鋭角な微笑
貴明は咄嗟にブレーキを踏んで、路肩にクルマを止めた。慌てながらも、サイドブレーキを引き、ランプがPの字を点灯していること確認してから、大きく息を吐きだして、身体を無視のように丸くさせた。
――青い煙が見えたからである。
「ここまでやったら、バレやしないよ。誰かが喋らない、地方紙にだって載りやしない。学生の、それも男の失踪なんて」
耳奥で再生された声は、未だに鮮明だった。もう十年が経とうとしているのに。
夜はとうに更けている。夜空に小高い山岳が影絵のように連なっている国道を、真っすぐに進んでいた。帰路だからである。果たして、何年間、同じ道を通っているだろうか。感慨はなく、もはや飽きすら覚えなくなっていた。アクセルを踏み、ハンドルを柔らかく握る。どこに焦点をあわせるわけでもなく、帰宅後の雑務のことをぼんやりと考えていた。
ゆらゆらと昇る青い煙が視界に入った途端、心臓が弾けるような心地だった。
「おい、これ、どうするんだよ」
高揚感があった。皆が笑いあっていた。何より、熱かった。状況については俄かには判らなかった。その場の享楽と勢いに任せて、身体を動かしていた。――ヤバいよ。じわりじわりと真水に墨滴を垂らすように、いつの間にか凍てつくほどの心地を覚えた。つい先ほどまで、ゴム毬のように丸くなり、蛙のような鳴り音を漏らしていたが、微動だにしなくなった。四人で見下ろしながら硬直していた。
「三番アイアン、行きまあす」
軽く跳ね飛ぶような声とともに、鈍い衝撃音が聞こえてきた。確かにその時の感触は砂場を殴るよりも柔らかく、弾力のあるモノだったと──掌が思い出していた。
雲のない空の下。冬の清澄な夜空だった。火照っていた筈の身体は瞬時にして冷えた。
──俺のオンナに手を出しやがって。
──じゃあ、ガチでやっちゃいましょうよ。
それぐらいのノリだった気がする。顔見知りの男を拉致して空き地に連れていくと、仲間と共に打ち潰した。殴る蹴るだけではない。金属バットにゴルフクラブもあった。タバコを圧しつけて、虫のように蠢く様には、仲間の一人は腹を抱えて笑っていた。耳障りな甲高い声だったので、貴明は彼も殴っていた。
――そして、気づかぬうちに動かなくなっていた。
「どっか人目のつかない場所はないか? お前はクルマを用意しろ。お前はドラム缶だ」
指示が聞こえてきた。冷静な声だった。貴明は指示通りにクルマを用意した。トランクルームに収めてそして、森の奥へと進んでいき、ドラム缶に木材などを投げ入れて、火を起こした。青い雲が一筋、月の皓々と輝く夜空へと昇っていった。
――誰にも言っていない。誰も言っていない。だからこそ俺には、妻と娘が居るんだ。一軒家も設けられたんだ。
息が粗くなっていく。もっと塗さなくてはならない。胸が詰まっているようで苦しかった。
――罪の意識か? 鼻で嗤い飛ばすと貴明は決めていた。交番の前に立ち止まった過去がある。出頭するか、と悩んだが、どうかなされましたか、と警察官の間抜けな言葉で気が削がれた。
――それに、今は大事な家族がいる。
下唇を噛み締めた。この生活を崩すわけにはいかない。バックミラーには、厳しい険を含んだ自身の顔が隅に映りこんでいる。
サイドブレーキを外して、ギアを変える。アクセルを踏めば、クルマは走り出した。山を越えれば、家族がいる。その前に麓の森を抜けなければならない。
――いつもの道だ。
貴明はいつも険しい眼差しを向けて、家路を急いだ。
ただ、唇は十年前の愉悦を思い出し、笑みを堪えることができなかった。