱は下がったようですね。体調はいかがですか」

 私の額から手を外したフィッシャーはゆるりと微笑む。それはとても穏やかで、密やかな熱を持っているように見える。


 体調はと尋ねられるのは、自分が何をしたのか、どんな魔法を使ったかをフィッシャーが自覚しているからのように私には思えてしまう。それはミゼットに戻るときにフィッシャーが使った長距離転移魔法の文句を、私が覚えているからだ。


 問い詰めてもいいが、答えられても困るのは私も同じだ。そんなことよりも気に掛けることはある。


「ディはどこ?」

「隣の部屋です」

「呼んで来て」

 フィッシャーはすんなりと私の要求に応じ、すぐに立ち上がって、部屋を出て行った。


 戸を閉じる音を確認した私は身体を起こし、ふらつきながらベッドを後にする。部屋には大きな窓がついており、私一人が出てゆくことは容易く見えた。着ているものがまだあの遺跡で自作したシーツの白いワンピースであるのに気づいた私は、ぐるりと部屋を見回す。窓の外は新月かそれとも細い月なのかわからないが、燭台もない部屋のなかはかなり暗い。鳥目ではないから、窓のそばまで行って少し待つと、ベッドの隣にサイドテーブルが見えた。サイドテーブルには畳んだ衣服が用意されている。


 私はサイドテーブルまで移動し、その服を手にした。だが、すぐに床に投げ捨てる。何故なら、それはシンプルな、だが間違いなくドレスだったからだ。目も覚めるような青い布で作られたドレスの趣味は悪くないが、これから戦いに赴くというのに私がそんな動きにくい格好をするわけがない。


 サイドテーブルのすぐ下に賢者の館に置いてきたはずの自分のバッグがあるのを見つけ、私は中から取り出した白の上下スウェットを着て、同色の幅広の布を腰に巻く。次に取り出した細い紐で髪を一括りにし、私は窓へと向かった。


 私の荷物を誰が何故持ってきてくれたのかはわからないけれど、私はおそらくラリマーではないかと睨んでいる。これまで教えてくれなかったのは、フィッシャーが口止めでもしていたのだろう。ラリマーはとても有能な執事らしいから、オーブドゥ卿とフィッシャーには逆らわない気がする。


 私は窓から外へと出るつもりだった。廊下は誰かが見張っているだろうし、正面からすんなりと一人で出してくれるとも思えないからだ。私はどうしても一人で行く必要があるから。


 窓に手を伸ばした私は、だが直ぐに違和感に気づく。特別硬いわけではないのだが、触れるか触れないかの微妙な位置に触れると、空気が歪んだ気がしたのだ。一、二歩下がり、私は思いっきり体当たりをしたが、弾力のある壁――おそらくフィッシャーの張った結界に弾かれて、床に転がることになった。普段なら反射的に受身も取れるのだが、まだ疲労の残る身体はそれもさせてはくれず、痛みを私に残す。


「痛ーっ」

「こういうことです」

 開いた音も気配もなかったのに戸口からフィッシャーの声がして、私は慌てて顔を巡らせた。だが、完全に振り返る前に、私の身体は軽々と抱え上げられる。力強い腕と、その気配はよく知ったものだ。この高さも村長やヨシュに抱えられていたから初めてではないので暴れることもなく、それでも高さの違いで私を抱え上げた人物が誰なのかすぐに分かって安堵する。


「ディ」

「無茶するなって言っただろ」

 ディは私をベッドにそっと下ろし、すぐに離れようとした。だが、私は抱えられるほど近づいたからディの纏うかすかな香りに気づいて、太い腕の服を咄嗟に掴んで引き止める。


「ユーレリアの香りがする」

 今までさほど気にしたことはなかったが、村にはいつもユーレリアという花の香りがしていた。私は旅に出て、そして、あの医者に言われて気づいたのだ。他の街にはない香りだから、旅の間はいつもどこか違和感があった。オーサーがいなくなることでますますそれが強くなったのは、オーサーが常にユーレリアの香りをかすかに持っていたからだ。ユーレリアは医者のハーキマーがいったように安価な薬草だから、私が怪我をしたときのためにオーサーはもっていたに違いない。


「村はどんな様子だった?」

 ディは少し迷った後で、私の頭に手を置いて強く撫でた。


「何も心配するな」

 誤魔化す物言いが私の不安を誘う。見上げようとしたが、私はそれさえも抑えられてしまって叶わない。


「フィッシャー、あんたらを信用はしているが」

 代わりに聞こえてくるディとフィッシャーの会話は、私には不可解な内容だ。


「従者というのは大変ですねぇ」

「すまねぇな」

 二人で何の話をしているのだろうと私が首を傾げると、くすりとフィッシャーが笑うのが見える。


「ディがあなたの護衛をしてくださるようですから、今度はしっかりと休んで、疲れを癒してくださいね」

 一瞬、フィッシャーの目が妖しく光った気がしたのは、私の気のせいだろうか。警戒する私を笑いながら、フィッシャーは部屋を出て行った。


 パタンと扉が閉じた後をじっと見つめる私の前に、ディが片膝をついて座る。月明かりと淡いロウソクの光だけに照らされた姿は騎士の礼とも言われる形で、戸惑いながらも止めさせるために私は立った。


「護衛なんて、」

「これは遺跡でやっておくべきだったんだ」

 ディの神妙な様子で、舌に乗せようとした私の言葉が空気に溶けて消えてしまう。淡い月明かりと室内の仄かな蝋燭の灯だけでは、ディの表情までよく見えない。ただわかるのはディの灰色の甲冑がいつもよりも輝いてみえることぐらいだ。


「アディは俺の言うとおりにやればいい」

 拒否を許さないディの様子につい、私は何が起こるかもわからないまま頷いてしまった。


 座ったままのディが自らの大剣を背中の鞘から抜き放ち、私に柄の部分を差し出す。重厚な剣の柄尻には見たことのない人の顔の紋章が彫られている。


「取れ」

 恐る恐る手にしたディの大剣は、ディが両手を離すとずっしりと重い。いつも軽々と振り回している様子は見ていたし、これほどの大きさの剣が軽いわけがないとわかってはいたが、私はしっかりと足を踏ん張らなければ膝をついてしまいそうだ。


「俺に剣先を向けろ」

 言われるままに私が剣先を差し出すと、ディは笑みの一つも見せずに、神妙な面持ちのままで浪々とその言葉を紡ぎだす。




「我、ディ・ビアスは古の女神の契約をここに果たさんとする」



 闇の静寂の中で、ディの低い声は深く響いてゆく。唄うように紡がれる言葉に対し、自分の身が震える理由は私自身にもわからない。わからないけれど、それが何かを私の心が知っている気がする。




「女神の盟約により、我はアデュラリアに騎士として、終生護り仕えることを誓う」



 剣先をディがその手で持ち上げる。動作の一つ一つが完成された形で、私はじっと見つめてしまっていた。だが、ディの口が剣先に触れる寸前に私は気づいて、ディの額を抑える。片手で持ったから、剣が落ちかけたが、幸いにも落ちはしなかった。落とせばディが怪我をすると目に見えていたからかもしれない。


「ちょ、ま、待ってっ」

「なんだよ」

「騎士って、誓いって……っ」

 いくら自分が庶民でも、騎士の誓いが特別なものだということぐらいは知っている。騎士が誓いを立てるのは生涯一人で、その全てから身を呈して守るのだ。そのための特別な技があるから儀式を行うのだと、幼い頃にヨシュから聞かされたから、私は知りたくなくてもその事実を知っている。


 特別な技というのは、いついかなる時でも主のいる方向を見失わない技だとか。


「柄じゃねぇのはわかってるけどな、一応形式だけでも整えないといかんだろ」

「いや、そうじゃなくてっっ」

 混乱する私に対して、口端をあげて、ディは意地悪く笑う。


「別に、俺は女神の眷属以外に仕えちゃいけねぇわけじゃねぇ。あんたに仕えたいと思ったから、こうするまでだ」

「な、何言ってるの。仕えるって、私は貴族でも王族でも、まして女神の眷属でさえないのにっ」

「仕える相手に身分なんか求めるかよ」

「いや、そこは気にしようよっ」

 どんなに関係ないと本人が言ったとしても、ディは普通の騎士じゃない。自他共に認められる「女神の眷属」の従者なのだ。それなのに、こんな、身分どころか系統さえ分からないような私にいきなり何を言い出すのだ。


 混乱する私の前で、笑いを納め、真っ直ぐに見つめてくるディの瞳に曇りは欠片も見えない。


「こうしなきゃ、アディは何が何でも一人で戦おうとするだろうが」

 刻龍とたった一人で立ち向かうつもりだっただろうとディに問われ、図星なだけに私は答えることが出来ない。


「悪いが、俺はアディ個人を気に入っちまった。だから、これは俺が俺の意思で勝手にすることだ」

 穏やかに見つめてくるディの瞳に潜む純粋な想いに、私は泣きたくなる。だから、それは、懺悔は勝手に私の口から零れ出た。


「私は、アデュラリア、じゃない」

 オーサーとマリ以外には初めて口にする、他の者は誰も知らない秘密だ。両目を閉じても溢れる雫が、私の頬を伝い落ちてゆく。


「アデュラリアは、私じゃなくて……私の代わりに死んだ人の名前なの」

 ずっと奥深くにしまいこんでいた記憶の箱をゆっくりと開け、私の口から零れ落ちてゆく真実に涙は止めどなく溢れてゆく。生涯開けるつもりのなかった私の箱の中には、しまい込んだ記憶が赤黒く渦巻いている。


「小さい私に、貴族に殺されかけ、死にかけていた私に、暖かい家と温もりを教えてくれた(ひと)の名前、なの」

 さっき夢に見た女性、マリ母さんより前に会って、私に生きる意味を与えてくれた女性だ。私は出会った時に、あの人が自分を守ってくれる人なのだと本能でわかって、そして頼った。頼ってはいけなかったのに、私を守りたいのだという彼女の言葉を信じて、そして。


 彼女は私を庇って、殺された。


 暗い闇から私を掬い上げてくれた華奢な腕で、最後まで私を胸に抱いて、守って。温もりを残したまま、死んでしまった出来事を忘れるわけがない。


「生きていれば、いつか幸せになれるから」

 口癖みたいにいつも笑ってて、最後まで笑ったままで死んでしまった。


 今でもあの人の温もりを、冷たくなってゆく命を思い出せる。両腕で自分を抱きしめても消えない、彼女の血が私に罪を突きつける。あの時、本当に死ななければいけなかったのは私だったのに、全ての元凶である私だったのに。


「ねぇ、ディならわかるでしょう。私は女神の眷属なんかじゃない。だって、彼女こそが本物の女神の眷属だったのだから」

 ディも本能的に予感していた。最初に出会った時の「見極める」という意味はきっと、私が女神の眷属かどうかじゃなく、もうひとつの可能性だ。遺跡でフィッシャーは明言しなかったけれど、既にディの中での予感は確信に至っているはず。


 私は女神の眷属じゃないと口にする度、私の心はひどく痛む。彼女と過ごした一週間が、あの最初の優しい記憶が思い起こされ、彼女の死に押しつぶされそうで。


「ごめん、なさい……っ」

 私はディにこれを告げたくなかった。だって、ディはその女神の眷属を探して旅を続けていたはずだから。長い旅をしてきたのはなんとなくわかってて、いないことに絶望するとわかっていて、告げられるはずはなかった。だけど、こんな、騎士の誓いなどを立てられるような人間じゃないのだと、私は報せなければならなかった。


 これ以上、ディと一緒にいてはいけない。女神の眷属ではないからこそ、もうひとつの可能性にディが気づいているからこそ、私はディに誓いを立てられたくはないのだ。


「彼女を、助けられなくて、ごめんなさいっ」

 私はその時に彼女を失ったことを深く後悔したからこそ、それから拳闘士として戦う術を学び、力の及ばないときのために銃を持つようにした。それでも、ディの足元にも及ばないのだけど、ないよりはマシで巻き込まないために、村を出て、オーサーを追い返した。


 狙われる意味など私が一番よく知っている。それは女神の眷属かどうかだけが問題なのではない。系統のない私が女神の眷属である可能性よりも、もうひとつの――女神である可能性が問題なのだ。この世界は女神に捨てられたことを憎んでいる。だからこそ、女神を守るために女神の眷属が生まれ、女神のために死んでゆくのだ。


 泣き続ける私をしばらく見てから、ディは決まり悪そうに私に聞いてくる。


「名付の儀式は終わってるんだよな?」

「え?」

「今、アデュラリアと名乗ってるってことは、正式に名前を受け継いでんだろ?」

 ディの問いかけに、私は首を横に振って答える。名付けの儀式は魂に名前を刻み込む方法で、この世界でとても重要な意味を持つ。私は孤児だったから、自分がアデュラリアになる前の名前を知らない。


「正式に受け継いではいないよ。これはマリ母さんに頼んでつけてもらったから」

 私から言い出したことだったけれど、マリ母さんは快く引き受けてくれた。女神の眷属かどうかとかそんなことは全然関係なく、私の望むとおりにしてくれたことを私は感謝してる。


「なんで同じ名前にしたんだ?」

 本当は全てを忘れてしまって、別な名前にしてしまったほうが良かったのかもしれない。そうすれば、私は名前に縛られることもなかっただろう。でも、私は。


「忘れたくなかったから。ただの自己満足でしかないけど、彼女をただの思い出にしたくなかったの」

 私を助けて、私に命を与えて、私に温もりをくれた人だから。だからこそ、私は救われた命を放棄せずにいられた。怒りに任せて力を奮い、屍の山に佇む私に差し伸べられたマリベルの暖かな手をつかむ気になったのだ。


 イネスの宿で血を落とし、体を洗い、新しい衣服に身を包み、マリベルは暖かな腕の中で私を眠らせてくれた。あの村まで連れてかえって、私に名前と家族をくれた。彼女の思い出はマリベルの出会いと切っても切れない。


 マリベルとオーサー以外、誰にも明かすことのなかった秘密を口にすると全部が思い出されて、後悔の涙が止まらない。本当なら、あのままマリベルの手を取るべきじゃなかった。私は誰に誘われても、一人で居続けるべきだったのだ。


 泣きじゃくる私を困ったように見ていたディは、しかし意外な言葉をかけてきた。


「じゃあ、問題ねぇな」

 深刻な話をしていたはずなのだが、からりとディは笑い、すばやく剣に口付ける。それで騎士の誓いは完了してしまうというのに、極軽く、あっさりと。


「な、問題あるでしょっ?」

「名付の儀式が終わってるなら、その名前はおまえのものだ。だから、俺には問題ねぇよ」

 立ち上がったディはまっすぐに私に歩み寄り、剣を受け取って鞘に収める。鞘の中を刃が滑る音がかちりと収まってから、ディはしゃがんで私を抱きよせた。


「正直、女神の眷属は最初からいないとわかってて探してんだ。今更落胆なんぞしないさ」

 私の背中を叩き、気にするなと慰めてくれるけれど、ディ本人は自分の変化に気づいていないのだろうか。さっきのディは笑ってはいたけれど、肩を落として落胆していたことに私は気づいている。それなのに反対のことをいって私を慰めるなんて、どこまでお人好しなのだろう。


「今から俺の主はアディ、おまえだ」

 真実を知って、儀式なんてやめて欲しかったのに、どうしたってディは私についてくることをやめない。それは変えようのない事実で、私はどうすることもできない新たな現実を前に戸惑うばかりなのに、ディは最初みたいに乾いた笑いを零していた。


 ディの腕の中は、背中を叩く手は暖かくて、マリベルや彼女と遜色ない。けれど、その誓いの重さが私は苦しくて仕方ない。


「どうしてディはそんなに私に構うの」

 済んでしまったことは仕方ない、と私が諦めてから尋ねてもディは私の背中をリズムよく叩くままで答えない。


「どうして私なんかに」

「アディは、なんか、じゃねぇよ。少なくとも俺にとっては、な」

 どういう意味だろうと不思議に思っていると、ディの手が止まり、肩を強く抱かれて胸が苦しくなる。ディは何かを小さな声で言っているが、こんなに近いのに私にはよく聞こえない。


「何、ディ? 苦しいんだけど」

 ディは軽いため息をついてから、ようやく私を開放してくれた。


「そういうわけだから、勝手に出かけないで今日は大人しく寝とけ」

「何がどういうわけなのかさっぱりみえないんだけど」

 一刻も早く村の状況を私が確認したいのは当然だとディにだってわかっているはずだ。ミゼットの郊外であるこの屋敷から村へ向かうには一度ミゼット市街を抜ける必要があるし、東の門から出ても子供の足で半日はかかる距離。だからこそ、村を昼に出たときには一度野宿する必要があった。


「夜にまた野犬に襲われるなんて、俺はごめんだぜ」

「狼だったよ」

 私を軽々と持ち上げたディは、無造作にベッドへ放り投げる。ぼふっと重い音と共に自分の位置が一瞬沈み、少し上がる。私がディを見ると、彼は私を困った妹でも見るみたいに見下ろしている。


「どっちでも同じだ。どっかの飼い犬も噛み付いてくるし、少し休ませろ」

「休むって」

「どっかの我侭な主が無防備だから、こっちは休む暇もねぇんだよ」

 ディの言っている主が自分のことだとわからないほど、私は愚かじゃない。扱いは主人にするものではないが、どちらにしろ私が頼んだことじゃない。


「勝手に休めばいいでしょ」

「そういうわけにゃいかねぇよ。目を話したら、アディは直ぐに逃げるだろう」

 逃げるんじゃなくて、村の様子を見に行くだけだというのに、どうしてこうもディは私の邪魔をしようとするのか。もしも私を主人とするなら、その望むように行動するのが当然ではないのか。そう、私が口に出そうとする前にディは両眉を下げた、あの困ったような顔で笑って、私の頭に大きな手をおいた。そのまま犬猫にするようにわしわしと乱暴に撫でる。


「アディも本調子じゃねぇんだ。俺がそばにいてやるから、今夜ぐらいはちゃんと眠れ」

「な……っ」

 まるで私が一人では眠れないとでも言うけれど、賢者の館に行く前だって、医者の家でだって、私はよく眠っていたではないか。それをいうなら、ディの方がほとんど眠っていないに違いない。自分のことを棚上げして、よく言う。


 それに、なにより気に入らないのはこの私の扱いだ。


「やめてよっ」

 とっさに掴んだ枕をディに叩きつけると、珍しく顔面に命中した。これはと、私は次にベッドの近くにある未使用の風の魔石を取り上げ、投げつける。だが、これは流石に受け止められてしまったが、軽く巻きおこる風で、私のおろしたままの髪が後方へ靡く。


 私はそれを気にも止めず、じゃあと今度は近くに置かれていた燭台を手にする。


「お、おい、それは、つか、モノを投げんじゃ……」

「うるさいっ」

 叫ぶ勢いに任せて私が投げると、流石にディも数歩下がって受け止める。では、と私はサイドテーブルに手をかける。


「な、ま、まて! おま、それは……っ」

 とうとう部屋の扉を開けたディを確認した私は、さっき装備したばかりの短剣を腰から引き出し、扉に走り寄る。間合いを取ろうとしたのかわからないがディが後ろにさがり部屋から出たのを見計らって、私は扉から飛び出さずに閉めた。


「アディっ」

「うるさい、入ってくるな、馬鹿っ!」

 私が力任せに閉めた扉は、重い悲鳴を上げる。その扉の前で私は荒い息で膝をつく。


 なんで自分がこんなにイラついているのかわかっているくせに、どうしてディは私を怒らせるようなことをしたり言ったりするのだろう。なんでディは私に――騎士の誓いなんて、したのだろう。


「……ホント、馬鹿……っ」

 私は誰も自分の道に連れて行きたくない、巻き込みたくないのに。


 私は俯いたまま強く扉を殴る。拳闘士の私が本気で殴れば、きっと壊すことだって出来る。だから加減もしていたし、私自身も怪我をすることはない。ただ鋭い扉の悲鳴が室内に響いただけだ。


 この部屋で目覚めてからずっと、自分から彼女の、最初に自分を守って死んだあの人の血の匂いが消えない。幻覚とわかっていても振り払えない。全身が血に浸されて、気が狂いそうになる。早く、この部屋を出なければ、過去に囚われてしまいそうだ。


 私はこの旅に出てから、刻龍に狙われて、自分の状況がひとつも変化していないと気づいた。私はまだイネスにいた時と変わらず、命を狙われ続けていて、変わらず誰かに守られている。オーサーも、ディも、そういう意味では何ら変わらない。


 これ以上自分の為の犠牲を出さないために、私ができることはひとつだけ。それは――。


 丁寧なノックの音が私の思考を遮る。


「アディ、明日の朝食は何がいいでしょう?」

 この状況で食事のことなど考えてなどいられないのに、フィッシャーは何を言うのだろう。ディは、そこにいるのだろうか。


「いらない」

「食べないと大きくなれませんよ。あなたは肉付きが足りなくていけない」

 私は咄嗟に自分の胸に視線を落とし、直ぐ様扉を殴りつけた。


「大きなお世話だっ」

 扉の向こうが静かになる。さっきのおかげで、私の思考は私をここに連れてきたフィッシャーへと移っていた。


 東の賢者という呼称を持つフィッシャーは初対面から不躾な男で、その点はディと大差ない。だが、フィッシャーが私を害することはないと確信するのと同時に、味方でもないと思わせる。正直、私にはフィッシャーがなんで私についてくるのかわからない。単に面白がっているとは思えないし、何より識者として私の正体を知っている。だからこその、ここに移動するためにわざわざあの魔法を使ったのだろう。


 フィッシャーはもう私の正体を確信しているはずで、それがこれから何をもたらすのかまで私にはわからない。守ってくれているようにもみえるが、私を閉じ込めているようにも見える。私を閉じ込め、捕まえることの意味を見出していない限り、フィッシャーの行動は無駄にしかならない。


 再び扉がノックされ、向こうからフィッシャーが私に話しかけてくる。


「アディ、朝までに聞きたいことをまとめてください。約束ですから、どんなことでも一つだけお答えしますよ」

 約束とはなんだろうと考えかけて、そういえば私はミゼットに戻る前にフィッシャーとの勝負で勝ったのだと思い出した。賢者との勝負に賭けたのは情報で、私が勝てば望むことを教えてくれるという約束だった。


 私は扉を小さく開き、廊下にフィッシャーとディの二人を認める。ディはいつでも動けるように座っていて、フィッシャーは扉の正面を避けて立っている。


「何でも?」

「はい」

「今でもいい?」

 今の私が願うことなど、知りたいことなどフィッシャーにはお見通しだろう。フィッシャーは余裕の表情で、私に微笑む。


「結界、ですか。それとも、村の様子を見たいですか?」

 前者は確かに今の私が一番望むことだが、それ以上に刻龍の頭領の居場所を知りたいと、フィッシャーは知っているはずだ。だけど、何よりも村の様子を確認して、村の皆が無事であることを知りたいのは当然で。


 フィッシャーは村がどこにあるか知らないはずだ。私もそれなりに道具があれば別の場所を覗き見ることが出来ることは知っているし、フィッシャーにはそれだけの力があることだってわかっている。でも、私が知っている限りでは術者本人が行ったことのない場所の望遠はいくら魔法使いと言えど、できるという話は聞いたことがない。


 だが、それを言う相手は世界一とも言い切れる大魔法使いで、賢者だ。


「村を見られるの?」

「アディが手伝ってくださるのであれば」

 できるとフィッシャーが明言するからにはできるのだろう。私は扉を大きく開けて、フィッシャーの手を掴んで、部屋へと招き入れた。


「部屋の中でやりましょう」

 ディは私の行動をじっと見つめるだけで何も言わず、ただ扉が閉まるまで私から視線を外さないままで、それに少しだけ私も心が痛んだ。ディは状況如何で私がフィッシャーを締め上げてでも結界を解かせて、村へ行くことなどわかっているだろう。でも、何も言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ