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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

賞味期限切れの恋

作者: 榎本 みどり




「ねえ、これ賞味期限切れとるけど」


 冷蔵庫に頭を突っ込んでいた先輩が指差した先にあるのは、たしかにここ数ヶ月触っていないものばかりだ。


「早く食べないと腐っちゃうよ」


 そうだね、とあたしは笑う。忘れていたわけではなく、あえて触れようとしなかったことは先輩には黙っておくことにした。



 冷蔵庫から先輩が選りすぐりのをひとつ取り出したそれは桜色のまだ固い感情だ。昨年あたしからこぼれ落ちたそれは最後に見たときよりも瑞々しさは失われていたものの、先輩の手の中でぬらぬらと照り輝いている。何度見ても気味が悪い。

 生みだされてすぐに製造主によって乱暴に冷蔵庫に放り込まれ、行き場を無くした感情たちが誰かに取り出されるのを待っていたようにも見えた。



「これ、食べていい? 美味しそう」


「いいよ、家に置いといても余るだけだから」


 許可を得るなり先輩はうれしそうにあたしの感情を頬張った。


 感情はそう簡単に吐き出されることはない。気持ちが高ぶったときや堪えきれなくなったときに自然と口からこぼれ落ちていく。低温で保存しておけば半年くらいは保つけれど、常温で放置しているとすぐに溶けて消えてしまう。アイスクリームとゼリーを足して二で割ったような食感だとよくきくけれど、あたし自身はまだ一度も食べたことはない。

 本来なら自分の感情は製造主が責任を持って食べるか捨てるかして処理するのが普通だけれど、先輩はあたしの感情を食べるのがよほど好きらしい。学校内で不意にこぼれ落ちたものだけじゃ飽き足らず、こうして自宅にまで押しかけてくる。

 食い意地がはっているというか意地汚いというか。毎週のようにやってきては冷蔵庫を漁られる後輩の身にもなってほしい。ほとほと困ったものだ。


 胸に閉じ込めておきたい気持ちも、こうして形あるものとして現れてしまうんだから損な世の中になったものだ。

 数百年前までは、人間は自分の感情を胸の中に入れっぱなしにすることができていたらしい。小学校の理科の授業中に雑談としてきいたことがある。それでも進化の過程で個人の感情が成長しすぎて抑えきれずに具現化してしまうようになったようだ。

 感情の吐き出しやすさには個人差があるけれど、あたしは割と頻繁なほうらしい。面倒な生理現象を増やしてなにが進化だと小学生時代に友達と憤ったのを思い出した。


「あたしの感情、そんなに美味しい?」

「美味いけど、いつも貰ってる感情よりも古いからかな。なんか固くてしょっぱい」


 そっか、しょっぱいか。

 先輩への気持ちを自覚したのは、先輩の口の中へ消えていったさっきの感情が初めてこぼれ出たときだ。固くて表面はざらついているのに妙につやめいていて、そのアンバランスさに吐き気がした。

 先輩は口をもぐもぐとせわしなく動かしながら片手でスマホを弄っている。本人の気も知らずに無邪気なものだ。

 ちらりと覗き見た先輩のスマホカバーはシンプルなステンレス製。そのくせそんな味気ないカバーには不釣り合いなほどカラフルなプリクラが無造作に貼られている。これもまたアンバランスだ。

 無論、そのプリクラに映っているのはあたしじゃない。だれかも知らない軽薄そうな男の人だ。その隣であたしにはたまにしか見せない満面の笑顔を浮かべている先輩に、オトコ見る目ないのかよと心の中で毒づく。


 この感情が届かないことを、この思いが成就しないことを自分の身体はすでにわかっているんだ。それなのに、あたしはあがいて飽きもせずこんな感情をぽろぽろこぼしている。ひどくみじめで、滑稽だ。

 自分から溢れたそれを見ているのも嫌になって、でも跡形もなく消えてしまうのはもっと辛くて、冷蔵庫の奥に仕舞い込んだ。それを先輩が今、あたしの目の前で夢中になって頬張っている。届くはずもない気持ちが次々と先輩の身体に吸い込まれていく。

 いくら鈍感な彼女でも、舌先に感じるその塩気の意味に少しは気づいてくれるだろうか。



「冷蔵庫がいっぱいになるくらいに感情の溢れ出す相手って、いったい誰なのさ」


 あらかた冷蔵庫が空になってきたころ、ようやくお腹も落ち着いてきたのか先輩が話しかけてきた。

 今あたしの目の前にいるよ、そう答えたい気持ちをぐっと堪える。


「先輩の知らない人」


 そんなふうにわざとぶっきらぼうに答えれば、それ以上彼女が追求してくることはない。

 しかし、今日は違った。


「それってさ、報われない思いなわけ?」


 その言葉に心臓がびくんと跳ねた。今それを、このタイミングであなたが言うのか。


「まあね、でもいいんだ。その人もうすぐ結婚するみたいだし」


 とっさに思いついた嘘を口にする。いぶかしげにこちらをみつめる先輩の視線に耐えきれなくて、思わず目を逸らした。

 まるで逃げてるみたいじゃないか。

 そばにいたい、この関係を壊したくない。でも気づいてほしくて、認めてほしくて、先輩にとってはなんの意味も成さないこの感情をあたしは特別な意味をこめて彼女に食べさせる。


 美味しいという言葉が、先輩にとってはただの感想でも、あたしの気持ちをわかってくれたような、まるごと包み込んでくれたような気がして嬉しかったんだ。

 でもこの気持ちを告げてしまえば、先輩はきっともう話しかけてはこないだろう。ましてや特別な意味で好意を抱いている人間の感情なんて口にすることすらしてくれない。

 あたしの望みは先輩と一緒に過ごす時間、ただそれだけ。

 だからこの感情の意味を決して言葉にすることはない。でも物理的にこぼれ出るそれは正直だから、予防線を張って彼女に気づかせないようにしなきゃいけないのだ。

 そうしてこの嘘を正当化して、今度はきちんと先輩の目を正面から見据えた。

 ゆるりと流れる穏やかな空気があたしらのまわりを包んでいた。その静けさのなかに時計や古びた冷蔵庫の無機質な音だけが確かな存在感を放っている。

 沈黙を破ったのは先輩のほうだった。


「あのさ。こんなこと言われたらあんたにとっては不快かもしれないけど、あんたの感情はけっこうおいしいよ。だから……無駄じゃないと思う。少なくとも、小腹の空いた私にとってはすごく有り難いし」


 そう言って先輩は屈託なく笑った。

 不器用な彼女なりの慰めらしい。沈黙の間ずっとあたしになんて言うかを考えていたんだろう。その気遣いや優しさに逆に胸が痛くなる。

 そういえば、いま食べているものが十年後の自分の身体を作るとどこかできいたことがある。この思いが通じなくても、十年後の先輩の身体をあたしの感情で構成できるのなら、それはそれでいいかもしれない。



 ——ぽろり。

 不意にフローリングに転がったそれは、紛れもなくあたしの感情だ。青みがかった桜色のそれはいつものよりもくすんで見える。

 手にとって触れてみるとまだ温かい。表面はざらついているくせに光に反射して妙につやめいていた。


「あっ……」


 ぱくり、と一口に頬張る。手を伸ばしかけていた先輩が息を呑むのがわかった。

 初めて食べた自分の感情はほろ甘いのにどこか苦くて、ざらついているのに噛み締めれば不思議と水気が多かった。



「……しょっぱい」



 明るく笑顔をつくろうとしたけれど、目の前の先輩はなぜかぼやけて見えた。

 はつ恋はきっと涙の味、そんな言葉を不意に思い出す。

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