15#よくいる薬屋
甘い花の香りと、瞼の裏を通す陽光に誘われ、私はゆっくりと目を開いた。高い天井の木組みがぼんやりと見える様子が村で過ごした部屋と似ていて、私はしばし状況を忘れる。村を出てからのこと全部が夢だったような気もしたけれど、私の着ている服は普段着ていたシャツやパンツではなく、遺跡で適当に作った急ごしらえのワンピースだ。身体の上にかけてあるのは、おそらく馬に乗っていたときに、賢者がかけてくれた薄布だろう。
眠らされているのは少し固めのスプリングのベッドで、私の目を呼び覚ました甘美な花の香りは、村の近くを流れる小川で咲いていたものと同じ香りだ。郷愁に誘われながら起き上がると、私の頭から小さな花々が落ちる。よく見れば、その花は萼の下あたりで摘み取られ、私の眠っているベッド全体にばら撒かれている。
「なんで、ユーレリア?」
私は寝起きの頭で何があったかを思い出返して、すぐに脳裏にオーサーを浮かべた。身体中に傷を作って倒れているオーサーはピクリとも動かず、床には赤い水が広がってゆく。オーサーは肌が白いから、昔から怪我なんかすると、私よりもとてもよく目立っていた。全身を切り刻まれ、それでも殺さないように慎重に傷だけをいくつもつけられた様から、私は見ていなくてもオーサーが嬲られたのがわかる。だからこそ、オーサーの左腕だけに怪我が無いのは、特に目立った。
刻龍の死の刻印――龍が腕を這い回る様は、今思い出してもぞっとする。それがどういう効果で、いつオーサーが死んでしまうのか考えただけでも怖いけれど、今は震えているわけにはいかない。
私がここに眠っていたのは、ディに連れられて馬で移動している間に酔ってしまったからだということは、思い出さなくても今の感覚と経験からわかった。オーサーと村の皆が心配で心配で眠れなかったはずなのに、眠ってしまえば馬に酔わないから、こんな時でも私は本能で眠ってしまったらしい。
私はベッドから降りると掛けていた青布を羽織って、部屋の中をぐるりと見回す。ベッド一つだけで既に半分を占めてしまっている部屋の中には、当然私の他に誰もいない。だから、私は棒のようなドアノブに手を伸ばした。軽い力を込めて、ノブを下げ、ゆっくりと押し出す。向こう側には何があるのだろうかと恐る恐る開いた私は、すぐにドアを大きく開くことになった。なぜなら、ドアの向こうの部屋に、私の目の前にオーサーがいたからだ。
オーサーは椅子に座って、白衣を着た髪の長い女性と話をしている。薄水色で袖のない服に着替えているオーサーの腕には、あの黒龍の死の刻印がはっきり見えるが、本人は別段苦しそうでもない。他の怪我はすでに治療を終えているのか、穏やかな普段どおりのオーサーの様子に私は安堵の息を吐く。
「いかないのか?」
唐突に隣から聞こえたディの声に驚き、私はそちらを顧みた。私がさっきまで眠っていた部屋の扉の隣には、少し距離を置いて、変わらない灰色の甲冑姿のディが灰色の石壁に寄り掛かるように立っている。あまりに自然に溶け込んでいたのと、オーサーに気をとられて、私はディにまったく気付かなかった。
「話し中みたいだから。それより、あれがディの知り合い? 美人だね」
馬上でディの知り合いの医者に連れて行くと言っていたのは覚えていたので尋ねてみると、ディはゆっくりと私に近づいてきて、私の頭に軽く手を乗せた。次いで、無造作にぐしゃぐしゃと人の頭を撫でまわすから、私は顔を上げられなくなってしまった。
「今、イェフダたちがお前の村の情報を探ってる。だから、そんな泣きそうな顔すんじゃねぇ」
ディの手が止まったので私は自分の頬に手を当ててみたが、涙なんて出ていない。それに、今はオーサーの無事がわかって安心できているのに、私はちゃんと笑っているのにディは変なことを言う。なんなんだと私が無言で見上げて聞き返すと、ディにまたぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
「おい、そこのロリコン」
「違ぇよ。話は終わったか、ダイヤ」
ディが言った瞬間に、細い風が私の顔の拳一つ分離れた場所を通り過ぎた。動じることなく手を上げたディをよく見ると、指の間に手術で使う細いメスみたいな銀色が鈍く光っている。それを手にしたディはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべているが、流石にこれが人をからかうときのディの顔だと知っている私は視線の先を追いかける。ディの前に座っていた女性は、立って怒りに拳を震わせている。
「その呼び方はやめろと何度言えばわかるっ」
「別にいいじゃねぇか、ハーキマー。ダイヤモンド=ハーキマーはお前の名前だろ」
「良くないっ」
ハーキマーと呼ばれた女性はディと同じぐらい長身で、長い銀髪の女性だ。肌も白く、赤い目が際立つのは色のせいばかりでない。切れ長の瞳を含め、見た目にも意志の強さをはっきりと感じさせる女性は、くるぶしまで隠れる長い白衣に身を包んでいる。
ハーキマーはひどく憤慨していたようだが、不意に私に視線を移した。
「具合はどうかな、お嬢さん?」
「あ、はい。スッキリしてます、けど」
私の返答にハーキマーは細い眉と目を細くし、薄い紅色の唇の両端を上げて微笑む。
「そうだろう、そうだろう。何しろ、最高級の回復草を使ったんだからな」
最高級のという単語に、私はぴくりと眉を上げて、オーサーを見た。私を見ていたオーサーは、椅子に座ったままで慌てて否定する。
「別に僕が言ったわけじゃないよ、アディ。それに、お金はディが出してくれたからっ」
そういえば、オーサーも私も意識がなかったのだから、当然どういう手当をするかなんて判断できるわけもない。私が驚いて顧みると、ディはなんだか眉根を寄せて、苦虫を噛み潰した顔をしている。
私たちのやりとりを見ていたハーキマーは、唐突に勝ち誇った笑い声をあげた。それにつられて私がハーキマーを見ると、彼女は片手を腰に当てて、先程よりも右の口端を高くあげた怪しげな笑みを浮かべている。
「金なんぞ、この男が持っているわけないだろう。それに私は金持ち以外からは金を取らない主義でね」
持っていないだろうといわれて、荷物を賢者の屋敷に置いてきてしまったことに気付いた私は、そのとおりなので頷く。ハーキマーの勢いに押されたといってもいい。だが、それなら何故私などのために最高級の回復草を使ったのかがわからない。私が不満をあらわにしていると、ディが種明かしをしてくれた。
「金だったらイェフダが出してくれる気だったんだが、アディは貴族に貸しを作りたくねぇだろ。で、ハーキマーはこのとおりだから、治療代として薬草を取ってくることになったんだ」
私が本当なのかとオーサーに目で問うと、オーサーは知らないと両手を振る。私たちがそんなやり取りをしている間に、ディはハーキマーの手を引いて、部屋を出て行ってしまった。
部屋に残された私は少し迷った後で、オーサーの元へと近寄る。オーサーの傷は完全に治っているように見えないし、顔色もよくはない。本当なら、ファラを呼び出して治してあげたいところであるが、オーサーを送り返すために力を借りてから丸一日程度では、ファラを呼べない。あの小さな妖精は本当にまだ幼いから、使える力も限られるし、回復にも時間がかかるのだ。早くてもあと二日ぐらいは呼ぶことができないだろう。
「アディ」
私を呼ぶ少し低めのテノールに今にも泣いて抱きついてしまいたいのを堪え、オーサーの前に両膝をつき、頭を下げる。
「ごめんなさい、オーサー」
私が謝ったところで時間を戻せるわけもないし、村が襲われたことも、オーサーが怪我をしたこともなかったことにできるわけじゃない。それでも、村に刻龍が襲撃したことは私が原因だとわかっているし、オーサーが怪我をしたのも私が無理矢理に帰らせたからだとわかっている。すべては怪我をさせたくない、私の運命に誰も巻き込みたくないという私のわがままのせいで起きてしまったことで、本当にそう思うなら私は最初からマリ母さんに絆されず、一人でいなければいけなかったのだ。
「アディ」
私の頬にオーサーの少し熱い手が触れる。見上げると、オーサーはとても厳しい顔で私を見ていて、私は言葉を詰まらせた。こんなオーサーを見たことはないから。
「今更後悔しても遅いよ」
オーサーの堅い声を聞いていると、私は顔も声も見続けることが出来なくて、また俯いた。私の頭に極軽い調子で手が置かれ、次いで引き寄せられて、私はバランスを崩してオーサーに倒れこむ。互いの薄い服ごしに伝わる体温はオーサーの方がずっと高い。それに、オーサーはずっと私が守るべき弟だと思っていたのに、考えていた以上の男の力で引かれて、そんな場合でもないのに私は途惑う。
「今更全部なかったことには出来ないよ、アディ。僕はアディと会わなかったらなんて考えたくもないんだ。それは父さんも母さんも、村の皆だって同じことだよ」
オーサーのテノールが、私の耳に直接息を吹きかける距離で囁きかける。
「誰も君を村に迎えたことを後悔していないのに、アディが後悔するのは僕らに対する裏切りだ」
だから気に病まないでほしいと、オーサーは私に言う。それから、大丈夫だと私の頭をゆっくりと撫でる。
「大丈夫だよ、アディ。村の大人たちは強いし、グランシアとサーシアさんは丁度定期健診でミゼットに泊まっていたんだ。戻ったら、皆、いつもみたいに迎えてくれるよ」
グランシアは去年生まれたばかりの赤ん坊で、サーシアはその母親だ。私もオーサーもサーシアにはよく遊んでもらったし、グランシアともよく遊んだ。
一度はそれを思い出したものの、私は頭を振る。二人が無事だったとしても、やはり私は。
「いくら村の皆が強くたって、誰か死んだりしたら戻れないよ」
私は拳闘の技を村の大人に教わったし、オーサーの札も同じだ。大人たちに勝てたことはないけれど、それでも村を出たときから私を狙うメルト=レリックみたいな奴が何人も来たら、とても皆が勝てるとは思えない。
「うん。だから僕は、一度アディを連れて戻ろうと思ったんだけど、やっぱり駄目だ」
私はオーサーに急に肩を掴まれて、身体を離される。まっすぐに私を見るオーサーからは強い意志を感じる。
「あいつらの、刻龍の狙いはアディだ。今戻ればアディは殺される」
「っ、私の命なんかどうなったって、」
「駄目だっ」
大きな声を出したオーサーは急に咳き込み、身体をかがめる。腕の中にいた私はなんとかオーサーを支えようとしたが、叶わずに一緒に倒れ、強く背中を打った痛みで一瞬息が詰まる。それでも、自分の痛みなんて気にしていられないほどオーサーは苦しそうで、私は起き上がれないまでも両手でなんとかオーサーを抱きしめた。
「っ、げほ……っ、ごほ……っ」
「オーサー、しっかりしてっ! 誰か、誰か来て!」
バタバタと慌ただしい足音がしたかと思うと、オーサーがディに抱え上げられたのが見えた。オーサーはすぐに部屋の端のベッドまで連れていかれ、ハーキマーが近寄って脈をとっている。
私は差し伸べられた誰かの腕を跳ねのけ、急いでオーサーの眠るベッドに近寄った。オーサーは咳が収まったものの、青ざめた苦しげな顔を隠さない。
「ぜ、全然、治ってないじゃないっ」
「誰も治したとは言ってないぞ」
冷静な声が降ってきたので、私が顔をあげると、ハーキマーが何かの粉を少量の水に溶かし、オーサーの口に流し込んでいる。苦しそうにそれを飲み込んだオーサーは涙目だ。
「私は魔法使いではないし、これだけの重傷を一瞬で治す術など持っていないからな」
「でも、さっきまでは普通に座ってて、」
「痛み止めが多少効いていたからだ。お嬢さんが起きたときに自分が寝ていたら心配させるからと言っていたさ。たいした男だよ」
私はオーサーの寝台の隣に膝をつき、大馬鹿野郎、と小さく呟き囁く。私の言った台詞の後半に驚いたオーサーは、思わず身体を起こそうとしたが、すぐに呻いて踞ってしまった。
こんな状況で真っ直ぐに大神殿に向かえるほど、私は薄情でも強くもない。だから、私はオーサーだけに聞こえるように言ったのだ。私が村の様子を見てくるから、ここで待つように、と。それで刻龍に殺されたとしても、それ以降の被害がかからないようにするためにも、私はもう逃げ続けるわけにはいかないから。
オーサーの柔らかな髪を撫でて、私は立ち上がり、まっすぐにハーキマーを見る。
「オーサーをお願いします」
私が何を言うかわかっていたとでもいうのか、ハーキマーは驚かずに返してくる。
「ついていてやらないのかい?」
「はい」
あと一日も立てば、ファラの力を借りて、表面だけでも私がオーサーを治療することはできる。だけど、この先私のやることをオーサーに見て欲しくないのとオーサーを失う恐怖を知りたくはないから、私はハーキマーに向かってはっきりと大きく頷いた。
「意思は固いようだね」
ハーキマーがディの背中を押すのを見て、それが彼を連れていけということだとわかった私は、また首を横に振る。
「ここまでディが守ってくれたことには感謝してます。だけど、これ以上私はディを連れて行けない」
今まで、誰も私と同じ道を歩み続けられるものはいなかった。それに、絶対に命を落とすとわかっている道に、私はもう誰も巻き込みたくはないから。そう口にする前に、そしてディが何かを言う前に、ハーキマーが軽い笑いを零す。
「こらこら早とちりするなよ。ディはお嬢さんの向かう先に用があるから、ついでについて行くだけだ」
ハーキマーがディは私を守るために行くんじゃないと言うと、ディは眉根を寄せた。
「あなた達の村の周辺にはユーレリアが近くに大量にあるらしいね。私はディにそれを是非採ってきてもらいたいだけなんだ」
私とオーサーの治療代だとハーキマーに言われ、私も口実にしか聞こえない申し出に眉根を寄せる。
「お嬢さんらは知らないようだけど、ユーレリアは高価な薬さ。そのままならただの疲労回復薬でしかないが、ある物を加えると金持ちがどれだけの大金をかけてもいいという妙薬になる」
ユーレリアが薬草というのは私も知っていたが、今日のように馬に酔った後のケアに使われたこともないし、高価な薬だなんて聞いたこともない。首を傾げる私に対して、ハーキマーの向こうで二つの息を飲む声が聞こえて、すぐに私の目の前に来た蒼衣の賢者が私の腕を掴んだ。
「な、なに?」
いきなりのことで抵抗できない私を賢者が部屋から引きずり出す様子を、ハーキマーは手を振ってニヤニヤ笑いで見送ってくれた。私の腕を引く賢者の力は特別強いわけでもないが、無理矢理に引き摺られるのは痛い。だが、それを私が抗議するのも躊躇われるほど、賢者もオーブドゥ卿も嫌悪を露にしている。
「いくらディの知人でも質が悪すぎます」
明るい戸外へと連れ出された私が目を細めていると、賢者がつぶやき、追いついてきたディが苦笑で答える。
「ハーキマーは根はイイ奴なんだ。ただ、金持ちの間じゃ、評判悪ィな」
そりゃそうでしょうよ、と言う賢者の私の腕を掴む手に軽く力が入る。
「ダイヤモンド=ハーキマーといえば、世界で唯一の、幻惑士の称号者なのですから」
「っ、幻惑士って何?」
世界には様々な称号があるから、私は知らないことが多いと自覚している。賢者は私に答えることなく、ディと会話を続ける。
「ディはよくあんなのと旅をして無事でしたね」
「あんなのって、すげー言われよう。そりゃあ何回か巻き込まれたし、死ぬ目にもあったけど、ハーキマーは根はいい奴だぜ」
ディがハーキマーについて話す様子には、どことなく信頼しているのが私にも伝わってくる。そりゃあ、私は最初からディを信用していたわけではないし、置いていこうとしているし、ディに何かをいう資格はない。だけど、どうしてこうも胸がざわめいて落ち着かないのかわからず、私はイラつく気持ちを腕をつかんだままの賢者にぶつける。
「離してっ」
私は腕を振って無理やりに賢者から逃れようとしたが、意外にもビクともしない。外に出てから初めて私を見た賢者が真剣な目で見つめてくるので、その深い蒼の瞳に考えを見透かされそうな気がした私は怯む。
「駄目ですよ、アディ。お一人で村へ帰るつもりでしょう」
やっぱり、わかっていて私の腕を掴んだままだったのかと納得する。納得はするが、それで逃げてもどうにもならないから、私は賢者を強く下から睨みつける。
「だ、だからなによ。貴方たちには関係な」
「イフの屋敷であれば、すぐにでも行けますよ」
イフというのがオーブドゥ卿の愛称だと私はすぐに気がつくことは出来なかった。だが、賢者から斜め一歩後ろで頷くオーブドゥ卿の様子から、私はそれがミゼット郊外にある彼の屋敷と気づく。賢者の目を真っ直ぐ見て、私はそれがどうしますかと尋ねているのではなく、代わりに自分たちも連れて行けと言っているのがわかった。放っておいて欲しいのに、どうして賢者は私に構おうとするのだと奥歯を強く噛みしめる。
「それぐらいの距離は私だって、」
「私の魔力も使わずに行けるんですけどね」
「っ」
帰郷すれば、まず間違いなく刻龍との戦闘になることが目に見えている。基本的に私は拳と銃を中心とした戦闘をするが、いざという時は魔力を使うし、できることなら温存しておきたいのが正直な気持ちだ。
賢者の言う魔力の使わない方法というのが恐らく魔石を利用した一種ではないかと推測できるが、転移魔法なんてそうそう楽に出来るものではない。過去には五万マイルを一瞬で移動した魔法使いがいるとも言われているが、現代にそこまでの魔法使いはいないはずだ。
だが、相手は世界でも三本の指に入る魔法使いで、賢者の称号を持っている男だ。その古い魔法を使うことができるとしても不思議はない。
「そこまでいうなら、望み通りに連れて行ってあげるわよ」
オーサーやディが傷つくのは見たくない。けれど、村の状況が気になるのは確かな私は、強気に言葉を返す。対して、賢者は私に勝ち誇る笑顔を見せてきた。