17 出来心と出来心
ノックをしようと思ったら、窓は開いたままだった。
部屋に瑞希がいる様子はない。
座布団とカバンが重くて思わず中へと放り投げる。続いて自分の体も放り投げる。
我が家と同様、瑞希の部屋も窓沿いに勉強机がある。丁度いい足場だ。
「あれ、まだ帰ってきてないのかな」
呟いて左を見たら、ベッドの上で気持ち良さそうに眠っている瑞希を発見した。
窓の正面に2段ベッドがある私の部屋とは違い、瑞希の部屋は、窓から見て左横に一人用のベッドが置いてある。
寝ている瑞希の横顔をまじまじと見つめる。普段も綺麗なのだけれど、寝顔はより一層綺麗に見える。
私…完璧に負けてる……
まあ、比べちゃダメよね。真琴もそう言っていた、ウン。
さて、どうしようかな。
お疲れの様子だし、このまま寝かせてあげた方が良さそうだ。でも、このままだと私の課題は進まない…。起こすべきか、そっとしておくべきか、瑞希の寝顔を見ながら暫く考える。
長い睫毛が伏せられた目元をふんわりと彩り、ほのかに紅潮した頬が、白い肌にアクセントを与えている。なんだかまるで、眠れる森の美女のようだ。
本当に綺麗だな………。
……………。
ちょっとくらい、いいよね?
なんだか急に、私の中に好奇心が芽生え、ドキドキしながらスカートのポケットに手を突っ込む。入れっぱなしになっていた、リップの試供品が指に触れる。
だって綺麗なんだもの。ちょっと、お試ししてみたい…。
って。
これはやばいまじやばいって………
「………ん?」
瑞希という名の美少女が目を覚ましたようだ。
「……オハヨー」
「真紗?」
びっくりして瑞希が体を起こす。私はベッドに椅子代わりに腰掛ける。
ちっ。口を開いて起き上がると、さすがに女の子っぽさ薄れるな。
「勝手に入ってくるなって言ってるだろ」
「ごめんごめん」
「悪いと思っていないなー。んで、何?数学?」
「数学っ」
「………」
瑞希が変な表情をしている。
「なんだか、口元がべたべたする気が………」
そう言って、唇を拭われた瑞希の手の甲が、ピンク色に染まっていく…。
瑞希が、目を見開いて、まじまじと自分の手の甲を見つめている。
「なんだよこれっ!!!」
「うわごめんなさいっ!」
だってあんまり綺麗だから、似合うかなー、なんて。つい出来心で……。
思ったより速攻でばれてしまった。
思わず謝ったのだけど、笑いを止められなかったせいか、瑞希が、リップを手にしたままの私の右手を掴んで怒り出す。
「なに持ってんだよ、ま~す~ず~!!」
「ごめんね~、でも結構似合ってたよ~」
瑞希の勢いに押され、のけぞり過ぎたせいか、姿勢が崩れてベッドに倒れる。瑞希も引っ張られる形で私の上に倒れた。
うわっ。
目と目がまともにぶつかり合う。
ど、どうしよう……
焦る気持ちで動こうとしたものの、まるで時間が止まったかのように、固まって動けない。
胸の鼓動がやけに早く、強く聞こえてくる。
瑞希も驚いた様子で、白い頬を赤く染めている。私の頬も多分同じだ…。
「この前の返事、まだ貰ってないんだけど」
沈黙を破るかのような瑞希の言葉を耳にし、顔の火照りも高鳴る胸の音も一瞬でどこかへ消えた。
『オレ、真紗が、好きだよ』
観覧車の中で聞いた言葉が蘇る。止まっていた時が今、動き出してしまったようだ。
思い違いをしていた。
私は、自分の気持ちにずっと蓋をしていたからか、なぜか瑞希の気持ちにまで蓋がされていた気でいたんだ。
それが間違いだったと今ようやく気づく。
「好きの意味、わかってる?」
瑞希の左右の手のひらが私の頬を包み込むようにして触れ、そのまま、瑞希の顔がゆっくりと近づいてくる。
お互いの前髪が優しく触れ合い出した。
どうしよう。
戸惑う気持ちは一瞬で、なぜか人ごとのような感覚のままで。
瑞希の表情を冷静に眺めている自分がいる。
私を見つめる真剣な眼差しとは裏腹に、口元は少しはにかんでいる。
このまま瑞希が何をするつもりなのか、なんとなく分かっている筈なのに、なぜか私はじっとしたまま、ぼんやりと瑞希を見つめていた。
瑞希の赤みのある綺麗な唇が、少しずつ、少しずつ近づき、躊躇いがちに私の唇に触れてきた。
そのまま強く押し当てられる。勢いで頭がベッドに軽く沈む。
これ、ファーストキスなんだけど、な。
初めてのキスは何の味もしてこない。
ただただ、瑞希の匂いがする。
こんな状況にも関わらず、なぜか私の心は恐ろしく落ち着いていた。今朝はバームを塗っていたから唇は荒れてないよね、なんて事を呑気に考え、ふと嫌な事に気付く。
私は、これが終わると答えを出さなくてはいけない。
このキスは、私に与えられた執行猶予の時間だ。
「んっ…」
瑞希の唇が少し離れた。
僅かな間の後、再び私の唇は塞がれる。
私の頬を包む手に力が入り、火傷した顎骨に当たって少し痛い。
真剣な瑞希に、私も真剣に答えないといけない。
蓋をしている場合では無かったと今更ながらに後悔する。
考える時間が圧倒的に足りない……。
答えは出ないまま、瑞希の顔は離れた。
時間切れだ。
「オレの気持ち、分かってる?」
「わかってる…」
ここまでされて、分からない訳がなかった。
分からないのは、私の方だ。
私は瑞希と、どうしたいの?
あの日蓋をした質問の答えは、まだ見つからない。
瑞希の隣で笑っていたくて。でも、瑞希の隣にいるのは辛くて。一緒に居たいけれど、一緒には居たくない…。
ぐるぐる回るばかりだ。
「瑞希の気持ちはとてもよく分かる……のに…、どうして!…私の方がちっとも分かんないよっ……」
思わず叫んでしまった。
私の頬から手を離し、瑞希が気まずそうに俯く。
伏せられた睫毛がとても悲しそうだ。
「……そっか」
瑞希はそれだけ言うと、身体を起こし私から離れた。
いつもふわりと柔らかく優しげに笑ってくれる瑞希が、今日はずっと悲しそうで苦しそうで、それが私のせいだと思うとなんだか切なくなって来て。
自分でも分からないうちに自分の口が微かに動いて、はっとして私は目を見開いてしまった。
慌てて瑞希から背けるように体を起こして下を向く。
ああ、可笑しい。
慌てて、声が漏れないよう緩む口元に手を当てる。
身体が小刻みに震える。
急に笑えてきて、止まらなくなってきた。
ああ駄目だ。
可笑しくて堪らない。
ああ、今気付いた。
私は、自分に自信がないだけで。
私は―――
瑞希の事、最初からずっと、好きだったんだ。
「勝手なことして、ごめん」
瑞希がぽつりと呟いた。
笑い出したくなるのをなんとか押さえて向き直る。
悲しげに俯いたままの瑞希を見て、ふと、いつものふんわり笑顔が見たくなった。
笑って欲しくて。
瑞希の垂れ下がった柔らかな前髪をかきあげた。
相変わらず端正な顔をしているのだけれど、ちっとも笑っていないのが残念で。
こちらを向いた瑞希の唇に、今度は私の方からそっと唇をくっつけてみた。
沈んだ瑞希の顔が、キョトンとしだして、それがまた可笑しくて私は笑いを堪えるのに必死だ。
「これでおあいこ!」
表情がゆるむ。柔らかな笑顔になった私に釣られたのか、瑞希もいつしかふわりと微笑んでいた。
まだ終わりでは無いです…。




