16#よくある術式
数分後、私はまだ医者の家の前にいた。私だけではない、賢者もオーブドゥ卿もディもラリマーもいる。
ラリマーは細長い棒を使って、ガリガリと地面に円を描き、手元の紙を見ながら文様を描きこんでいる。私はそれをイラつきながら見守っている。どうしてこういうことになっているのかというと、賢者が直にと言った割に「じゃあ、ラリマーこれを」と中空から取り出した紙をラリマーに渡し、ラリマーも生真面目に受け取り、今に至る。紙に描かれている文様が魔方陣と呼ぶものであることぐらい、いくらなんでも私は知っている。
「ねぇこれって直とは言わないよね」
私が振り返って言うと、そこには真白いテーブルセットが用意され、席に着いている賢者とオーブドゥ卿が白磁のカップを傾けて寛いでいる。
「ラリマーは優秀ですからね。何時間もかかりませんよ」
「直にって言ったよね?」
「まあまあ、少し落ちついてください。アディも珈琲をいかがですか?」
湯気の立つカップを差し出してくる賢者に対して眉間に皺を寄せる私とは対照的に、テーブルについてはいないもののディは興味深げに、賢者が差し出しているカップとは別のカップを手にする。ディが手にしたのも賢者が手にしているのも、中身が同じだろうと私が考えたのは、カップの中の液体の色が同じで、ここまで漂ってくる香りが濃いからだ。
「これ、南の大陸で飲んでる茶だよな。珍しいモン飲んでんなぁ」
「流石によくご存知ですねー」
確かに旅をしているディの知識量は半端な量ではない。だが、そんなことは今の私にはどうでもいいことだ。私はこうしている間にも村の皆が危険にさらされているかもしれないと考えると、同じように寛ぐ気にはなれない。
苛々している私の前を、ラリマーが線を描くために通りがかったが見向きもしない。そういえば、ラリマーに服を借りる約束をしていたことを思い出した私は、彼女に近づいた。
「ラリマーさん」
ふぅと彼女が一息ついたのを見計らって、私は声をかける。
「なんでしょうか、アデュラリア様」
「アディでいいってば。服を借してくれるって話覚えてる?」
ラリマーは少し残念そうな顔をした後で、申し訳ありませんと私に頭を下げた。
「フィッシャー様の命令でお貸しできなくなりました」
「賢者の?」
「はい、あの時の会話をどなたかからお聞きしたということで」
あの時部屋の中にいたのは私とラリマーのふたりだけで、直感だけどラリマーはそういうことを話すタイプではない気がする。となるとあの場は賢者の屋敷の一部屋であったことだし、盗み聞きされていたのではないかと思い至る。
「とんでもない賢者サマね」
「ええ。ですが、信用の出来る方です」
同意とともにふわりとラリマーが柔らかく微笑むのを見て、私は困惑した。ラリマーのその笑顔はマリ母さんと雰囲気が似ていて、私には少し困る。
作業を再開するラリマーの後を、私は付いて歩く。作業の線は消さないように、慎重に歩きながら、半分ほど仕上がった魔法陣を眺める。転移魔法陣を本で見たりしたことはあるけれど、これは初めて見る文様だ。それに通常使われる魔法陣とは違う、見慣れない文字が並んでいる。なんと書いてあるだろうと考えかけた私に、少し前を歩いていたラリマーが声をかけてきた。
「アデュラリア様」
「え、何?」
「申し訳ないのですが、あちらでお寛ぎいただけませんか」
あちらとラリマーが指している方向を見ると、賢者たちはカードゲームに興じているようだ。
「うーん、私、邪魔?」
「……申し訳ございません」
後ろを歩くことを断られた私は、仕方なくカードゲームをしている輪に足を向けた。丁度ディが手元にあった最後のカードをテーブルの真ん中にある山に捨てたところのようだ。
「ディは強いですね」
「場数が違ェよ」
賢者とオーブドゥ卿は共にカードを持っているが、オーブドゥ卿のカードは二枚で、賢者は一枚。賢者が一枚引いたところであっさりと勝負はついたようだ。がっくりと肩を落とすオーブドゥ卿の手元から力なくカードが一枚落ちた。ジョーカーのカードだ。
「イフはどうしてこう弱いんでしょうね。私はもうあなたから聞きたいことなんてありませんよ」
その台詞から、また賭けをしていたことが私にも伺える。この男たちにとって、村やオーサーの事は他人事だから、こんなにも落ち着いていられるのだろうか。少し時間が経ったから、私も少しは冷静になったものの、まだオーサーの容態も村の状況も考えるだけで不安になる。
「アディも参加しませんか?」
だが、今ここで私が焦ったところでなにもできないと言うのも確かだ。仕方無しに私はひとつだけ空いている、ディと賢者の間の席に着く。
「どういうゲーム?」
「あなたが私の屋敷で目を覚ました時と同じですよ。場の全員に均等にカードを分けて、ペアになったものを捨てて、」
自分が目を覚ましたときに何のゲームをやっていたのかまでは知らないが、そこまで聞けばいくら私でもわかる。
「ババ抜きっ? まさか、オーサーはこんな単純なゲームに負けたの」
オーサーに勝負運がないのは知っていたが、そこまで弱いとまで私は知らなかった。いつもはすぐに私がオーサーと勝負を変わってしまうから。私は差し出された珈琲という飲み物を受け取り、口をつける。苦味はあるが、まあ悪くない。
「ミルクと砂糖はいかがですか?」
「いらない」
カップをソーサーに戻し、私はディが均等に配り終えたカードを手にして、にやりと笑う。
「賢者サマ」
「だから、フィスと呼んでくださいと言っているじゃありませんか」
まだ呼び方にこだわっていたのかと一瞬呆れたが、これ以上の問答をするつもりもないので、私は素直に呼び方を変えることにする。
「フィッシャー、こうなったら知っていることを洗い浚い教えてもらうよ」
愛称で呼ぶのは流石に気が引けるし、私はそこまで馴れ合うつもりもない。だから、名前で妥協したのだが、フィッシャーはとりあえず納得してくれたらしい。
「私も丁度アディに聞きたいことがあるんですよ」
奇遇ですね、と笑顔でありながらも鋭い視線を向けてくるフィッシャーに、私は臆することなく視線を向ける。ゲームは真剣にやらなきゃ意味がない。賭けるものがあるなら尚更だ。
私はこの賭けに勝ったら、もう一度フィッシャーに刻龍の頭領の居場所を尋ねるつもりだ。すべての元凶は刻龍にあり、そのトップを抑えることができれば、私の周囲にある運命も少しは変えられるはず。だから、私はどんな手を使ってでも、勝たなければいけない。
最も、私は賭けの勝負で負けたことは一度もない。いくら相手が賢者でも、私は負けるつもりは微塵もない。手札から全員がペアカードを中央の山に捨て終わったところで、私はいつものように宣言する。
「それじゃあ、勝負と行きましょうか。ユスティティア様の名のもとに」
ラリマーが魔方陣の完成を告げる頃、勝負は私とフィッシャーの一騎打ちとなっていた。ゲーム開始から一回も勝負が済んでいない辺りはラリマーが早いのか、勝負が遅いのか、見ている者たちにしかわからない。
私の手元のカードから一枚を引いたフィッシャーが悔し気な表情をし、私は口元に緩い笑みを浮かべる。このやり取りは先程から既に何度もしているが、やはり相手にジョーカーを取らせるのは快感だ。気になるのは、フィッシャーの様子が表面だけの悔しがり方に見えることだが。
「さ、どうぞ」
フィッシャーが差し出す二枚のカードを、私はじっと見つめる。二つのカードに違いがあるわけもないし、透視ができるわけでもない。そもそも正義と公正の女神ユスティティアの名前を最初に宣言した時点で、すべてのイカサマは無条件で敗北となる。
カードに手を伸ばしたまま、私はフィッシャーの顔とカードを交互に見比べる。こういう事に慣れているのか、はたまたもともとかはわからないフィッシャーのポーカーフェイスでは判断できないが。
「……そろそろ終りにしよう、フィス」
「はい、ラリマーも準備を終わったようですからね」
私が愛称を呼んだ一瞬、フィッシャーのポーカーフェイスが崩れた。その目線が揺れる先を見極め、私は一枚のカードを抜き取る。クローバーの九、私の持っているカードと同じだ。
「勝ったーっ」
嬉しさの余りにカードを放って喜んでしまった私の前で、フィッシャーはそれほど残念そうではない。
「いやあ、強いですねぇ」
それどころか余裕にさえ見えるのは何故なのだろうか。疑問に思う私の頭にディが手を乗せ、ぐしゃぐしゃと撫でる。
「よかったな」
なんとか見上げた私から見たディは、完全に保護者の顔をしている。よく見れば、他のフィッシャーやオーブドゥ卿も同じ表情で、私だけが子供みたいで。勝ったはずなのに、なんだか悔しい私は口を曲げる。
「そろそろ移動しましょうか」
席を立つフィッシャーと同じくディとオーブドゥ卿が立ち、私も大人しく椅子から降りる。ラリマーが懐から紙札を一枚取り出し、力ある言葉を唱えると、テーブルセットは一瞬にして消えた。消失魔法は簡単ではないし、ましてそれを札一枚に封じ込めるなど容易ではないはずだ。そんなことができる札を描いた人物が尋常ならざる魔法使いなのは明白で、おそらくそれが目の前にいる賢者であることは、私にもわかる。
「アディ」
ディに肩を押されて、私はフィッシャー、ディ、オーブドゥ卿、ラリマーと共に魔法陣の中央へ移動する。五人で入っても余裕のある魔法陣の内縁から外縁を私が眺めていると、医者の家の戸が開いて、ハーキマーが顔を出した。
「お嬢さん、オーサー君は確かに私が預かった。だから、こちらのことは心配しなくていい」
フィッシャーの最初の一音と同時にラリマーの描いた魔法陣の線から光が溢れた。
「巡る歯車」
ハーキマーに深く頷いてから私がフィッシャーを見ると、今までの飄々とした余裕気な様子は影を潜め、真剣な眼差しで横にした杖を正面に構えている。辺りに魔力の隠る風が柔らかに吹き始めるのを感じ、私は軽く後ろで縛っているだけの髪が前に煽られるのを片手で抑えた。
「過ぎ去りし時と」
次の一言でフィッシャーの身に付いた宝飾が、魔法陣全体に淡い光をばら撒き始める。夕闇に落ちつつある世界を照らすように、光虫が魔方陣の中を飛び回る様は、幻想郷でも見るようだ。
「来るべき時を結ぶ光の果実」
気がつけば、フィッシャーの身体も私やディの身体も魔力を含んだ光と風に包まれていて。それを目にした私は、ウソツキ、と小さく呟く。魔力を使わないと言ったのに、どう見てもこれは魔力を引き出す魔法陣だ。不満も顕な私の耳に、ディの小さな笑い声が届く。
「ウソじゃねぇだろ。少なくともアディは使わずに済んでる」
「そうだけどさー」
小声で会話する私とディをオーブドゥ卿が咎める。
「しーっ、静かにしないと後でフィスに怒鳴られますよ」
結構恐いですよ、と咎められてもオーブドゥ卿本人がクスクス笑いでは説得力がない。そこに不機嫌そうなフィッシャーの声が重なり、辺りに響き渡る。
「我願うは友棲む屋敷」
「地中の萌芽と常緑の青葉と女神の紅玉を目当てにせよ」
私の耳元でパチリと音がして、髪を止めていた柔な髪ゴムが切れる。魔力風に翻弄される髪を慌てて両手で抑えようとする私は、唐突にふわりと白い布で遮られた。見上げれば、布――自分のマントで私を包んでくれているディが安心させるように笑ってくれる。そう言えば女神の従者は魔力を受け付けないのだという話を、私は今更のように思い出した。
このまま移動したら、ディは私たちと共に来られるのだろうか。来て欲しくないと思っているのに置いていきたくないと考えてしまっている自分に戸惑いながら、私はディの大きな手に自分の手を滑り込ませて掴む。上を見上げないとディがどんな表情をしているのかわからないけれど、私はただディを失うことが怖くて、少し俯いたまま強く両目を瞑る。
「無明の女神の加護の元にて、目当てへと我らを運べ」
フィッシャーの最後の言葉を合図に、私は強力な吐き気に襲われ、ディと繋いでいない方の手で自分の口を抑えた。目の前がぐらぐらと揺れ、自分の中から無理やりに引き出される力がそれを起こしているのはわかるのだが、どうしてという気持ちとどうしようもない事実がぐるぐると廻る。
ディをしっかりと掴んでいたはずの手が外れたのにも気がつかず、膝をついた私はそこが柔らかな芝生だと認識する前に、支えられない身体を落とした。
自分の体が落ちる音が他人事みたいで、ただ一向に収まらない吐き気が思考のすべてを支配していて、私は蹲ったまま動けない。
「大丈夫ですか? 女神の眷属は魔力に弱いとは聞いていましたが」
穏やかすぎるフィッシャーの声が近くで聞こえたかと思うと、私の身体に魔法ではない浮遊感がかかる。頭の中で思考がまとまらない中、フィッシャーの台詞は私に確信をさせた。やっぱり、フィッシャーは、賢者は私の正体を知っていると。
「早く屋敷へ移動しましょう」
「ああ、ラリマー、先に行って部屋を整えておきなさい」
「はい」
頭痛と吐き気はひどいけれど、私の意識は失えずにそこにあった。私を抱いているフィッシャーが小さく耳元で囁く。
「申し訳ありません、アディ」
フィッシャーの謝罪は何を意味しているのか、それは私の正体を知っていて隠しているからかもしれない。さっきの転移の時、言葉に入っていた「無明の女神」が何を意味するのか、フィッシャーはわかっていて使った気がする。
でも、私はそれを追求せずに別な方向へと震える手を伸ばした。
「ディ、いる?」
彷徨う手に触れるものはなく、私はあの場所にディを置いてきてしまったのではと不安に駆られる。だけど、その反面で安堵もしていたのは、私の運命の中に連れていきたくないと、オーサーと同じく、村の皆と同じく、ディを無くしたくないと思ってしまっているから。
空をさ迷う私の手を、フィッシャーが引き寄せ、私の胸に置く。
「心配せずともちゃんとディもいます。今はどうかお休みください」
必要以上のフィッシャーの丁寧な言葉が、私に苛立ちを生ませる。何も、何もしらないくせに。フィッシャーは私の表面上のことしか知らないで、私の気も知らないで、勝手なことばかりで。
私は奥歯を強くかみ締め、苦しさを堪えて、フィッシャーの腕から逃れた。軽く地面に着地したつもりが、私は脊髄を突き抜けるような痛みでまたすぐに倒れる。
「無理をするな」
次にかけてきた声は間違いなくディの声で、ほっと安堵した私は近くにある腕に大人しく身体を委ねた。
薄く開けた視界の向こうで、青空に白い月がゆらゆらと揺れながら私を笑う。子供のときに見たのと同じ白い月が、過去を呼び、私の中にある人を思い出させる。――彼女がいなくなった日もこんな月を見た。
重くなる瞼の向こうで白い月は半分闇に消え、更に半分が消えてゆく。私を心配する声が暖かくて、それが心に痛くて、消えかける意識の中で私は自分の頬を冷たい水が伝い落ちてゆくのを感じた。